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--会議室3 [講義ノート]:講義、法話、仏教書籍の感想やノート -- 00001 00/12/12 11:01 Eisai 新規ボード開設趣旨 [講義ノート]:講義、法話、仏教書籍の感想やノート・・・のボードを開設致しま す。
要は、講義や法話で聴いたこと、仏教書籍を読んで得たものを共有あるいは討議で きないかと考えたのです。目的を箇条書きにすると、
・感動や目から鱗という体験を共有する ・疑問や理解できなかったことを討議して理解を深める ・講義の要旨を書き込んで一種のデータベースにならないかという試み ・講師や書籍の評価
といったところでしょうか。 まだまだあるでしょうが、上記のようなことを考えています。
どうぞ、お気軽にお書き込み下さい。
管理者モード
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00002 00/12/13 23:58 master 質問いたします ・感動や目から鱗という体験を共有する に関して
この世の中ではまだ科学的に確認されていないことが沢山ありますが そのような中で、心霊的な現象や俗に言う口寄せなどのこともコメント して良いのでしょうか?
あまりにもかけ離れますか?
00003 00/12/14 08:53 Eisai RE:00002 このボードの趣旨 このボード
bodhi.3 (mes3) [講義ノート]:講義、法話、仏教書籍の感想やノート
は、文字通り仏教の講義・法話・書籍に関する感想やノートということにしたいと思 います。
たとえ、心霊現象や口寄せなどの御発言にしてもその範疇であれば何の問題もあり ません。 ただ、法話といっても
結論が仏教の目的に添っていない
ものが少なくありません。 霊魂だとか、おまじないだとかに終始して、笑って泣かせるだけで釈尊不在の話で あれば、厳密には法話でないかも知れません。もし、そのようなものだったら、
bodhi.1(mes1) [メイン]:仏教全般 自己紹介 随想 時事など
にお願いします。 どちらにしても、お気軽に書いて下さいね。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00004 00/12/21 09:20 Eisai 煩悩を滅する・・の誤解? 仏教の根本中の根本に「四諦」がありますが、四諦は「佛教語大辞典」(中村元)P5 24 a によると
苦諦 この世は苦であるという真実 集諦 苦の原因が煩悩・妄執であるという真実 滅諦 苦の原因の滅という真実 道諦 さとりに導く実践という真実
ということです。
平たく言えば、この世は苦しみに満ちていて、その原因は煩悩である。煩悩を滅す れば苦しみを克服できますよ。それには正しい修行をしなさい。そのようなことです。
問題は滅諦です。
煩悩を滅する
この言葉を私は現実の自己に結びつけることができず、仏教入門の当初に習う事柄 でつまずいた記憶があります。これは小乗仏教(部派仏教)の乞食(こつじき)をする 修行僧にのみできる修行で、私たち現代の日本人にとっては机上の理想論だなどと思 っていました。そもそも、36℃の体温を維持している限り煩悩など無くなるという ことは考えにくいからです。とくに私のような凡人には・・・。
ところが、先日ふと聴いたカセットテープに、数年前のNHK教育TVの中村元先 生(故人)と奈良康明先生の対談がありました。その中で滅諦の「滅」の原語は nir odha(ニローダ) で、「せき止める」「制止する」という意味であるということで した。中国人が「滅」と訳したのは必ずしも誤訳ではないが、煩悩を野放図にしては ならないという意味だと仰っておられました。 そうなれば、日本人にとって理想論ではなく逆に耳を傾けるべき法門となります。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00005 00/12/21 12:29 YAM RE:00004 煩悩を滅する・・の誤解? Eisai さま
> 煩悩を滅する
> ところが、先日ふと聴いたカセットテープに、数年前のNHK教育TVの中村元先 > 生(故人)と奈良康明先生の対談がありました。その中で滅諦の「滅」の原語は nir > odha(ニローダ) で、「せき止める」「制止する」という意味であるということで > した。中国人が「滅」と訳したのは必ずしも誤訳ではないが、煩悩を野放図にしては > ならないという意味だと仰っておられました。 > そうなれば、日本人にとって理想論ではなく逆に耳を傾けるべき法門となります。
藤田宏達先生の「原始仏教における涅槃」(『印度学仏教学研究』37巻1号) によれば 一般に涅槃の原義を「煩悩の火を吹き消すこと」と説明しているが, しかし実際には「吹く」という意味はなく,これをたとえば蝋燭の 火を吹き消すようなイメージで解するのは不適当といわなければならない. 漢訳でもnibba^na(ニルヴァーナのパーリ語形)を意訳する場合には 「滅」「寂滅」「滅度」などとあてており,「吹く」という意味はまったく 示していない. 小川一乗先生の『大乗仏教の根本思想』(法蔵館)によれば, 私たちは,ニルヴァーナが「蝋燭の火をふっと吹き消した状態」と言われた ときに,その吹き消すことに重点をおいて,吹き消すと言うことだけを涅槃の 内容としてしまったものですから,煩悩を取り払ったのが涅槃であると考えて しまったわけです.ところが,そのように煩悩を断除した,煩悩を取り払った ところに涅槃があると言うことではないのであって,(中略) アートマンの存在を否定することにより,無明による輪廻転生から解放され, そこに安らぎを得た,それが涅槃ということです.(中略) 涅槃は,個体存在としての自分が何らかの状態になる,即ち,煩悩を除去した 状態になると言うことではなく,自己存在の真実が明らかになり,安心して 生きられると言う事実が明らかになった時の世界を表明したものであります. 死が不死となり生が不生となった世界であります.
大乗仏教でいう「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「不断煩悩得涅槃」ということの 意味は,上記により明らかになります.ところが煩悩を実体的なものと考えて しまうと,どうしても「灰身滅智」的な方向にいかざるをえなくなってしまい ます.釈尊の基本的立場は,藤田先生も指摘しておられますが,涅槃はあくまでも この世で得られるもの=「現法涅槃」ということでしょう. そう考えていくと,はたして「有余涅槃」「無余涅槃」の別を立てることに 何の意味があるのか,まったく無意味ではないか,という気もいたします. おそらくこれは仏教本来の教えではなく,バラモン教あたりで「生前解脱」 「離身解脱」の別を立てることから来た影響ではないでしょうか.
YAM
P.S.ホームページを開設しました.日本語で読めるところもありますので もしよろしければ覗いてやってください. http://www13.u-page.so-net.ne.jp/wa2/syam-z/budhismo.indekso.html
00006 00/12/23 09:16 Eisai RE:00005 蝋燭は消すのか消えるのか YAM さん、こんにちは。
> 藤田宏達先生の「原始仏教における涅槃」(『印度学仏教学研究』37巻1号)
> 一般に涅槃の原義を「煩悩の火を吹き消すこと」と説明しているが, > しかし実際には「吹く」という意味はなく,これをたとえば蝋燭の > 火を吹き消すようなイメージで解するのは不適当といわなければならない.
不勉強で吹き消すという表現は知りませんでした。 蝋燭が自然と消えるように・・・という表現は見聞したことはありましたが・・ ・。 どちらにしても、nirodha なのですね。
> P.S.ホームページを開設しました.日本語で読めるところもありま > すのでもしよろしければ覗いてやってください. > http://www13.u-page.so-net.ne.jp/wa2/syam-z/budhismo.indekso.html エスペラント語ですか~。しかも、お経のエスペラント訳まで・・・。凄い!
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00007 00/12/23 10:37 Eisai RE:00005 アートマンの否定 > 小川一乗先生の『大乗仏教の根本思想』(法蔵館)によれば,
> しまったわけです.ところが,そのように煩悩を断除した,煩悩を取り > 払ったところに涅槃があると言うことではないのであって,(中略) > アートマンの存在を否定することにより,無明による輪廻転生から解 > 放され,そこに安らぎを得た,それが涅槃ということです.(中略)
アートマンの存在を否定したことが述べられている原始仏教経典はどこにあるので しょうか。どなたか御存知ないでしょうか。 アートマンを否定しつつも輪廻転生を否定しないということは、輪廻転生の主体は 何なのでしょうか。 アートマンについてわかったようなわからないようなというのが私の正直な感想で す。
アートマンを否定して無明の障りを克服したとしても、煩悩の要素たる貪瞋癡の癡 を克服しただけで、貪欲と瞋恚とが残りますよね。よ~わからん。勉強します。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00008 00/12/23 10:54 Eisai RE:00005 そもそも涅槃とは > 涅槃は,個体存在としての自分が何らかの状態になる,即ち,煩悩を > 除去した状態になると言うことではなく,自己存在の真実が明らかにな > り,安心して生きられると言う事実が明らかになった時の世界を表明し > り,安心してたものであります.
上記がわかるような気がします。伝統や特殊な教義にとらわれることなく、人間を あるがままに観察して安心立命の境地を得る智慧をお釈迦様(歴史的人物としての ゴータマブッダ)は説かれたのでしょうか。
> はたして「有余涅槃」「無余涅槃」の別を立てることに何の意味があ
初期大乗の法華経には無余涅槃の語が見えますね。生きているときは有余涅槃で、 入滅したら無余涅槃あるいは般涅槃ということなのでしょうか。
ここ数日、スッタニパータなどパーリー語原始仏典(中村元訳)を読んでいます が、ちょうど昨日読んだ場所に、
如何なる所有もなく、執着して取ることのないこと、これが洲(避難所) にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死の消滅 である。 ※『スッタニパータ』 1094 学生カッパの質問
とありました。バラモンの学生の質問に対する回答ということもありましょうが、 「如何なる所有もなく」を額面通り受け取ると現実には厳しいですよね。諸法無我と 諸法無我を覚った(覚ろうとする)というように会通できないでしょうか。そう理解 できるかどうかで、末法・異国の凡夫には「有余涅槃」「無余涅槃」の別を立てる必 要があるかも知れません。
※岩波文庫 「ブッダのことば スッタニパータ」 中村元訳 P231
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00009 00/12/23 17:32 YAM RE:00006 蝋燭は消すのか消えるのか Eisaiさま > 不勉強で吹き消すという表現は知りませんでした。 > 蝋燭が自然と消えるように・・・という表現は見聞したことはありましたが・・
例えば,『新佛教辞典』(誠信書房)には,「涅槃」の項の冒頭に 「吹き消すこと,または吹き消した状態」とあります.
> どちらにしても、nirodha なのですね。
サンスクリットの nirodha は「消滅」の意味ではなく「抑制・コントロール」 の意味であると,これは中村先生や紀野先生のみならず,最近の学者の定説みたい ですね. しかしこの「抑制」とはどういうことでしょうか? おそらく釈尊は煩悩を抑制しようとして6年間苦行をし,肉体を虐め抜いて 煩悩のはたらきを押さえ込もうとしたのでしょう.しかし,釈尊はそれでは 悟りが得られないことを知って禅定に入られたわけでしょう.
『スッタニパータ』には 汝が最高の真理(不死・涅槃)を知るならば,それによって汝はこの 煩悩の流れを渡るであろう.(1064 c-d) 「そこには何ものも存在しない」と思うことによって,煩悩の流れを 渡れ.(1070 c) とあります.それが現法涅槃でしょう.
このことをより明確にしたのが龍樹であると思います. 何ものも断ぜられることなく,あらたに得ることもなく,断滅でなく 常住でなく,滅することなく,生ずることのない,これがニルヴァーナ であると説かれる. (中論偈 25章第3偈)
煩悩なるものの実体は存在しない(空である),縁起である,だから 煩悩即菩提ということも成立するわけでしょう. 煩悩を否定するのでなく,止揚することが菩提ということなのでしょう.
いじょうのことから,私は煩悩のコントロール・抑制とは,「抑制しようと 努力すること」によって得られるものではなく,如実知見によって実現される ものだと思います.
> エスペラント語ですか~。しかも、お経のエスペラント訳まで・・・。凄い!
法華経を翻訳したのは,浅野三智という,故人ですが,真宗の僧侶です(^^;; 専門家じゃないんで,まちがいもたくさんあるかも...
YAM
00010 00/12/24 09:23 YAM RE:00007 アートマンの否定 Eisaiさま
> アートマンの存在を否定したことが述べられている原始仏教経典はどこにあるので > しょうか。どなたか御存知ないでしょうか。
釈尊はアートマンは存在しないという命題を積極的に主張したわけではありません. 典型的なのは「これは我がアートマンではない」というフレーズです. たとえば,マッジマ・ニカーヤ35:20 「人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか」 「無常です,大徳」 「それでは無常なものは苦であるか楽であるか」 「苦です,大徳」 「それでは,無常であり苦であり変異するものを,これは我がものである. これは我である.これは我がアートマンである,ということは正しいだろうか.」 「いいえ,大徳」 この後,受想行識についても同じ問答が繰り返されます. ここから分かることは,まず一切は無常である,故に一切は(恒常とされているはず の) アートマンではあり得ない.よって経験されうる範囲においてはアートマンは認めら れない. こういう論理です. 一方で,いわゆる無記との関係はどうか,ということが,私には長い間理解できません でしたが,今は次のような理解をしています. つまり経験世界を超えた形而上学的命題(アートマンの存在や世界の無限性など) については沈黙を守ったわけです. したがって釈尊の言い方によれば 「アートマンはそもそも存在しない」 というよりも 「どこにも(形而下の世界においては)アートマンは見い出されない」 という方が正確でしょう.
> アートマンを否定しつつも輪廻転生を否定しないということは、輪廻転生の主体は > 何なのでしょうか。
唯識派によればアーラヤ識,説一切有部によれば法体ということになります. これは以前にも話題になりましたね. しかし私は,これは釈尊がおっしゃっておらず,逸脱した見解であろうと思います. すなわち,アートマンを否定する以上,輪廻転生も(少なくとも実体的なものとして は) 否定されざるをえません.ところが釈尊以後,無我についてはこれをどうしても 否定できないという建て前があり,その一方でヒンドゥーイズムに引き摺られて 輪廻を認めてしまった.その論理の整合性を繕うためにかなり苦しい説明を しようとしたことは『ミリンダパンハ』でも見て取れます. 輪廻を否定する私はおそらく少数派だと思いますが,唯識学者の竹村牧男先生で さえ,『唯識の構造』(春秋社)において 生死輪廻の説が釈尊自身にあったのかどうかは必ずしも明らかでない.むしろ なかったのかもしれない.しかしその後の仏教は,生まれ変わり死に変わりする ことを当然のこととして,その教学を組み立てていった. と書かれています.これが学者の良心というものでしょう. そういうことを考えてみますと,このような批判的な物言いが許されるかどうか 分かりませんが敢えて言わせていただくならば,チベット仏教ゲルク派ダライラマ の輪廻転生は完全に逸脱であると思います.私はツォンカパの思想は分からないので 輪廻を認めるのが元々のゲルク派の教義であったかどうかは分かりませんが.
> アートマンについてわかったようなわからないようなというのが私の正直な感想で > す。
これを「自我」(デカルトの「我思うゆえに我あり」に象徴されるような,知的活動の 主体)と訳すことは混乱の元で,今の日本人やキリスト教徒がいうところの「魂」 「霊魂」と訳すべきだろうと思います.
> アートマンを否定して無明の障りを克服したとしても、煩悩の要素たる貪瞋癡の癡 > を克服しただけで、貪欲と瞋恚とが残りますよね。よ~わからん。勉強します。
無明の克服とは八正道の実践にほかなりません. サンユッタ・ニカーヤ45:1によれば 友よ,かの聖なる道こそはこの無明を捨棄する道である.それは即ち,正見... また,引用が長文になるので略しますが,同じくサンユッタ・ニカーヤ22:84 では,比喩を用いて,八正道を歩むことが(1)無明(2)諸欲(3)忿怒・憂慮 の克服であることが説かれています. したがって,三毒の克服は別々の方法によるものではなく,一つながりのものと みるべきでありましょう.
00011 00/12/24 09:23 YAM RE:00008 そもそも涅槃とは Eisaiさま
> 如何なる所有もなく、執着して取ることのないこと、これが洲(避難所) > にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死の消滅 > である。 ※『スッタニパータ』 1094 学生カッパの質問 > > とありました。バラモンの学生の質問に対する回答ということもありましょうが、 > 「如何なる所有もなく」を額面通り受け取ると現実には厳しいですよね。
禅宗でよく「本来無一物」と言われるようですが,無所有と言うことは,何も所有し ては ならないという意味ではなく(もしそういう意味だとしたら,衣鉢の所有さえ許されぬ ことになるでしょう),「これは我がもの」という思い,執着心がないことをいうので しょう.これはエゴの肥大化を許さぬ原理だと思います.エゴの肥大化の最たるものが 国家主義や民族主義ではないでしょうか.
>諸法無我と > 諸法無我を覚った(覚ろうとする)というように会通できないでしょうか。そう理解 > できるかどうかで、末法・異国の凡夫には「有余涅槃」「無余涅槃」の別を立てる必 > 要があるかも知れません。
ここはちょっと意味がよくとれませんでした.無所有を諸法無我と会通することは 私も同意見ですが,それがなぜ「有余涅槃」「無余涅槃」の別を立てる必要に 結びつくのか,もう少し詳しくお話していただけますか?
00012 00/12/24 10:12 Eisai RE:00009 蝋燭は消すのか消えるのか YAM様
> おそらく釈尊は煩悩を抑制しようとして6年間苦行をし,肉体を虐 > め抜いて煩悩のはたらきを押さえ込もうとしたのでしょう.しかし, > 釈尊はそれでは悟りが得られないことを知って禅定に入られた > わけでしょう.
私もそう習いました。 しかし上座部系には苦行も覚りへの要素となったような解釈もあるようですね。暇 ができたら調べてみます。
> 私は煩悩のコントロール・抑制とは,「抑制しようと > 努力すること」によって得られるものではなく,如実知見によって実現 > されるものだと思います.
如実知見・・・いい言葉ですね。書き初めにしようかなぁ。 あるがままに観ることによって、煩悩が制御される・・・。わかるような気がしま す。 そして、しかめっ面で煩悩を抑制するのではなく、自由で自然な境地で抑制してし まうという感じでしょうか。
> > エスペラント語ですか~。しかも、お経のエスペラント訳まで・・・。凄い ! > >法華経を翻訳したのは,浅野三智という,故人ですが,真宗の僧侶です(^^;; >専門家じゃないんで,まちがいもたくさんあるかも...
英語すら不自由している人間には検証できないです (^_^ ; 大谷探検隊も真宗で・・・法華経も発掘し、ケルンの梵本法華経の英訳を助けた学 者も真宗だと聴いたような記憶があります。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00013 00/12/24 16:28 Eisai RE:00010 アートマンの否定 YAM 様
> 釈尊はアートマンは存在しないという命題を積極的に主張したわけではあり > ません.
すみません。 一番基礎で一番わかりにくい事柄で一番知りたいことなので拘ってしまいました。 本覚論(如来蔵思想)にもかかわってくるそうなので・・・。
> マッジマ・ニカーヤ
上座部系の原始経典でしょうか? わたしの記憶に間違えなければ長部、中部、相応部、増支部、小部のどれかですか ? カタカナの「***ニカーヤ」と漢字の「**部(経典)」の対照表などないので しょうか? どちらにしても和訳を入手できれば欲しいですね。
> ここから分かることは,まず一切は無常である,故に一切は(恒常とされてい > るはずの)アートマンではあり得ない.よって経験されうる範囲においてはア > ートマンは認められない.こういう論理です.
よくわかりました。 そして原始経典から引いて頂いたのはよい勉強になりました。感謝!感謝!
> いわゆる無記
無記 釈尊が他の思想家達から世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同 異、死後の生存の有無など14の形而上学的質問を受け、論争を挑まれたが、沈黙を 守って答えなかったことをいう。〈無記答〉(岩波仏教辞典より)ということです ね。
> つまり経験世界を超えた形而上学的命題(アートマンの存在や世界の無 > 限性など)については沈黙を守ったわけです.
御生前、中村元先生は前述の『マッジマ・ニカーヤ』63経の「毒矢のたとえ」を もってそのことを説明されていました。
> したがって釈尊の言い方によれば > 「アートマンはそもそも存在しない」 > というよりも > 「どこにも(形而下の世界においては)アートマンは見い出されない」 > という方が正確でしょう.
なるほど (._.) φ メモメモ
(仕事ですので中断します)
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00014 00/12/24 17:48 Eisai RE:00010 アートマンの否定 > > アートマンを否定しつつも輪廻転生を否定しないということは、輪廻転生 > > の主体は何なのでしょうか。 > > 唯識派によればアーラヤ識,説一切有部によれば法体ということになります.
本体が過去・未来・現在の三世に亘って実在でするということですね。法体は法の 本体というだけでないのですね。
> しかし私は,これは釈尊がおっしゃっておらず,逸脱した見解であろうと思 > います.すなわち,アートマンを否定する以上,輪廻転生も(少なくとも実 > 体的なものとしては)否定されざるをえません.
> ヒンドゥーイズムに引き摺られて輪廻を認めてしまった
私も一方でそう学んだのですが、『スッタニパータ』のコーカーリア(岩波文庫 ブッダのことば 中村元 P142)の部分には修行僧コーカーリアが地獄に堕ちる話があ りますよね。地獄に堕ちたコーカーリアの魂はやはり法体? これは輪廻では? っ と思ったりしました。
> 『ミリンダパンハ』でも見て取れます.
ミリンダ王の問い・・・『那先比丘経』のことですか?
> チベット仏教ゲルク派ダライラマの輪廻転生は完全に逸脱であると思います.
チベット仏教の講演など聴くと面白いのですが・・・学術的なインド仏教学による 批判の対象になりますね。 もとは対抗するカルマ派が転生仏制度で支持勢力の結集していたそうです。ゲルク 派はそれをとりいれ・・・、歴史的に初代である2世ダライラマの生年にこじつけが あったり、第4代ダライラマにモンゴルのアルタン汗の甥の子を選んだり、偉大な5 世ダライラマもニンマ派出身でニンマ派を吸収しようとしたとか・・・けっこう政治 的な面があるようです。 中国共産党の政策で現代もダライラマが二人になりそうですが、清朝のコントロー ルがあり第6世のダライラマも二人います。おっと長くなりそう・・・。
> 三毒の克服は別々の方法によるものではなく,一つながりのものと > みるべきでありましょう.
よくわかりました。
> サンユッタ・ニカーヤ45:1
45:1 は何を指しているのですか? 『サンユッタニカーヤ』ですが、『ダンマパダ』とともに岩波文庫の中村元訳を書 庫にみつけました。もうすぐ、『スッタニパータ』を読み終えますので次ぎかその次 ぎくらいに読みます。
ありがとうございました。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00015 00/12/25 16:28 YAM RE:00013 アートマンの否定 Eisaiさま
> > マッジマ・ニカーヤ > > 上座部系の原始経典でしょうか? > わたしの記憶に間違えなければ長部、中部、相応部、増支部、小部のどれかですか > ? > カタカナの「***ニカーヤ」と漢字の「**部(経典)」の対照表などないので > しょうか?
とりあえず大分類だけですが パーリ五部 -- 漢訳四阿含 長部(Di^gha-Nika^ya) -- 長阿含経 中部(Majjhima-Nika^ya) -- 中阿含経 相応部(Sam.yutta-Nika^ya) -- 雑阿含経 増支部(An'guttara-Nikaya) -- 増壱阿含経 小部(Khuddaka-Nika^ya) -- (雑蔵)
なお,ニカーヤ(パーリ五部)を含む三蔵(ティピタカ)はセイロン 上座部の伝承によるものです.
> どちらにしても和訳を入手できれば欲しいですね。
高楠順次郎博士による南伝大蔵経が刊行されています. もっとも私はスペースも金もないので所有していませんが 教化センターというところへ出かけて参照します.
> そして原始経典から引いて頂いたのはよい勉強になりました。感謝!感謝!
先の引用は,書き忘れましたが,増谷文雄編訳『阿含経典による仏教の根本 聖典』(大蔵出版)によります.テーマ別に編集されているので便利です.
> > つまり経験世界を超えた形而上学的命題(アートマンの存在や世界の無 > > 限性など)については沈黙を守ったわけです. > > 御生前、中村元先生は前述の『マッジマ・ニカーヤ』63経の「毒矢のたとえ」を > もってそのことを説明されていました。
テーマからそれますが,ヘーゲルは『小論理学』の中で,形而上学批判を展開して いて,その中に次のようにあります. ドグマティズムは,例えば,世界は有限であるか無限であるかであって, 二つのうちの一つでなければならないと言う.思弁的な真理はそうでは ない.それは,このような一面的な規定を持たず,このような一面的な 規定によっては汲みつくされないものである.(中略) かくしてイデアリズムは次のように言うであろう.魂は単に有限でも なければ単に無限でもなく,魂は本質的に両者のいずれでもあり, したがって両者のいずれでもない. (『小論理学』岩波文庫) これは龍樹の有無中道を彷佛とさせる言葉です.「有にあらず無にあらず 有無にあらず,非有非無にあらず」
00016 00/12/25 16:28 YAM RE:00014 アートマンの否定 Eisaiさま
> > ヒンドゥーイズムに引き摺られて輪廻を認めてしまった > > 私も一方でそう学んだのですが、『スッタニパータ』のコーカーリア(岩波文庫 > ブッダのことば 中村元 P142)の部分には修行僧コーカーリアが地獄に堕ちる話があ > りますよね。地獄に堕ちたコーカーリアの魂はやはり法体? これは輪廻では? っ > と思ったりしました。
ダンマパダ(法句経)では「地獄」という章が設けられていて, 悪いことをした者は地獄に行く という,きわめて「分かりやすい」教説が述べられています. 私は根本的には輪廻を否定するものですが,釈尊自身は倫理のレベルで 業報輪廻を語っていたのではないかと想像します.それは,当時の (今でもそうでしょうが)インドの人々が輪廻を信じて疑わなかった 状況の中で,それを敢えて否定することで争論が沸き上がることを 好まなかったのだろうとも想像します. そのように思う理由は,釈尊は地獄の反対に天上世界への生まれ変わり (生天)を説いていることもあるからです.たとえば, 世尊は彼(ヤサ)のために次第をおうて法を説いた.布施を説き, 持戒を説き,生天の法を説き,欲楽の災いを説き,出離の功徳を 説き,(中略)彼に法をよろこぶ心の生じたる時,世尊はさらに 本真の法を説いた. (増谷文雄編訳『阿含経典による仏教の根本聖典』p.41) ここで,「次第をおうて」に着目して下さい.普通の感覚では 生天,天上世界に生まれればそれがゴールであるかのように思うでしょう. しかし,天は六道輪廻の最高地点に位置しますが,それは仏教徒としては ゴールではないわけです.つまり仏教は善悪という倫理のレベルを超えた 宗教だということです.それが「さらに本真の法」ということでしょう. 輪廻の流れを断ち切った修行僧には執着が存在しない.なすべき善と なすべからざる悪とを捨て去っていて,彼には煩悶が存在しない. (スッタニパータ第715偈) これからも明らかなように,仏教の目的は「善悪の彼岸」にあるわけです.
一方で釈尊は明確に業報輪廻を否定する言葉も残しています. それが有名な 生まれによって賎しい人となるのではない. 生まれによってバラモンとなるのではない. 行為によって賎しい人ともなり,行為によってバラモンとも なるのである. (スッタニパータ第136偈) ふつう,この章句は,釈尊がカースト制度を否定し平等を説いた証拠と みる向きが多いようですが,業報輪廻の否定の意味に私はとっています. なぜならば,カースト社会においては,バラモンやシュードラの別は 前世の行為によって決定される,(だから文句を言うな)という倫理 と論理が支配していたわけで,それを否定したということは,前世の 業が現世の地位を決定する,また現世の行為が来世の地位を決定する ということの否定にほかなりません. > > > 『ミリンダパンハ』でも見て取れます. > > ミリンダ王の問い・・・『那先比丘経』のことですか?
はい.平凡社の東洋文庫に邦訳があります. 無我と輪廻が矛盾しないかという話は第1巻のpp.110-112にあります.
> チベット仏教の講演など聴くと面白いのですが・・・学術的なインド仏教学による > 批判の対象になりますね。
私はチベット仏教には疎くて,松本史朗先生の『チベット仏教哲学』(大蔵出版) もなかなか歯が立ちません. ただこの本の後書きによれば,チベット仏教の本質は空の思想であり,『死者の 書』などに見られるような密教的要素は付随的なものである,チベット仏教は 密教にあらず,ということらしいです.
> もとは対抗するカルマ派が転生仏制度で支持勢力の結集していたそうです。ゲルク > 派はそれをとりいれ・・・、 > :
なるほど.ということはツォンカパ自身は輪廻を肯定したわけではないと いうことでしょうか?
> > サンユッタ・ニカーヤ45:1 > > 45:1 は何を指しているのですか?
経典の章節番号のつもりでした(第45章第1節), 南伝大蔵の方で確認してませんが.増谷先生の訳にあったもの によりました.
00017 00/12/27 08:24 Eisai RE:00011 そもそも涅槃とは YAM さん、ここ数日とても勉強になりました。ありがとうございます。
> 禅宗でよく「本来無一物」と言われるようですが,無所有と言うことは,何 > も所有してはならないという意味ではなく(もしそういう意味だとしたら,衣 > 鉢の所有さえ許されぬことになるでしょう),「これは我がもの」という思い, > 執着心がないことをいうのでしょう.
仰るとおりだと思います。
---------- 「わたしには子がある。私には財がある」と思って愚かな人は悩む。しかしすでに 自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財 が自分のものであろうか。 『ダンマパダ』62 岩波文庫「真理のことば・感興のことば」中村元訳 p19 ----------
---------- (何ものかかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらの ありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これ をみて「わがもの」という思いを離れて行うべきである。-諸々の生存に対して執着 することなしに。 『スッタニパータ』777 岩波文庫「ブッダのことば」中村元訳p175 ----------
上記引用も「我がもの」という執着心に対する教示でしょうね。双方とも前後をみ て「何も所有してはならない」とはありませんでした。無所有ではなく「我がもの」 という執着心が問題なのですね。
> これはエゴの肥大化を許さぬ原理だ > と思います.エゴの肥大化の最たるものが > 国家主義や民族主義ではないでしょうか.
肥大化したエゴや執着はかえって動揺や悩みを生み出しますよね。仰るとおりで す。
---------- どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりさらに愛しいものをどこにも見出さ なかった。そのように他の人々にとってもそれぞれ自己が愛しいのである。それ故 に、自己を愛する人は他人を害してはならない。 『サンユッタ・ニカーヤ』 3-1-8 岩波文庫「神々との対話」中村元訳P170 ----------
国家主義や民族主義は、自己に犠牲を強い、他国や他民族を害します。 対して上記経文は、自己が最も愛おしいということをありのままに観察して認め、 他人にとってもその自己が最も愛おしいから他を害するなということでしょう。一神 教の偏狭な原理主義者に普遍的なこととして知らしめたい経文です。
> それがなぜ「有余涅槃」「無余涅槃」の別を立てる必要に > 結びつくのか,もう少し詳しくお話していただけますか?
??? これを書いたときのことを思い出せません。 前言撤回致します。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00018 00/12/27 21:16 Eisai RE:00015 ヘーゲルと否定表現 > 高楠順次郎博士による南伝大蔵経が刊行されています. > もっとも私はスペースも金もないので所有していませんが > 教化センターというところへ出かけて参照します.
ひぇー・・・全何十巻何十万円っていうタイプでしょうか。 私も図書館で閲覧することにします。(^_^ ;
> 増谷文雄編訳『阿含経典による仏教の根本聖典』(大蔵出版)によ > ります.テーマ別に編集されているので便利です.
テーマ別はありがたいですね。
> かくしてイデアリズムは次のように言うであろう.魂は単に有限でも > なければ単に無限でもなく,魂は本質的に両者のいずれでもあり, > したがって両者のいずれでもない. > (『小論理学』岩波文庫) > これは龍樹の有無中道を彷佛とさせる言葉です.「有にあらず無にあらず > 有無にあらず,非有非無にあらず」
ドイツのヘーゲル(1770~1831)はインド思想について知っていたのでしょうか? 私は哲学用語に全く疎いのですが、イデアリズムとはギリシャでしょうか。 ギリシャとインドは交渉がありましたよね。
龍樹に限らずインド人は否定表現が好きみたいですね。 中村元選集第一巻「インド人の思惟方法」第三章 否定的性格 には、
否定的表現は、大乗経典にいたっては極端に豊富となる P67
絶対者はただ否定的な表現によってのみ表現されうる。般若経典が そうであるし、ヴェーダーン哲学(不二一元派)もそうである。 P71
など・・・。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00019 00/12/27 21:16 Eisai RE:00016 輪廻そしてチベット仏教 > ここで,「次第をおうて」に着目して下さい.普通の感覚では > 生天,天上世界に生まれればそれがゴールであるかのように思うでしょう. > しかし,天は六道輪廻の最高地点に位置しますが,それは仏教徒としては > ゴールではないわけです.つまり仏教は善悪という倫理のレベルを超えた > 宗教だということです.それが「さらに本真の法」ということでしょう.
説法の次第で、一種の方便(巧みな手段)ですね。 よくわかりました。
ただ、対告衆ヤサは出家ですか在家ですか? 釈尊は在家に対して生天を説いたという話も聴いたことありますので・・・。
> これからも明らかなように,仏教の目的は「善悪の彼岸」にあるわけです.
こころにとどめておきます。
> 生まれによって賎しい人となるのではない. > 生まれによってバラモンとなるのではない. > 行為によって賎しい人ともなり,行為によってバラモンとも > なるのである. > (スッタニパータ第136偈)
私も好きな偈文です。
> 釈尊がカースト制度を否定し平等を説いた証拠とみる向きが > 多いようですが,業報輪廻の否定の意味に私はとっています.
仰るとおりだと思います。理解が深まりました。
> ただこの本の後書きによれば,チベット仏教の本質は空の思想であり, > 『死者の書』などに見られるような密教的要素は付随的なものである, > チベット仏教は密教にあらず,ということらしいです.
松本史朗先生ですか・・・。「***は***にあらず」がお好き?なのでしょうか。 (^_^ ; 密教の厳密な定義があり、それによって密教に見えて密教でないということでしょ うか。 チベットの宗派によっては密教に深く傾倒しているものもあるようですし、チベッ トの仏像を見ると密教にしか思えなかったりするのですが・・・。 厳密にいえば「大日如来によって説かれた仏教」のみが密教なんでしょうか。
余談になりますが、チベット仏教は私も仏教大学の先生の講演を数回受けたに過ぎ ません。 ただ、去る10/18に仏教大学四条センターでチベットの僧院学堂長のツルティムプ ンツォク師という方の講演を受講しました。ダライラマに選出された方ですからゲル ク派でしょうか。チベット仏教の僧侶を3名を引き連れてこられていて、チベット仏 教の短い法要と問答などを見られて興味深かったです。 「チベット僧院における修行階梯」という講題だったのですが、最初は顕教を習っ て後に密教を学ぶというような話をされていました。それが付随的なものなのかどう か・・・。
その時のノートが出てきませんが、別の資料によると
因明学の基礎 般若学 中観学 律学 倶舎学 博士課程
の順に進んで行くようです。講義配付資料のため出典不明。 これをみると、確かに論理学を教わった後にみっちり般若経と中観仏教を学ぶなど 空仏教は重視されていますね。
> なるほど.ということはツォンカパ自身は輪廻を肯定したわけではないと > いうことでしょうか?
ツォンカパ(1357~1419)はゲルク派の開祖ですが、岩波仏教辞典によると、中観派 の宗教哲学と厳格な持律主義により、チベット仏教を改革とあります。
ツォンカパはサキャ派やカダム派の教学を修行時に習得して、哲学的には帰謬派の 中観哲学を、修道体系としてはカダム派所伝のラムリム(道次第)を、密教修行では 聖者流のグヒヤサマージャ(秘密集会)タントラを最高のものとする仏教の一大体系 をうち立てたと、受講資料にあります。
アティーシャの『菩提道灯論』の影響で、ツォンカパには「仏教徒は体系である」 という信念があったようで、仏教のすべてを選んで体系化したということです。現在 から約600年前の当時の仏教をすべて選んでいたとしたら輪廻なんてことも含まれ ていても不思議ではないようですね。どのように体系づけたかはともかくとして・・ ・。
> > > サンユッタ・ニカーヤ45:1 > > > > 45:1 は何を指しているのですか? > > 経典の章節番号のつもりでした(第45章第1節),
岩波文庫の中村元訳を見て納得しました。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00020 00/12/28 11:13 YAM RE:00019 輪廻そしてチベット仏教 Eisaiさま
> ただ、対告衆ヤサは出家ですか在家ですか? > 釈尊は在家に対して生天を説いたという話も聴いたことありますので・・・。
この時点では在家です.しかし彼は本真の法を聴いて出家しました. ヤサが出家を希望した時,両親は反対して,釈尊に「息子を返してくれ」 と直談判に及ぶわけです.釈尊は両親を説得して出家させましたが, おそらく説得はそれほど容易なことではなかったでしょう. ちなみにヤサは(釈尊自身も含めると)7人めの出家者ということに なります.サルナートで初転法輪した5人の仲間の次,ということですね.
> 松本史朗先生ですか・・・。「***は***にあらず」がお好き?なのでしょうか。 > (^_^ ;
松本先生の立場は「縁起だけが仏教である」ですから,当然,縁起説にあわないもの は仏教にあらず,となるでしょう.
> 密教の厳密な定義があり、それによって密教に見えて密教でないということでしょ > うか。
どうも,厳密に定義しているわけではなくて,神秘主義的傾向の意味で使って おられると思います. 『チベット死者の書』が流行りましたね.それで,多くの日本人が,チベット仏教と いうと,どうしても神秘主義的イメージで受け取ることに我慢できず,本来のチベット 仏教はきわめて知的なものである,と強調する意図ではないでしょうか.
> チベットの宗派によっては密教に深く傾倒しているものもあるようですし、チベッ > トの仏像を見ると密教にしか思えなかったりするのですが・・・。
例の阿含宗というのはニンマ派の影響があるのでしょうか. 桐山さんは高野山じゃないどこかの真言宗の出身でしたね.
> 因明学の基礎 > 般若学 > 中観学 > 律学 > 倶舎学 > 博士課程 > > の順に進んで行くようです。講義配付資料のため出典不明。
博士課程というのが何を学ぶのか分かりませんが,けっこう厳しいですね. ○○3年倶舎8年とか言いませんでしたっヶ?(あれ?桃栗3年柿8年? 忘れてしまったけど,とにかく倶舎は難しそう...)
> アティーシャの『菩提道灯論』の影響で、ツォンカパには「仏教徒は体系である」 > という信念があったようで、仏教のすべてを選んで体系化したということです。現在 > から約600年前の当時の仏教をすべて選んでいたとしたら輪廻なんてことも含まれ > ていても不思議ではないようですね。どのように体系づけたかはともかくとして・・ > ・。
この辺りが日本の鎌倉新仏教とはまったく逆の方向へ行ったということでしょうか ね?鎌倉仏教は「選択」,チベット仏教は「体系化」という括りでは乱暴すぎる かしらん. 上のコースを全て学ぶと言うのはスゴイもんだと感心させられますね.ただ 私自身についていえば,とてもついていけそうにありません.
00021 00/12/28 11:13 YAM RE:00018 ヘーゲルと否定表現 Eisaiさま
> ドイツのヘーゲル(1770~1831)はインド思想について知っていたのでしょうか?
ヘーゲルには,東洋思想について言及した箇所もあったと思うのですが, 今思いだせません.私のうろ覚えでは,それほど高い評価は与えていなかった ようです. エンゲルスには次のような言及があります. 弁証法的思惟は--まさにそれが概念の本性それ自体の研究を前提とするが故に --人間にのみ,しかも比較的高度の発展段階(仏教徒とギリシア人)において のみ,初めて可能なのであって... (『自然の弁証法』) ただ,この時代にヨーロッパに紹介されていた仏教文献はパーリ語からの翻訳 がほとんどで,大乗仏教はあまり知られていなかったのではないでしょうか. もっと後に,カール・ヤスパースは龍樹を「東洋のヘーゲル」と評したとか.
> 私は哲学用語に全く疎いのですが、イデアリズムとはギリシャでしょうか。 > ギリシャとインドは交渉がありましたよね。
イデアリズムはふつう「観念論」と訳されることが多いのですが,ヘーゲルの それは単純な観念論に収まらないので,なかなか難しいです((・_・?) 古代ギリシアの哲学からヨーロッパの哲学が展開したということは言えますが, そこにインド思想が反映しているとは言えないと思います. ただ,洋の東西をとわず,人類思想にはある程度共通なものが見られるので, そこが比較思想のおもしろさなんでしょう. 例の三諦についていうと, 空 -- 本質 仮 -- 現象 中 -- 現実性 と対照できるのではないかと思います. そしてヘーゲルは本質->現象->現実性の順に,否定を媒介として概念が 自己展開すると考えました.これがいわゆる「否定の否定」「止揚」と いわれるものです.
> 龍樹に限らずインド人は否定表現が好きみたいですね。 > 中村元選集第一巻「インド人の思惟方法」第三章 否定的性格 には、 > > 否定的表現は、大乗経典にいたっては極端に豊富となる P67 > > 絶対者はただ否定的な表現によってのみ表現されうる。般若経典が > そうであるし、ヴェーダーン哲学(不二一元派)もそうである。 P71
般若経典の中には 非有,非無.非非有,非非無.非非非有,非非非無... とどこまでも否定を重ねていくものがありますね. 否定表現と言うのは,概念の実体化を防御する(つまり,「無」なる ものが実体的に存在するわけではないということを分からせるため) 役割をもっていたのでしょう.それはインド人が否定表現を好むと いうよりも,ヨーロッパの哲学でいう「弁証法」「止揚」という ような便利な用語がなかったから仕方がなかったとも思えます. 龍樹はこれを「中」と表したのですが,これも言葉のイメージに 引き摺られて誤解されやすい用語ではありますね. なんとなく,両極端の中間,というようなイメージですか. 「中道路線」とかね(^^;;
00022 01/01/07 22:20 Eisai 百八煩悩の108とは 謹賀新年
除夜の鐘がなってから早一週間経ちました。私のホームページのゲストブックに百 八煩悩のそれぞれについてわかるか?という質問が来て調べました。なむ野本さんに 頂いたデータが役立てて『阿毘曇毘婆沙論』に数分でたどり着きました。このボード (mes3)
[講義ノート]:講義、法話、仏教書籍の感想やノート
は、有用なデータや情報の共有を目指しておりますのでその箇所を引用したく思いま す。
ところで、『阿毘曇毘婆沙論』と『阿毘達磨大毘婆沙論』とは同じなんでしょうか? ともかく、百八煩悩をたてた説一切有部の論書ですね。
さて、下記の引用の如く、欲漏41、有漏52、無明漏15の三種に大別し 41+52+15=10 8 とのことです。 欲漏、有漏、無明漏なんて分け方は不勉強で初耳です。
------------------------------------- 阿毘曇毘婆沙論卷第二十六
此三漏體性是何。答曰。有百八種。
欲漏有四十一種。 欲愛有五種。 恚有五種。 慢有五種。 見有十二種。 疑有四種。 纒有十種。 此四十一種。 是欲漏體。
有漏有五十二種。 愛有十種。 慢有十種。 疑有八種。 見有二十四種。 此五十二種。 是有漏體。
無明漏有十五種。 欲界無明有五。 色界無明有五。 無色界無明有五此十五種。 是無明漏體。
此百八種。是三漏體。亦名百八煩惱。 ------------------------------------- T28 P189 a
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00023 01/01/29 15:44 Eisai RE:00022 百八煩悩の108とは 自己レスです
百八煩悩については、
『阿毘曇毘婆沙論卷第二十六』T28 P189 a
に少なくとも三通りの数え方をしているようです。それをここにアップするのは長文 になり何ですので、
http://satya.kosaiji.org/~eisai/temp/108bonno.htm
にアップしました。 御助言や御批判を賜れば幸甚です。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00024 01/03/05 23:52 master お布施について みなさんこんばんわ
六波羅蜜の布施についてですが、そもそも布施というものはどういう事なの でしょうか。 お布施というとお金をすぐに想像します。しかし、最近の宗教界のお布施の あり方は功徳ということはさておき、ものを買うがのごとく値引きを申し出 る方がいます。 また、戒名などのお布施を高いという方がいます。 いったいどうしたものでしょうか。
神社でのお賽銭は、その方の因縁を預けるのだと聞いたことがあります。 あまりにも財を肥やすことばかり考えているお寺さんが多いのかな。 法を説く事が出来ないのかな。 などと考えてしまう今日この頃です。
00025 01/03/06 13:35 Eisai RE:00024 お布施について master さん
> 六波羅蜜の布施についてですが、そもそも布施というものはどういう事なの > でしょうか。
布施はサンスクリット語の dana ということばから来ていて、これに音をあてると 檀那になります。 この言葉は英語の donor(臓器提供者) や donation(寄付) と語源が同じだと中村 元先生が仰っておられました。
財物その他を施し与えることをいうのですが、これは金品だけでなく、法を説くこ と(法施)、怖れをとり除いてあげる〈無畏施〉もあります。笑顔をうかべて和ます ことも布施です。対象も、坊さんや教団だけでなく、たとえば貧しい人に施すのも布 施です。
自分だけ賢くなって豊かになっても幸せになれないから、布施の精神によって生か し生かされる世の中を目指さなくてはならないのでしょうね。
> お布施というとお金をすぐに想像します。しかし、最近の宗教界の > お布施のあり方は功徳ということはさておき、ものを買うがのごと > く値引きを申し出る方がいます。
布施の精神が形骸化しているのでしょうね。
> また、戒名などのお布施を高いという方がいます。 > いったいどうしたものでしょうか。
とくにお布施の相場が高い地域があるようですね。 えっと、驚くような額を聞くことがあります。 このお布施の高騰と、求道者たる僧侶のあり方が、仏教衰退の大きな原因ですから 真剣に考えなくてはならないと思います。
お布施が高いとすれば、どうしてそんな相場になっているのか、お寺側から説明す る必要があると思います。 特に高額なお布施の地域や、高額の寄付をお願いするとき、お寺も会計を透明 (disclose)にしてゆく必要があるでしょうね。
お布施は少ないと寺院の維持経費がままならないし、多いと檀信徒に気の毒です。 そして、その良い塩梅の額をこちらから言うわけにはいかない。難しいですね。
> あまりにも財を肥やすことばかり考えているお寺さんが多いのかな。
そんな坊さんが遷化したら、施餓鬼供養が必要ですね。(^_^ ; もうすぐ、お彼岸です。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00026 01/12/13 19:27 タンマ 原始仏教について、 何回か、読ませていただいております。 仏教ラウンジにははじめての参加です。 私は長い間、約20年ほど、大乗仏教の僧をしておりました。 というより、いまでも、僧でもありますが、あまり、このような欄には 投稿をしないようにしてきました。 というのも、10年前から原始仏教に縁が出来、スリランカの僧に 教えを頂き、実践としてミャンマーの瞑想道場に半年間滞在し、修行し、 それから毎年、ミャンマーへ行って修行をしているものです。 残念ながら、日本にはお釈迦さまの正しい、真理の教えはほとんど、 伝わっていなかったというのが事実のようです。 様々な、大乗の論争がありますが、長部経典、①、梵網経②沙門果経 をまず読んでみてください。 仏教的な間違いはそこで解決するはずです。 ただし、涅槃の論争などは、あまりにも机上の空論であり、実践的には 何等役立つことではないことは、確かです。 それよりも、実際の涅槃のための修行方法である、ヴィパサナ瞑想を 10日間ほど行えば、お釈迦さまの仏教について、少しは理解していただけるかも知 れませんので、ぜひお勧めします。 いきなり、入ってきて、えらそうに言って、多分反発を受けるでしょうが、 だから、いままで何も発言しなかったのですが、 どうぞ、実践を通して、真理を調べてください。 求められるならば、必ず真実はえられます。 原始仏教を学び、そのように修行すれば、日本にも仏教が 伝わるかも知れませんね。
00027 01/12/14 09:41 Eisai RE:00026 原始仏教について、 >何回か、読ませていただいております。
ご投稿を頂きありがとうございました。 私が当ラウンジを開設した理由の一つはこのようなやりとりがしたかったのです。
>というのも、10年前から原始仏教に縁が出来、スリランカの僧に >教えを頂き、実践としてミャンマーの瞑想道場に半年間滞在し、修行し、 >それから毎年、ミャンマーへ行って修行をしているものです。 >残念ながら、日本にはお釈迦さまの正しい、真理の教えはほとんど、 >伝わっていなかったというのが事実のようです。
上座部の方々から見れば、仏滅後100年に根本分裂したといわれる大衆部は既に 異端であり、そこから派生したとされる大乗は非仏説となると思います。ただ、上座 部仏教も龍樹菩薩にいわせれば教義(ドクマ)という形を作ってしまいました。形あ るものは既に普遍性を失い、うつろう主体になってしまったのではないでしょうか。 特に問題となる普遍性は地理的な普遍性です。上座部や大衆部は出家による出家のた めの出家の仏教であり、出家修行者を礼拝供養する文化を持たないインド文化圏を越 えて仏説を中央アジアや東アジアに波及することは不可能であったのではと思いま す。より広く釈尊のみ教えが弘まるには大乗は不可欠であったと思います。
>様々な、大乗の論争がありますが、長部経典、①、梵網経②沙門果経 >をまず読んでみてください。
是非読ませて頂きます。 パーリー語ではなんというお経でしょうか? その和訳があれば探して読みたく思います。
>仏教的な間違いはそこで解決するはずです。
読んでない人のために、もう少し具体的に教えて下さい。
>それよりも、実際の涅槃のための修行方法である、ヴィパサナ瞑想を >10日間ほど行えば、お釈迦さまの仏教について、少しは理解していただけるかも 知 >れませんので、ぜひお勧めします。
私もインド圏で・・・できれば仏教国で瞑想を体験したく思います。サンスクリッ トもパーリー語もできない・・・英語も怪しい(^_^ ;・・・そんな私が瞑想の安全に 修行をできる場所があれば教えて下さい。安全にということは・・・水銀や薬物を使 う怪しげなものもあるときいたことがあるからです。
>いきなり、入ってきて、えらそうに言って、多分反発を受けるでしょうが、
いえいえ私たち仏教徒はそういう反発とかという過剰反応はやめておきましょう。 私も瞋恚を起こしやすいたちですが、ダンマさんの話を聞いてそのような気持ちは起 こりません。良い因と縁を頂ければ幸いです。
>どうぞ、実践を通して、真理を調べてください。 >求められるならば、必ず真実はえられます。
実践は大事です。 ただ、私は・・・私のような凡夫が救われるということを信じられるから仏教徒と なることができました。私が仏教徒でありつづけられたのは法華経の薬草喩品第五の お陰です。凡夫が実践できないようなことを求められるのであれば、それは現代日本 人の機根に合わないものかも知れません。機根で選べば法然さんの仰るように浄土教 になるかも知れませんが、機根だけでなく時代、地理的要因なども勘案して方便(巧 みな手段)とすべき経典を選んで釈尊の真相にふれなくてはと思います。
極言すれば、確かに大乗仏教は方便でしょう。かといって、上座部仏教も変遷して しまっているのではないでしょうか。そもそもスリランカの上座部仏教といえども、 どの部派が伝わったか定かではないと聞き及びます。それが東南アジアに伝わったの は日本に仏教が伝わったよりもかなり後代ですよね。
私はスリランカに伝わる原始仏典のパーリー語和訳が大好きで中村元先生訳をよく 読みます。しかし、それら原始仏典でさえ後代の付加や改竄が疑われます。最古層と いわれる『スッタニパータ』ですらそうだということです。もし、お釈迦様当時の仏 教を云々するのであれば、もちろんスリランカ仏教は欠くことのできない資料です が、それが即生身の仏説とは限らないと思います。むしろ、生身のお釈迦様のことを 学ぼうと思えば上座部仏教よりもインド仏教学によるべきだと思います。
インドに実在されたお釈迦様の真相に迫るには学術的なインド仏教学的な観察、考 察、推察、洞察が必要だと思います。 上座部の経典でも仏滅後すぐの第一結集で成立したものはほんの一部ではないかと 思われます。上座部だけで仏教のあるいは釈尊の教えの真相を察するのは完全ではな いと思います。 ダンマさんは如何お考えになるでしょうか?
>原始仏教を学び、そのように修行すれば、日本にも仏教が >伝わるかも知れませんね。
仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史である。そんなことを仏教大学の松田先生 が仰っておられました。 ただ、上古にさかのぼれば上座部仏教。上座部仏教が日本に伝わらないと日本に仏 教が伝わったことになる。そうは思いません。
上座部仏教であれ、大衆部であれ、大乗であれ、それらはすべて方便にすぎないと 思います。歴史的に上座部が保守派であり正当派であることは認めるとしましても、 その経蔵のうち古層のパーリー語経典は仏教学者によると、 『スッタニパータ』 『ダンマパダ』 (『法句経』) 『テーラガータ』 『テーリーガータ』 『サンユッタ・ニカーヤ』 (『阿含経』相応部) 『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』 (南伝 『大般涅槃経』) あたりだと聞き及びます。上座部を学び修行された方としてはこれらはどのように位 置づけられるのでしょうか?
YAM さんの領域だなぁ。
▼ |\(*^^)v Eisai  ̄
00028 01/12/14 17:45 タンマ RE:00026 原始仏教について2、 さっそく、返事を頂き、恐縮いたしています。 このような仏教ラウンジはえてして主催者の色が反映するものです。 ですから、反対意見に対しては、参加者の皆さんから 必ずパッシングを受けてしまうと言うことが、あります。 勿論、ののしりあいなどは論外ですが、感情剥き出しで、 書かれる方もおります。 ですから、私は本来はあまり参加したくはないのです。
でも、わずかの人々が理解できるかも知れないと言う思いから、 また懲りずに少し書きこみをしてみました。
本音を言えば、あまり論議には参加したくないというところです。 どうしても、論議がかみ合わなくなってしまいます。
私自身、長い間大乗仏教の僧であったので、皆さんと同じような 論議を沢山してまいりました。 いい気になって、大乗仏教の講義や法話教室なども主宰してまいりました。
最初に、上座仏教の比丘に出遭ったときも、大乗の素晴らしさを 教えてあげるのだと意気込んでいたものです。
上座仏教が大乗とは違うと理解するまで、2年の時間がかかりました。 それも、仏陀の瞑想法を半年ばかり実践してはじめて、 お釈迦さまの本来の教えと日本の仏教の教えとは違うということが、 分かり出してきたのです。
ですから、頭の中で仏教論争をどんなに行っても、 お釈迦さまの覚られた真理は、理解不可能かと思われます。
実際、教えの90%は瞑想実践のために必要なものであるので、 瞑想しなければ、ほとんど理解できないと思います。
私はここに参加している僧侶の皆さんが、日本の現状の仏教に対し、 何らかの疑問や不満を持っていると言うことを、信じています。
もし、本当に仏教を学びたければ、宗派は考えずに、お釈迦さまの 教えに帰るのが一番だと私は思います。
私は東京で僧をやっています。葬儀や法事も行っています。 皆さんに縁をつける絶好の機会として、そのような席で、 根本仏教の法話をさせていただいています。
お釈迦さんの話は、ほとんどが心について、心とはどのようなものか、 心をどのようにして、作っていくのかという話です。
上座仏教の比丘とは違いますから、日本では日本の方法で、 お釈迦さまの仏教を学べるのではないかと考え実践しています。
ともかく、自分の教えが一番だと考えずに、 根本仏教を学んでみることを勧めます。 私自身も、このような世界があることなど、 考えもつかなかったことですから。
勿論、私の考えが違っているならば、いつでも喜んで私は 捨てます。どうぞ、間違えがありましたなら教えてください。 真理を求めることに吝かではありません。 よろしくお願いします。
00029 01/12/15 10:54 YAM Re: 00028原始仏教について2、
> 上座仏教の比丘とは違いますから、日本では日本の方法で、 > お釈迦さまの仏教を学べるのではないかと考え実践しています。 > > ともかく、自分の教えが一番だと考えずに、 > 根本仏教を学んでみることを勧めます。
サブジェクトでは「原始仏教」となっていて,これは初期仏教とか 根本仏教と同じく,根本分裂以前の仏教を指すと理解するのが ふつうだと思います. ところが,タンマさんの書き込みの内容は,上座部仏教のすすめ のように受け取れなくもありません.
Eisai さんの御指摘は,根本仏教と上座部仏教は違うのではないか, という趣旨であると理解しました.このあたりを整理しておかないと 話が食い違ってくるのではないでしょうか?
(いっぽう,Eisai さんにもちょっと誤解があると思うのですが, というのは,「大衆部から大乗仏教が派生した」とのくだりです. これは今日の学説では否定されています.大乗仏教とペアにする なら,上座部ではなく,部派仏教あるいはアビダルマ仏教という べきだろうと思います.)
また,タンマさんは「あまり議論には加わりたくない」とおっしゃいま すが,認識の深化と共有のためには議論は必要なことではないでしょうか. 議論せずに,思ったことを書くだけなら,BBSとかメーリングリストの ようなものは必要ありません.
私自身,南方上座部にいくばくかの興味はあるのですが,その前に タンマさん御自身のことをもう少し詳しく伺いたいものです. もし差支えなければ,ですけど. 「以前は大乗仏教の僧であった」とのことですが, 現在は(どの教団かは存じませんが,そこから)僧籍を抜いて 上座部で受戒なさったのでしょうか?
なお,私自身の上座部の出家者についての印象というのは ・戒律を重視し実践している点は尊いものがある ・その一方で,形式に流されてその精神をなおざりにして いるようにも思われる というものです. かつて,スリランカの比丘とおつきあいしたことがありますが, 彼は「日本の僧は結婚はするし酒は飲むで,こういうのは僧とは 認められない」と言います.しかし彼自身,タバコを吸ってるん ですね.酒を飲むのはいけないがタバコはいい,それはなぜかと いえば,釈尊はタバコについては一言もおっしゃっていない,と. しかし現代的な常識からすると,酒は少々ならば健康に良いが 煙草は百害あって一利なしとされています.釈尊の当時に煙草は ありませんでしたが,もしあればやはり禁止なさっていたのでは ないかと思います.
00030 01/12/16 15:00 タンマ RE:00029 Re: 00028原始仏教について2、 >
>サブジェクトでは「原始仏教」となっていて,これは初期仏教とか >根本仏教と同じく,根本分裂以前の仏教を指すと理解するのが >ふつうだと思います. >ところが,タンマさんの書き込みの内容は,上座部仏教のすすめ >のように受け取れなくもありません. > >Eisai さんの御指摘は,根本仏教と上座部仏教は違うのではないか, >という趣旨であると理解しました.このあたりを整理しておかないと >話が食い違ってくるのではないでしょうか? > 根本仏教、上座仏教、原始仏教、小乗仏教、日本では名前が違って いますが、パーリ語の経典を基にした、お釈迦さまの直伝の教え だけを伝える仏教であり、同じものとかんがえるのが、 よいと思われます。 現在では、スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、などの比丘と呼ばれる 人々によって、伝えられております。 ですから、言葉は違っていても、教えは皆同じと思ったほうがよいかと 思われます。 > >私自身,南方上座部にいくばくかの興味はあるのですが,その前に >タンマさん御自身のことをもう少し詳しく伺いたいものです. >もし差支えなければ,ですけど. >「以前は大乗仏教の僧であった」とのことですが, >現在は(どの教団かは存じませんが,そこから)僧籍を抜いて >上座部で受戒なさったのでしょうか? >
僧籍はそのままになっておりますが、以前、テーラワーダの本を出版したときに、自 分の先生から叱責をうけ、大乗仏教と違うことを言うならば、 破門にすると言われていますし、私も、現在も葬儀など行っている 関係上、宗派の名前では話しにくいと言うことがあります。 勿論、ミャンマーでは一時的な出家も許されておりますので、 修行をするときは、比丘として受戒し、出家僧として、托鉢を して、修行をしております。 半年ほど、二回、あとは一ヶ月ほど、毎年です。 ミャンマーでもタイでも、一時僧は誰もが男子ならば、一度はならなくては いけない習慣ですから、比丘になることはそれほど、無理ではありません。
>なお,私自身の上座部の出家者についての印象というのは >・戒律を重視し実践している点は尊いものがある >・その一方で,形式に流されてその精神をなおざりにして > いるようにも思われる >というものです. >かつて,スリランカの比丘とおつきあいしたことがありますが, >彼は「日本の僧は結婚はするし酒は飲むで,こういうのは僧とは >認められない」と言います.しかし彼自身,タバコを吸ってるん >ですね.酒を飲むのはいけないがタバコはいい,それはなぜかと >いえば,釈尊はタバコについては一言もおっしゃっていない,と. >しかし現代的な常識からすると,酒は少々ならば健康に良いが >煙草は百害あって一利なしとされています.釈尊の当時に煙草は >ありませんでしたが,もしあればやはり禁止なさっていたのでは >ないかと思います.
その通りでしょうね。 しかし、YAMさんは大事なことを見過ごしています。 形式も精神もないのが、日本の仏教であり、 一比丘が煙草を吸っていたからといって、何か問題があるのですか。 そのようなものは個人の問題であり、90%の比丘はたばこも 吸いません。比丘の中にも尊敬されるような素晴らしい比丘も いれば、在家よりひどいと思われる比丘もおります。 でも、私などは、家庭も持たず、午後に食事をせず、 自分の財産は何も持たず、 酒も飲まず、いつも人々から監視され、一生そのような暮らしを しようとはどうしても思えないのです。やはり、比丘として 尊敬しています。
欲を離れる生活習慣のために戒律はあるのであり、 別に形式に縛られているわけではありません。 日本では、あまりにも上座仏教を誤解しすぎています。 上座仏教の国々では、多くの人々の中に、仏教がはいっていて、 それは生活の一部であり、人々の中心となっているものです。
どうか、日本の皆さんも、スリランカやタイやミャンマーで 修行をしてみてください。 誰でもすぐに出来ますし、いつでも私はお手伝いします。 そうすれば、すぐにすべての疑問は晴れると思います。
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