仏教ラウンジ bodhi ★ bodhi_4

−−会議室4  [テーマ討議]:今回は「21世紀の仏教」について −−
00001 99/03/31 11:33 Eisai              テーマ討議ラウンジについて
 昨年末、期間限定のテーマ別討議として「戒名」の問題を扱いましたところ、
かなり盛り上がりました。しかし、テーマ設定によっては閑古鳥となってしまい
ます。また、テーマ設定によって仏教ラウンジに来られる方の客層も変わってき
ますので私としては気を使います。
◆テーマ
 しばらく、閉鎖していましたが、ボード拡大の機会に再会する事と致しました。
テーマ設定については皆様のお知恵を拝借できればと思います。
  日本仏教の問題点とは
  日本の僧侶の問題点
  日本仏教への処方箋
  伝統教学 vs 仏教学
  唯物論と仏教
  新宗教について
  キリスト教との対話
  一神教である必要はあるか
  大乗非仏説をどう捉えるか
というところを考えています。最初は盛り上がる可能性の高いものである必要が
あると思います。
 ◇◇◇ 皆さまの御意見御希望などお聞かせ頂ければ幸甚です。 ◇◇◇
◆討議期間
 討議の期間ですが、以前は一ヶ月にしていましたが、話が盛り上がっている限
り継続する方向で考えています。また、閑古鳥になれば1〜2週間でテーマを変
更します。
◆ログについて
 今までは新しいテーマになると、いったん会議室内の発言を全て削除していま
したが、今回からテーマと会議室タイトルをかえるだけで、ログの削除はしない
方針です。

 以上、如何でしょうか?
 ▼
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  ̄
00002 99/04/08 18:04 顕正居士           伝統教学(宗学)と仏教学
EISAI様。BBS新装のご案内有り難う御座います。
伝統教学(宗学)と仏教学というのは、小生もたいへん関心あるテーマです。
そして宗学の中でもっとも煩瑣なのが天台、日蓮のです。諦観の四教儀が
小学生用入門書というなむ野本様のご意見が御座いましたが、台宗二百題は
伝統法華学教育課程のどの辺でしょうか。大学院受験マニュアルくらい、
それとも大学受験。
それはおいて、台宗二百題などは伝統教学の理解にたいそう役立つマニュアル
です。しかし、この内容が現実世界、否、「仏教」とすら、いかほどの関係を
有しているかと自問すれば、ほとんど交渉がなく、純粋数学の勉強に類して
思えます。
釈尊金口説には疑問があります。何故なら漢訳仏教世界でも、仏滅後500年
までは大乗経がなかったことは皆知っていたのですから。金口はフィクション
であって、むしろ伝統教学の根本的な誤まりは大蔵経に一貫した思想がある
筈という仮定でなかったでしょうか。報身仏実在の思想とこれはセットである
ように思います。中之頌や無畏疏に大乗経の引用などはなく、聖龍樹が云う
仏説とはアーガマのことであり、釈尊(大牟尼)とは自分を溯ること500年
の大思想家のこと以外でありません。伝統教学・仏教学の問題は大きな具体と
して聖龍樹著作真偽問題、特には智論真偽問題と係わるのでないでしょうか。
00003 99/04/10 11:48 YAM                RE:00002 伝統教学(宗学)と仏教学
>伝統教学(宗学)と仏教学というのは、小生もたいへん関心あるテーマです。
私も関心があります.ただ,私は仏教系大学の出身ではなく,宗学も仏教学
も系統的教育を受けていませんので,ほとんど素人です(^^;;)
それはさておき,伝統教学というとき,ふつうにはヨーロッパから学んだ近代
仏教学に対比して,明治以前に立てられた教学をイメージすることが多いよう
ですが,事情はもうちょっと複雑だろうと思います.
宗学についていえば,
(1)伝統教学に基づくもの
(2)ヨーロッパ哲学などをとりいれて近代化したもの(近代教学)
(3)近代教学を批判しつつ生み出されつつある教学
一方仏教学についても
(4)いわゆる近代仏教学(信心の問題を捨象する)
(5)ポスト近代仏教学(信心とか主体性の問題を扱う)
というようにカテゴライズできるだろうと思います.
大学では(1)(2)(4)が中心になっているのではないかと思いますが,
その間には相互の交流がほとんどないような気がします.しかしそれも考えて
みれば当然なんで,宇井系の学者の方々が宗学にコミットすることはありえ
ない.
私の所属する真宗大谷派についていうと,(2)に相当する清沢教学という
のが主流になっていて,それを批判するような(3)も流れとしてはあるけ
れども,大谷大学で講座をもたせてもらえない(?)かどうか知りませんが,
めだたない存在です.(1)は基礎学としての地位はありますけど,これ
以上の発展はありそうにないです.ただ,全体として末寺レベルでは(1)
の教育を受けた人が少なくなく,それゆえたとえば,浄土といえば死後の
世界と理解している人もかなりあります.(親鸞自身はそういう理解はして
いなかったはずだと私は思いますが)
それにたいして,仏教学ではすこしずつ(5)の流れが強まりつつある
といえるのではないでしょうか.(5)と(2)(3)の間だったら交流が
もてるような気がします.
>ように思います。中之頌や無畏疏に大乗経の引用などはなく、聖龍樹が云う
>仏説とはアーガマのことであり、釈尊(大牟尼)とは自分を溯ること500年
>の大思想家のこと以外でありません。伝統教学・仏教学の問題は大きな具体と
>して聖龍樹著作真偽問題、特には智論真偽問題と係わるのでないでしょうか。
龍樹は八宗の祖ですから,著作真偽問題は重要かもしれませんが,それは
宗派のプライドの問題に過ぎないような気がします.
不思議に思うことは,龍樹の主著というべき「中論頌」への思想的アプローチ
が少なすぎるんではないかということ.私は「中論」をレグルス文庫で読み
ましたが,わかりやすい(分厚い)解説書がほしいと思いました.
00004 99/04/11 08:14 顕正居士           RE:00003 伝統教学(宗学)と仏教学
YAMさん。はじめまして。
>宗学についていえば,
>(1)伝統教学に基づくもの
>(2)ヨーロッパ哲学などをとりいれて近代化したもの(近代教学)
>(3)近代教学を批判しつつ生み出されつつある教学
>一方仏教学についても
>(4)いわゆる近代仏教学(信心の問題を捨象する)
>(5)ポスト近代仏教学(信心とか主体性の問題を扱う)
>というようにカテゴライズできるだろうと思います.
真宗教学は相当に近代的展開があるようですね。小生が比較的知識がある
日蓮の場合、(1)と、(4)の立場での文献学以外はほとんどないと
思います。今でも日蓮教学の骨格を理解するのにいちばんよい本は
田中智学「日蓮主義教学大観」でないでしょうか。当時として近代的センスは
十分入っていると云えますが、近代仏教学は何も入っていません。
弟子の山川智応博士の諸著が次に有益に思えます。この方は近代仏教学を
学んだ方で、発想の基本はたしかに近代的です。そして、日蓮宗は仏教の中に
発生したキリスト教タイプの宗教でそこが優れているとする。そういうことは
云えないこともないけれど、仏教自体を無価値とするへんな考えである。
(4)の立場での文献学は祖書学と宗学史として立正大学等で研究され続けて
いますが、本覚思想があらわれた祖書の真偽がまだ未決等、近代教学の基礎
自体が依然あいまいです。かつ、現実に存在する日蓮信仰は新興教団を中心と
して行われており、(1)がいささか現代的にアレンジされた程度に見えます。
従って日蓮教学の哲学的内容等の検討はほとんど存在せず、曹洞宗の批判仏教
のようなポスト文献学的思索は程遠いと思います。
>龍樹は八宗の祖ですから,著作真偽問題は重要かもしれませんが,それは
>宗派のプライドの問題に過ぎないような気がします.
これは依経、依論が偽撰であってもプライドが傷つくだけという意味かと
思います。ローカルな日本仏教のそのまた一派でも、インド仏教より進歩して
いるなら、そう云えます。小生にはそう思えないので、日本仏教の美点を
残していくためには、正統な仏教(仏教の本流)が何かという思索が決定的で
あると考えます。
>私は「中論」をレグルス文庫で読みましたが,わかりやすい(分厚い)解説書
>がほしいと思いました.
分厚い解説書というと中論の主要な釈を合本にして現代研究者の解釈も末注した
ようなのですね。まだチベット大蔵経の関連文献のテキスト批判段階でしょう。
漢訳の主要経論だとみな虎の巻のようなのが昔に出来ている。いつかは出来るの
でないでしょうか。
ところでレグルス文庫は創価学会の出版で、創価学会もハイレベルの部分では
近代仏教学を摂取しようとしているように見えます(仏教学者のとりこみだけが
目的ではないでしょう)。しかし一般会員の教学に活かされてはいなく見えます。
成功している教団が他にあるわけではありませんが。
00005 99/04/11 15:39 YAM                RE:00004 伝統教学(宗学)と仏教学
顕正居士様,コメントありがとうございます.
>
>真宗教学は相当に近代的展開があるようですね。
本願寺はかなり金をもっていたので,有為な人材をどんどんヨーロッパに留学
させるだけの余裕があったせいもあると思います.
しかしまた同時にかなり封建的な体質を残しているのも事実です.
>日蓮の場合、(1)と、(4)の立場での文献学以外はほとんどないと
>思います。今でも日蓮教学の骨格を理解するのにいちばんよい本は
>田中智学「日蓮主義教学大観」でないでしょうか。当時として近代的センスは
>十分入っていると云えますが、近代仏教学は何も入っていません。
この著作は読んだことがありませんが,田中智学といえば国柱会,という
連想がすぐにはたらいて,日蓮仏教を国家主義と結び付けて論じる人が
多いようですが...しかし日蓮さん自身は明確に仏法為本をうちだして
おられるはずですよね.そのあたり,現在の日蓮宗学では思想的に克服
されているのでしょうか?
>弟子の山川智応博士の諸著が次に有益に思えます。この方は近代仏教学を
>学んだ方で、発想の基本はたしかに近代的です。そして、日蓮宗は仏教の中に
>発生したキリスト教タイプの宗教でそこが優れているとする。そういうことは
>云えないこともないけれど、仏教自体を無価値とするへんな考えである。
山川博士の著作も読んだことがないのですが,
上のような考え方は,キリスト教的一神教を最高とし,諸宗教の発達段階を
論ずるという,かつての比較宗教学的な理論ですね.現在の比較宗教学は
そういう優劣を論じることを無意味としていますから,それからすれば時代
おくれということになりそうです.
それと,なぜ日蓮宗がキリスト教タイプの宗教といえるのか,私にはわか
りません.もしよろしければ,山川説についてもう少し説明していただけ
ませんか?
>(4)の立場での文献学は祖書学と宗学史として立正大学等で研究され続けて
>いますが、本覚思想があらわれた祖書の真偽がまだ未決等、近代教学の基礎
>自体が依然あいまいです。かつ、現実に存在する日蓮信仰は新興教団を中心と
>して行われており、(1)がいささか現代的にアレンジされた程度に見えます。
>従って日蓮教学の哲学的内容等の検討はほとんど存在せず、曹洞宗の批判仏教
>のようなポスト文献学的思索は程遠いと思います。
曹洞宗の批判仏教,というのは,袴谷先生,松本先生らの一連の批判論書の
ことですね?今後どういう展開になっていくか,曹洞宗の中で多数派を占める
ことになるのか,ちょっと楽しみです.おっと,他宗の話と傍観者的になって
る場合じゃないですね.如来蔵思想が批判されると,従来の仏教思想が根底
から再検討されなければならなくなるし.
>分厚い解説書というと中論の主要な釈を合本にして現代研究者の解釈も末注した
>ようなのですね。まだチベット大蔵経の関連文献のテキスト批判段階でしょう。
>漢訳の主要経論だとみな虎の巻のようなのが昔に出来ている。いつかは出来るの
>でないでしょうか。
テキスト批判は必要な作業ですから,ぜひ進めていただきたいと願っていますが,
同時に思想的解明を期待しています.私は哲学出身なんで,ヘーゲルとか読んだ
経験から,ある程度龍樹の論の流れを追うことができましたが,弁証法的思考に
なれていなければ,たぶん途中で投げ出していたことでしょう.
また同時に,各宗学の展開のうえにおいても,龍樹思想をきちんと押さえられれ
ば,何もヨーロッパ思想を援用しなくてもすむはずだと思うんです.
龍樹こそは東洋のヘーゲル,いや,逆ですね.ヘーゲルを「西洋の龍樹」と呼ぶ
べきか.
>ところでレグルス文庫は創価学会の出版で、創価学会もハイレベルの部分では
>近代仏教学を摂取しようとしているように見えます(仏教学者のとりこみだけが
>目的ではないでしょう)。しかし一般会員の教学に活かされてはいなく見えます。
>成功している教団が他にあるわけではありませんが。
創価学会にしても立正佼正会にしても,底流にあるのは呪術信仰(病気直しとか)
ですね.ところが幹部クラスの人たちは,それでは時代の波に遅れると思って,
そういうマジカルな面を剥ぎ取りつつ,近代教学を取り入れることに熱心になった
けれども,一般の会員たちがそれについていけず,意識の面で乖離が生じている
との指摘を読んだことがあります.
私は少し前に,創価学会の人と話をした時,日蓮さんの著作とか手紙とかよく
よんでらっしゃって,たいへんな勉強家であると感心したのですが,話が教相
判釈に及んだ時,すべての大乗経典は釈尊金口の説法であると信じ,文字どおり
五時八教が成立すると主張したので,びっくりすると同時に,妙に納得して
しまったのでした.その方は一般の仏教書,仏教学文献を読んだことはなかった
のです.中村元も玉城康四郎も名前すら知らなかったようです.
00006 99/04/11 18:54 Eisai              RE:00002 伝統教学(宗学)と仏教学
顕正居士 さん、すみません。
こちらに移しました。私のミスです。
  −−会議室2  [仏教入門ラウンジ]:極初心者に優しいボード −−
  00018 へのコメントです
 > 小生のHPは顕正寺、掲示板は顕正会館と云います。
 URLを [メイン・ラウンジ] か『法華経ラウンジ』に書いておけば、皆さん
のぞきに行かれるのではないでしょうか。
 > ちなみにこの名称のためにへんなメールが来たりしたことは全くありません。
 意外ですが、何かを主張してもメールで変なのは来ませんね。紳士的な反論
メールは来たことはありますが・・・。あとはメッセージボードでのネチケット
ギリギリの発言で嫌がらせなどはありませんか?。
 >しかし検索にかからない名称なんですね。
 検索エンジンに登録されていますか?
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00007 99/04/11 18:55 Eisai              RE:00002 伝統教学(宗学)と仏教学
 長いのはLOGは嫌いなので ↑ と分けます。
 > しかし袴谷、松本両氏の著作などは最近、在家者にもひろく読まれており、
 > 問題意識を喚起していると思います。
 この十年くらいのことだと思いますが、インパクトは強烈ですね。現在のテー
マでは何れ両先生に対する言及も必要でしょうね。
 > 原本から現代語訳した経論を読む方が一般には役立つでしょうね。葬儀もそ
の
 > ほうがよいという方もおられます。
 うちの宗旨でも、口語体の引導文や回向文を試行錯誤する方がおられましたが
隆盛にはなりませんでした。やはり文語体でないと重みがなく厳粛さをスポイル
するようです。文語体で聞いていて解りやすいように工夫するよう私は努力して
います。
 > 「教学」が江戸時代のままのだと勉強するほど宗我が強まり、醜い争いのも
とに
 > なるようにも思われます。「現代教学」ってほとんど出来ていないですよね。
 「現代教学」は結局教学の変遷です。それをできるのは、各宗派の祖師に勝る
とも劣らない指導者が現れないと無理かも。だから、新宗教も宗旨によってはこ
ろころ教義が変わっているような。
 ただ、学究的な仏教の研究成果によって伝統教学を検証する作業は必要でしょ
う。宗旨によっては、偽撰も多いようですし。
 > 直説か否かは経典の価値に無関係であって、法華経などはなんら釈尊の直説
に
 > 劣らない意味の表現としては肯定できます。
 そういう受け止め方も良いですね。
 ただ、その価値が仏滅後二千年以上経った時代の世界中の人類にとって価値あ
るものであることを説得力をもって説明できなくてはなりませんね。
 > 「大智度論」が真撰なら
 > 羅什三蔵の龍樹伝にも大乗経典と関連したエピソードが出て来ない。
 サンスクリット本もチベット本も現在ないそうですね。鳩摩羅什が訳したとい
うのは本当なのでしょうか。そうそう・・・謎の多い龍樹の故郷かも知れないイ
ンドのナーガルジュナコンダ(サーガル)に昨年行ってきました。旅行記は
  http://www4.osk.3web.ne.jp/~eisai/india/
にあります。写真を増やしたいのですが時間がぁ・・・。
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  ̄
00008 99/04/12 19:41 なむ野本           RE:00002 伝統教学(宗学)と仏教学
 顕正居士さま、
               なむ野本です
(亀レスごめん)
>伝統教学(宗学)と仏教学というのは、小生もたいへん関心あるテーマです。
>そして宗学の中でもっとも煩瑣なのが天台、日蓮のです。諦観の四教儀が
>小学生用入門書というなむ野本様のご意見が御座いましたが、台宗二百題は
>伝統法華学教育課程のどの辺でしょうか。大学院受験マニュアルくらい、
>それとも大学受験。
>それはおいて、台宗二百題などは伝統教学の理解にたいそう役立つマニュアル
>です。しかし、この内容が現実世界、否、「仏教」とすら、いかほどの関係を
>有しているかと自問すれば、ほとんど交渉がなく、純粋数学の勉強に類して
>思えます。
 台宗二百題は、国訳本には誤植がありますからご注意を。
 木版本は、非常に高価です。この論義の書は、ほかにも
 書きましたが、江戸初期に、非常に複雑になった論題や
 論義内容をダイジェストして、使いやすくした本です。
 論義は読むものじゃないのに、なぜ必要だったかが、
 この書の性格を表しています。
  つまり、天台僧が論義の講師などに当たったとき、
 または、題者が問題を出すときの根幹を把握するのに
 便利にするためです。このまま論議しているのでは
 無いようです。『台宗二百題』はそれまでの論義の
 写本などと較べると、非常に簡単になって、問題要旨と
 結論が分かりやすくなっています。しかも、今までは
 義科に所属した内容が宗要になっていたりで、この
 分類も信用してはいけません。
  仏教教理学大学院生のテキスト程度じゃないかと思い
 ます。しかし、これも理解者・研究者がいなくなりました。
 内容を練る訓練が行われなくなって、形式的な論義儀式
 だけが行われています。
 『台宗二百題』は、源流は天台三大部60巻の疑問点を
 明らかにしようとする、義科から始まったものですから、
 『法華経』教理学の研究書といえますが、『天台宗全書』
 『續天台宗全書』の論義書も比較して読まれると、単純
 な結論ではないことがご理解頂けると思います。
  #私には理解できない内容が時々あります。
>釈尊金口説には疑問があります。何故なら漢訳仏教世界でも、仏滅後500年
 禪宗では、かつて経典すらも執着をもたらすといい、坐禪を本儀にしてます
 が、道元禪師は、文字の法師になるのも、暗証の禪師になるのも否定してます。
 どちらも正しい認識が得られないという、天台大師の基本姿勢をふまえている
 ように思います。
 現代仏教学も、未来仏教学も、文字研究しながら自内證が正かどうか常に冥想
 し、理解し、悟る以外は方法がないように思いマスです。
 仏教学に詳しいことが、直ちに仏教を理解したことにはならないでしょうし、
 教理に詳しくても、修行儀や仏教礼拝に詳しいことにはなりません。
 簡単では無いことだけは、はっきりしているような気がします。
  理屈では、
 知識も理解も必要だし、仏教学を学びながら仏教学を超えることに
 なるでしょうか。仏教を実行しながら、仏教を超えることが必要な
 ことを仏教は教えているように思いますが、間違ってるでしょうか。
                        なむ野本
 
00009 99/04/17 12:49 顕正居士           RE:00005 伝統教学(宗学)と仏教学
智学、智応の王仏思想
>田中智学といえば国柱会、連想がすぐにはたらいて,日蓮仏教を国家主義と
>結び付けて論じる人が多いようですが...しかし日蓮さん自身は明確に
>仏法為本をうちだしておられるはずですよね.そのあたり,現在の日蓮宗学
>では思想的に克服されているのでしょうか?
智学や国柱会の思想は「国家主義」や「超(ウルトラ)国家主義」ではなく、
「国教国家主義」だと思います。当時の欧米列強と同じシステムへの志向です
が国家神道体制も一緒ですから、国教を国家神道から日蓮教にかえる運動で
あったと理解しています(正確には日蓮教・主、国家神道・従にかえる)。
現在の日蓮宗学で克服されているかと云うと終戦後は智学や国柱会に触れなく
なっただけで、いつも同じ思想で活動している教団があります。克服されて
いないということです。
>上のような考え方は,キリスト教的一神教を最高とし,諸宗教の発達段階を
>論ずるという,かつての比較宗教学的な理論ですね.
そう思います。「超国家主義」も伝統思想でなく、ソビエトやドイツを見習え
というのを国風に装う。和装の下は洋装で、イスラーム原理主義にもこういう
しかけがあるようです。
>なぜ日蓮宗がキリスト教タイプの宗教といえるのか,私にはわかりません.
>もしよろしければ,山川説についてもう少し説明していただけませんか?
一体三宝は三位一体と同じである。本仏(久遠釈尊)=父なる神、
本法(法華経)=聖霊、本化(上行菩薩・日蓮)=子なる神(基督)。
戒壇とは「見える教会」である。仏教史の主流は自性否定で厭世主義であるが、
空、無常、無我は方便で、常楽我浄が釈尊の密意(=法華・涅槃)である等。
今日的には袴谷、松本氏の批判仏教を全部裏返したようなのとも云える。
智応のいうキリスト教はカトリックのことです。戒壇=見える教会、カトリック
礼賛、プロテスタント否定は、姉崎正治(「法華経の行者日蓮」の著者、
帝大宗教学科初代主任教授)の思想でもあり、その影響下にもあると思う。
仏教のカトリシズム化については、(真宗カトリシズムを提唱される方が
おられますが)、今日でも検討すべき仏教の一つの方向性であると思います。
HP-電網山顕正寺
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/
00010 99/04/18 20:35 顕正居士           RE:00006 伝統教学(宗学)と仏教学
>メッセージボードでのネチケットギリギリの発言で嫌がらせなどはありませんか?
ありません。どの掲示板でも主催者の悪口を云う人はいないです。中で喧嘩が起って
荒れる。掲示板には広場(フォーラム)型と、私宅(ゲストブック)型があり、
私宅型(主催者常駐)は荒れにくいように見えます。
>検索エンジンに登録されていますか?
「検索にかからない名称」というのは「仏教」とか「哲学」とか大単語で出て
来ない意味です。「誰々のホームページ」とかは宣伝上、最悪とされます。それは、
ジャンル掘り下げ(図書分類)的でないコンテンツをエンジンに拾って貰うのは
むずかしい意味でもあります。
HP-電網顕正寺
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/
00011 99/04/18 20:39 顕正居士           RE:00008 伝統教学(宗学)と仏教学
なむ野本様。
>『天台宗全書』『續天台宗全書』の論義書も比較して読まれると、単純な結論では
>ないことがご理解頂けると思います。
「龍女成仏」など。「伝統教学」を理解しないで、やはり差別だ、いや、でないよう
なの
は虚しく感じます。日本仏教諸派の場合、天台教学に溯ることがいつも要と感じます。
しかし『天台宗全書』、『續天台宗全書』のレベルになると、日本仏教研究者以外に
は
(あるいは、でも)難題ではあります。価格、置場所、読解く余暇。また、下の項目
とも
関わりますが、技術系の勉強と同じで、教理面の事柄でも、具体面を知らないと理解
が
困難のことが多く思われるのです。
>教理に詳しくても、修行儀や仏教礼拝に詳しいことにはなりません。
「宗教あるいは文化としての仏教」の理解に典礼の方面は欠かせません。教理の理解
も
煩瑣のレベルだと具体との分離が困難です。しかし、研究者を含めて在家者には、
日本仏教のこの方面の理解を増進する機縁が僅少に思われます。
>仏教を実行しながら、仏教を超えることが必要なことを仏教は教えているように
>思いますが、間違ってるでしょうか。
「上に超える」のでなく、「横に超える」意味でしたら。そう、思います。
00012 99/04/19 19:23 Eisai              (発言者削除)
00013 99/04/19 19:25 Eisai              RE:00010 伝統教学(宗学)と仏教学
顕正居士さん、こんにちは。
 > どの掲示板でも主催者の悪口を云う人はいないです。
 そうだと良いのですが・・・。
 顕正居士さんの掲示板では何か問題がありましたか? 
 このボード「伝統教学vs仏教学」でも、嫌な思いをせずに勉強になる話が出き
ればと思います。
 > HP-電網顕正寺
 > http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/
 リンクが凄いですね。
 コスプレから疑似ローマナイズドの梵本法華経まで・・・。
 超多忙モードが終わったら私のHP
   https://www.kosaiji.org/
 からもリンクさせていただきます。
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 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00014 99/04/20 12:58 なむ野本           RE:00011 伝統教学(宗学)と仏教学
   顕正居士さま
                     なむ野本です
 (亀レスごめんm(_ _)m)
>しかし『天台宗全書』、『續天台宗全書』のレベルになると、日本仏教研究者以外に
>は(あるいは、でも)難題ではあります。価格、置場所、読解く余暇。また、下の項
>目とも関わりますが、技術系の勉強と同じで、教理面の事柄でも、具体面を知らない
>と理解が困難のことが多く思われるのです。
  経典内容(理論)と、現実面(実験)の関係みたいですね。
 いつの時代もそうだと思います。しかし、現代は科学的仏教研究が重視されて、
 経典内容から、パワーを得ようとする研究は軽蔑されてますね。実はこれが
 科学的人文学研究の目的なんだと思いますが。現代仏教の慢性病かと。
>煩瑣のレベルだと具体との分離が困難です。しかし、研究者を含めて在家者には、
>日本仏教のこの方面の理解を増進する機縁が僅少に思われます。
 機会が増えることは良いことですが、檀信徒が皆知りたいと思ってはいないよう
 です。たとえば、テレビのリモコンを操作することは簡単です。しかし、その
 仕組みや理論は、一般的ではありません。一般的でない仏教でも、僧侶は理解
 してなければいけないでしょう。しかし、檀信徒は、お寺さんの有り難いお経
 だけで多くの場合は満足してしまう(満足させてしまう)ようなところは多い
 です。これはそれで良いかと思うのですが、アカンやろか。
  男女の区別を超える、老若の区別を超える、時代や民族や文化や言語をも、
 超えられる普遍的な世界が有ることを言うだけでいいので、日常的にぴった
 り来なくてもしょうがないでしょう。僧侶にも限界があります。
 ただ、俗っぽく日常的でないことは伝えられると思います。社会では差別
 されるけど、お経にはそんな差別・区別は元来ないのだと言えますし、平等
 というけど、お経にはそんな平等は偽物だと書いてありますと言うだけで、
 実行できなくても構わないような気がします。いままでの歴史がそうでした。
>>仏教を実行しながら、仏教を超えることが必要なことを仏教は教えているように
>>思いますが、間違ってるでしょうか。
>「上に超える」のでなく、「横に超える」意味でしたら。そう、思います。
 いいえ、横だの上下だのと言うから分からなくなるのです。
 縦横無尽に超えることじゃないかと思いますよ。ただし、実行は不可能でも、
 すべての、つまり『法華経』も釋迦牟尼佛も、あるというのは仮想ドライブ
 なんです。仮想もないと動かないけど、実際は仮想ドライブを使うのは手段
 でしょう。目的は別にある。超えようとすることにあると思います。
00015 99/09/22 23:44 Issa               RE:00001 テーマ討議ラウンジについて
>
> 昨年末、期間限定のテーマ別討議として「戒名」の問題を扱いましたところ、
>かなり盛り上がりました。しかし、テーマ設定によっては閑古鳥となってしまい
>ます。また、テーマ設定によって仏教ラウンジに来られる方の客層も変わってき
>ますので私としては気を使います。
>
>◆テーマ
>
> しばらく、閉鎖していましたが、ボード拡大の機会に再会する事と致しました。
>テーマ設定については皆様のお知恵を拝借できればと思います。
>
>  日本仏教の問題点とは
>  日本の僧侶の問題点
>  日本仏教への処方箋
>
>  伝統教学 vs 仏教学
>  唯物論と仏教
>
>  新宗教について
>  キリスト教との対話
>  一神教である必要はあるか
>  大乗非仏説をどう捉えるか
>
>というところを考えています。最初は盛り上がる可能性の高いものである必要が
>あると思います。
>
>
> ◇◇◇ 皆さまの御意見御希望などお聞かせ頂ければ幸甚です。 ◇◇◇
>
>
>◆討議期間
>
> 討議の期間ですが、以前は一ヶ月にしていましたが、話が盛り上がっている限
>り継続する方向で考えています。また、閑古鳥になれば1〜2週間でテーマを変
>更します。
>
>◆ログについて
>
> 今までは新しいテーマになると、いったん会議室内の発言を全て削除していま
>したが、今回からテーマと会議室タイトルをかえるだけで、ログの削除はしない
>方針です。
>
>
>
> 以上、如何でしょうか?
>
>
> ▼
> |\(*^^)v   Eisai
>  ̄
00016 99/09/23 00:48 Issa               日本仏教の問題点
 まあいろいろな意見はあると思いますが、やはり最大の原因は「悉皆成仏論」にあ
り、と思いますね。だれでも仏様になれるのならお釈迦様が修行され悟られた、そし
てその後もつねに修行され続けた意味はなんだったのでしょうね、ということになり
ますね。
現世における心の針の方向性、これが一念三千のどの方向に向いているか、これで来
世の行き先が決定するというのが仏の教えでありますね。
ならば、いかに仏の方向へ念いをむけるか、ということが修行となるわけですね。
そしてその心を統御する実力が安定して出せる場合に”悟った”(といっても初歩の、
ですが)というわけですね。
これはそう簡単ではないことは想像に難くないですね。
ふつうは一生かかっても無理に近いはずであります。
だから何度も生まれ変わる意味があるんだと思います。
 以前にテレビでチベットの様子を写していたのを観たことがあります。灯籠のよう
なものを一回まわしたら一回お経を読んだのと同じだ、ということで一人で灯籠のよ
うな物を何度も回していたことを覚えています。日本の仏教だけでなくチベットでも
似たようなものだなあと感じました。仏の在世中は自力が強いですけれど時間がたつ
につれ他力型になってゆくのはやむを得ないことです。それは1.悟りとはなにかと
いうことが解らなくなるから であり2.信者のすそ野が広がってそれほど菩提心の
強くない人が多くなってくるから であると思います。
また「悟り」「成仏」のハードルが下がってくる理由として、時代がたつにつれ帰依
の重点が仏から法へ、法から僧へと移ってくることも大きいのではないでしょうか。
僧に移るというのは、○○宗とか、△△派とかがの宗派が中心になって、”固定客”
の維持が重要な仕事になってくることです。まあ巷でいう洗脳などもこの段階の弟子
カルチャーの時代になると現れてくるようです。
 長々と綴ってきましたが、「悉皆成仏論」が日本でこれだけ流行る一番の理由は、
日本の古代から続いている土着宗教の信仰にある、と思います。高等宗教以前の自然
崇拝型信仰は「法」を説かないからです。「法」により善悪の判断ができるのですが、
自然崇拝ではそれがない。あれもよいこれもよいということになってしまいます。
なぜか仏教伝来以後もこの思想が続きました、そして仏教の中に入ってしまいました、
それが「誰でも仏様になれる」となったわけです。現代の日本の価値相対主義も近代
の唯物思想とこのアニミズムの双方に原因がありそうです。
 仏のほんとうの姿は「法」であるといいますから「法」のなかを生きること、すな
わち
「行」が大切ですね。その「法」のなかを生き切ったときその人は「法」そのもの、
つまり
「仏」となるわけですね。
00017 99/09/30 11:37 Eisai              RE:00016 日本仏教の問題点
Issa さん、こんにちは。御投稿ありがとうございました。
超多忙モードでレスが遅くなってごめんなさい。
 >  やはり最大の原因は「悉皆成仏論」にあり、と思いますね。
 如来蔵や本覚法門の問題ということがあるでしょうね。原始仏教から考えたところ
の日本仏教の問題点をクリアしないといけませんね。
 > だれでも仏様になれるのならお釈迦様が修行され悟られた、そしてその後も
 > つねに修行され続けた意味はなんだったのでしょうね、ということになりま
 > すね。
 お釈迦様が修行されて悟られて道を開かれた。だから私たちは仏教という乗り物に
乗りさえすれば悉く皆んな成仏ということになると私は教わったことがあります。
 その乗り物が問題です。バスや飛行機のように、乗りさえすれば知らないうちに連
れていってくれる乗り物なのでしょうか。それとも、自転車のように自分でペダルを
こぎ、道からそれないようにハンドルを握らなければならないものなのか。
 どう考えたらよいのでしょう。
 > 日本の仏教だけでなくチベットでも仏の在世中は自力が強いですけれど時間
 > がたつにつれ他力型になってゆくのはやむを得ないことです。
 そうですね。ただ、難しくない修行であっても、あのダイナミックな五体投地に象
徴されるチベット人の一般信徒の信心と、日本人の何もしない仏教では全く違うもの
があると思います。他力本願でも昔の門徒さんは一生懸命信心に励まれたと思います。
どこの宗派であれ自灯明は忘れてはならないように思います。
 > 「悉皆成仏論」が日本でこれだけ流行る一番の理由は、
 むしろ日本で流行っているのは、悉皆成仏論に根ざした「何もしない仏教」ではな
いでしょうか。
 > 自然崇拝ではそれがない。あれもよいこれもよいということになってしまい
 > ます。なぜか仏教伝来以後もこの思想が続きました、そして仏教の中に入っ
 > てしまいました、
 密教なんでしょうね。
 大乗仏教・日本仏教の各教義の善し悪しをインド仏教学の立場から検証して行く必
要があると思います。
 > 現代の日本の価値相対主義も近代の唯物思想とこのアニミズムの
 価値相対主義って?
 それと唯物思想と「誰でも仏様になれる」との関連って何なのでしょう。
 >  仏のほんとうの姿は「法」であるといいますから「法」のなかを生きるこ
 > と、すなわち「行」が大切ですね。その「法」のなかを生き切ったときその
 > 人は「法」そのもの、つまり「仏」となるわけですね。
 私も法華仏教ですから仰ることわかります。なるほど・・・。
 仏乗は、自分でこがなくてならない自転車のような乗り物なんでしょうか。仏法僧
を信じ、その道路交通法に従って導かれるままにこぐのが信心なのでしょうか。
 しかし、「法」のなかを生き切るというのは、たいへんな苦行かもしれませんね。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00018 00/04/08 23:38 玄                 素朴な疑問
 始めまして、「玄」というハンドルで加入させて頂きました。
幼い頃から、仏教に大変興味があり、最近深く考え込むようになりました。
 ここのホームページを見つけ、大変心強く思っています。
 在家信徒団体が、日本では最大の仏教教団ではないかと感じています。
我が家も、近くにある寺の檀家ですが、仏教の歴史を調べて行く間に、おも
しろい事実を肌で感じるようになりました。
 創価学会を筆頭に、日蓮宗系の在家信徒団体が、インフルエンザのように
国内に潜伏しているような気が致します。先日も、顕正会なる強烈な、日蓮
仏法で折伏しようという同級生の話を聞き、ウンザリというところです。
 驚いたのは、彼らは「法華経」すら知らないということです。
末法の御本仏「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は滅ぶ」という狂気です。
「南無妙法蓮華経」の題目の意味も知らず、他力本願で突き進む・・・。
私の感じている仏教とは、あまりにも縁遠く、もはや仏教とは違う領域に
あります。鳥肌が立つおもいでした。まるで、革命を計画中の青年将校を見る
思いでした。
 ところで、皆様に質問ですが、法華経に代表される大乗教典を読んでから、
パリー語の日本現代訳語の原始仏教経典を比べると、もはや同じ種類?の仏教
とは似ても似つかないものになっている事に気が付きました。
 法華経に代表される、末法というのは、このように釈迦の教えが、時代の
僧侶達によって、自分の解釈と経典書き換えによって変化した末路であろうと
直感しています。もはや釈尊の教えは、ごくわずかになり仏教から新興宗教へ
と変化してしまったのだと思います。
 神通力の名のもとに、信者を増やし、布施と供養料という名目で、金品を
集める、教祖達も目立つようになってきました。お話を聞いていると、たしか
にわずかな神通力をお持ちのようで、それなりに病気を治してみたり、活躍さ
れているようです・・・。ただ、原始仏教経典には、修行の途中で、そのよう
な能力が備わっても、自分の為に使ってはいけないと書かれて居るはずです。
 しかも、死後の自我については、釈尊は解かれていないはずなのですが、
いったい、本当の「仏教」とは何処に行ってしまったのか・・?不思議な気が
します。パリー語で書かれた経典の中に、誰も理解してくれないのなら、一人
で進む方が良い!と書かれていますので、それを守って生きていきましょう!
 私が感じる仏教は、自我の滅亡であり、執着から離れることで、安らぎを
得ることと感じています。どうせ出家など出来ない未熟者ですから、在家に
生活しながら、女は女房だけと心に決めて、欲望のコントロールの方法を修行
中であります(爆)!それでも、最近は「お金」「異性」「名誉」等の、自己
顕示欲はコントロール出来るようになって来ました。
 あとは、女房子供に対する、執着からの脱出ですね(笑顔)。
なにも、家出するとか、捨て去るとかでは無く、執着からの脱出ですけどね!
 法華経に関しては、私の感じるに・・・。解釈を誤ると、とんでも無い、
経典であると感じます。日蓮聖人も、法華経の解釈を誤解して、鎌倉幕府に
厳格な態度で、進言し、多宗を折伏したのだろうと推測しています。
 
 「釈尊」の解いた事と「法華経」は、あきらかに見ている場所が違います。
大変、恐ろしく、興味深いことに気が付いてしまいました。私のような者は、
知らなくても良いことを知ってしまったので、「法華経」信徒団体に、殺され
るのでしょうか?もしくは、法華経を愚弄した罪により、頭が七つに割れて、
無惨な臨終を遂げ、無限地獄に赴くのかも知れません。
 時々、法華経信者の脅迫めいた折伏活動で、もしかしたら、あらゆる経典の
中で、「法華経」こそ唯一絶対の教えであり、他の経典は紙屑という日蓮信者
達の言うことが、適正な仏教なのではないだろうかと、心の何処かでおびえて
いる自分がいますので、どうか、皆様の意見を拝聴いたしたく、よろしく
お願いします。                          玄
00019 00/04/09 14:50 きく               RE:00018 『法華経の森を歩く』という本が
玄さん、こんにちは。きく、というものです。
 私は僧侶でもなければ日蓮宗の在家でもありません。曹洞宗の、あまり
まじめではない、参禅者の一人です。ただ、鎌倉仏教の考え方が好きで、
ちょっと大げさですが、心の支えとしています。だからといって、僧堂の
生活が絶対だとか、日本国の大船とならん、などと考えているわけではあ
りません。
> 創価学会を筆頭に、日蓮宗系の在家信徒団体が、インフルエンザのように
>国内に潜伏しているような気が致します。先日も、顕正会なる強烈な、日蓮
>仏法で折伏しようという同級生の話を聞き、ウンザリというところです。
 顕正会は「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は滅ぶ」などという冊子を
作って、あたりかまわず配っています。創価学会と同様大石寺から破門さ
れてしまいましたが、彼らは諫暁なのだと言っています。
> 驚いたのは、彼らは「法華経」すら知らないということです。
>末法の御本仏「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は滅ぶ」という狂気です。
>「南無妙法蓮華経」の題目の意味も知らず、他力本願で突き進む・・・。
>私の感じている仏教とは、あまりにも縁遠く、もはや仏教とは違う領域に
>あります。鳥肌が立つおもいでした。まるで、革命を計画中の青年将校を見る
>思いでした。
「法華経」を知らなかったり、題目の意味も知らないのは、程度の低い会
員ですね。恐ろしいのは、大学で宗教学を専攻してきたようなのもいます。
しかし、狂気がほしいのであって、玄さんのお感じになられるように、こ
れは宗教ではありませんね。宗教を借りてそんな精神状態がほしいのです。
これはいつの時代にもあるし、どの宗派にもあるし、人間の偽れない本能
の一つだと思います。
 さあ、それをどうやって生かしていくのか、人類の精神史はある意味で
は、それの葛藤ではなかったかと思います。
 密教の中にも、浄土教の中にも、神道の中にも、キリスト教の中にも、
驚くようなものがありますよ。ただ、日蓮系の新興宗教の場合が、一番一
般の人の目に触れることが多く、あまりよくない意味で目立ちました。私
もいる横浜にはある神道系の団体がありますが、はっきり言って異様です。
> ところで、皆様に質問ですが、法華経に代表される大乗教典を読んでから、
>パリー語の日本現代訳語の原始仏教経典を比べると、もはや同じ種類?の仏教
>とは似ても似つかないものになっている事に気が付きました。
 仏教の経典編纂の過程、特徴が、すべて「如是我聞・・・」という形で、
釈迦から実際に聞いたという形になっています。これはインド人の伝統的
な発想様式なのです。釈尊死後相当の年月を経て、釈迦から実際に聞いたな
んて言うのは、我々近代人から見たらでたらめもでたらめですね。しかし、
そうやって大乗の経典結集がなされたのです。パリー語の日本現代訳語の
原始仏教経典、たぶん中村元の訳だと思いますが、それとても、研究が進
んだ今は、おそらくこうだっただろう、という意味で作られたということ
です。だから創作なのです。しかし、でたらめではありません。
 禅宗では指月のたとえを用いますが、その先にある真理、それが大事な
のだし、それを言うために、さらによい言い方はないか、さらによい言い
方はないか、と経典が発展し、おびただしい宗派が生まれたのではないで
しょうか。
 実は学生時代からの友人で阿部慈園というものがおります。中村元の教
え子で、明治と東方学園で教えていますが、原始仏教経典の最もよくわか
る人です。彼が言うには、このインド人の思考様式の特徴をよく知らない
と、小乗だけが正しく、中国や日本の仏教は原始仏教とは脈絡のない別も
のということになってしまうそうです。(だからといって即同じではありま
せん。)
> 法華経に関しては、私の感じるに・・・。解釈を誤ると、とんでも無い、
>経典であると感じます。日蓮聖人も、法華経の解釈を誤解して、鎌倉幕府に
>厳格な態度で、進言し、多宗を折伏したのだろうと推測しています。
 どの宗教、どの経典でも解釈を誤るととんでもないことになります。
ただ、日蓮聖人が法華経の解釈を誤解していたとは思いません。如来寿量
品は大乗仏教の要です。それは、玄さんも実際にお読みになれば容易に納
得が出来ると思います。ただ、その永遠の生命をどうとらえるか、どう実
際の人間世界で理解すべきか、中国、日本の、それぞれの祖師で差があっ
たのだと思います。
 私は日蓮聖人と道元禅師の立場を取りたいと思います。
> 「釈尊」の解いた事と「法華経」は、あきらかに見ている場所が違います。
>大変、恐ろしく、興味深いことに気が付いてしまいました。私のような者は、
>知らなくても良いことを知ってしまったので、「法華経」信徒団体に、殺され
>るのでしょうか?もしくは、法華経を愚弄した罪により、頭が七つに割れて、
>無惨な臨終を遂げ、無限地獄に赴くのかも知れません。
 玄さんが恐れているのは、折伏活動と称する脅迫めいた圧力、暴言、の
ことではないですか。それが専門的ではなくても、もし自分の力で法華経
を読むことができたら、我々凡夫でも、何が本当なのかはわかると思いま
す。
『法華経の森を歩く』(水書房)という、詩人の山尾三省が書いた本があ
ります。屋久島で森とともに生きる詩人の本ですが、ヒントを与えてくれ
ると思います。
 私は参禅もするのですが、私の家には十界曼荼羅を小さな厨子におまつ
りしています。日蓮宗の僧の友人にこんなのいけないかな、と相談したら、
本当はそういうのはないのですが、複雑な現代人の一つのあり方なのかも
しれないと言っていました。
 私流の心のよりどころとしています。
00020 00/04/09 17:01 YAM                RE:00018 素朴な疑問
玄さん,はじめまして.
YAMといいます.浄土真宗の僧侶です.
パーリ仏教に興味をお持ちだとの事,たいへん結構なことと存じます.
さて,パーリ仏教と大乗仏教との関係ですが,前者を大乗の側から
「小乗」とよぶことは適当ではない,と共に,大乗非仏説もまちがいです.
私は2年前から自坊にて「仏典購読会」という勉強会を開いています.
最初に使ったテキストは『阿含経典による仏教の根本聖典』(大蔵出版)
でした.浄土真宗の寺でなぜ阿含経を講読するのか,といいますと,
阿含経は浄土経典や法華経とくらべて「程度の低い・仮の」教えでは
なくて,根本仏教だと信じるからです.もちろん,後世に付加された
部分も少なくありませんが.そこで仏教の根本は何か,といえば,
いわゆる四法印ということになろうと思います.さらに一言でいうな
らば縁起です.その根本の上に展開されたのが大乗仏教ということで
しょう.
さて,私も創価学会の方とやりとりした経験があります.正直にいうと,
法華経原理主義とでもいうべき発想の方とは話が最後まで噛み合いません
でした.しかしそれを通じて,私もずいぶん勉強させてもらいました.
何事も縁ならざるはなし,です.感謝しています.
覚りを山頂に譬え,そこに至る道は一本とは限らない,すべての道は
山頂に通じている,と言われることがあります.そうには違いありませんが,
自分が登る道は一本だけです.自分の信じる道を歩む以外にはないでしょう.
ただその場合でも,他者との対話は心掛けたいです.
私は法華経に関してはほとんど素人ですので,玄さんの問題提起に対して
直接はお答えできませんでしたが,仏教の根本をどうとらえるか,という
ことで,今後お話し合いできれば幸いです.
00021 00/04/09 17:28 川蝉               RE:00018 素朴な疑問
 
玄  さん初めまして。
> 創価学会を筆頭に、日蓮宗系の在家信徒団体が、インフルエンザのように
>国内に潜伏しているような気が致します。
私の町内は一番地が十世帯ほどですが、そのうち二世帯は創価学会入信者と云う地域
です。まだ顕正会の世帯は近くには居ないようです。
> 法華経に代表される大乗教典を読んでから、パリー語の日本現代訳語の原始仏教
経典>を比べると、もはや同じ種類?の仏教とは似ても似つかないものになっている
事に気が>付きました。
大乗経典に対する、仏教学者のおおよその見解は、仏教思想・教理をより闡明に顕そ
うとした運動の結晶したもの、とされています。
私も今日、書店に注文しましたが、春秋社刊・中村元著「原始仏教から大乗仏教へ」
平川彰著「大乗仏教の教理と教団」と云う本があります。
まだ自分で読んでいないのに、おすすめするのは無責任のようですが、両教授は現在
の代表的学者ですから、その所論ですのでおそらく優れた論文と思われます。
原始仏教経典の仏教とは似ても似つかないものになっているかどうか?についての、
一つの回答になる著述と思います。
> しかも、死後の自我については、釈尊は解かれていないはずなのですが、
>いったい、本当の「仏教」とは何処に行ってしまったのか・・?
原始仏教経典にも、生天が説かれていますし、悪業の者は悪処に赴くと云う教説が
あります。五陰仮和合・無我でありながら、現生の報果としての、存在がある事を説
いていますね。
> 私が感じる仏教は、自我の滅亡であり、執着から離れることで、安らぎを
>得ることと感じています。
大乗経典も、自我心・執着を統御し、安らぎを得ることを説いていますね。
ただし、大乗経典の経説に反している状態の教団や信者が居ることも事実ですね。
>日蓮聖人も、法華経の解釈を誤解して、鎌倉幕府に厳格な態度で、進言し、多宗を
折伏>したのだろうと推測しています。
日蓮聖人ほど誤解され来たった人はいないと云われています。ご推測が正当かどうか、
今後とも大いに検討してください。
>脅迫めいた折伏活動で、もしかしたら、あらゆる経典の中で、「法華経」こそ唯一
絶対>の教えであり、他の経典は紙屑という日蓮信者達の言うことが、適正な仏教な
のではな>いだろうかと、心の何処かでおびえている自分がいます        
      
日蓮聖人は決して「他の経典は紙屑」などと云っていません。大丈夫と思いますが、
くれぐれも脅迫めいた折伏活動に負けないでください。
00022 00/04/10 01:27 玄                 RE:00021 素朴な疑問・・返信
 皆様、さまざまな意見をありがとうございます。
なんだか、不安から抜け出せそうな気がいたします。
 私の部屋には、書店や通販で買い付けた、仏教に関する書籍が蓄積されて
おります。最初に手にしたのはサンスクリット語の現代訳語「法華経」です。
日本に存在する宗派会派に属さない直訳本なので、大変参考になりました。
「坂本幸男・岩本裕」注訳による書籍です。私の同級生が、顕正会や創価学会
の会員で、あまりにも「あわれ」な姿に悲しみを覚え、法華経の原本を読むこ
とから始めたのです。
 その後、自分の家が、曹洞宗の檀家であることに初めて気が付きました。
現在の日本は、皆さんが言われるように、葬式仏教と皮肉られるように、われ
われはじめ、社会の激流にもまれ自分を見失い、生活に追われ、意味不明の
自我にとらわれ進行方向を完全に失ったかのようにも見えます。
 自分の心の不安は隠しきれず、なにか絶対の教理が存在するのでは無いのか
という欲望から、さまざまな仏教経典や、キリスト系、一神教系や他力本願系
のアブナイ(爆)宗派の本まで読んでみましたが、結局「中村元」氏などの方
々の書かれている書籍に共感を覚えるに至りました。
 また、インターネットを利用して、各宗派のホームページや在家信徒団体の
ホームページを流浪し、このサイトを発見したのです。最初は、このサイトに
登録するには、メールアドレスを登録しなければならず、自分の素性が明確に
なるので不安を覚えましたが、このサイトに記載されている意見を読ませてい
ただき、まともな人達(失礼)の発言であると勝手に断定したので、私も登録
させて頂いたしだいです。
 自分の考えも、さまざまな教説の本により二転三転したものです。法華経が
すべてであると考えたり、あるときは鎌倉仏教は仏教にあらずと考えたり、
在家信徒団体(日蓮系)の人達が正しいのでは無いのか?とまで、自分を完全
に見失いそうになる危険もあったのです。強烈な烈火のごとくばく進する、
創価学会員を代表する、命に代えて折伏活動を勧める彼らを、一時期は、うら
やましいと思うこともあったぐらいです。
 彼らには、失礼な表現ですが、新興宗教の在家信徒団体の皆さんを見ている
と、恋に落ちて「もがいている」未成熟な男女や、不倫地獄から抜け出せない
淫乱な男女と、同レベルにある感情を見いだします。・・・<失礼(爆)
 それでも、かれらの論説は、非常に良くできたもので、我々のように勉学の
乏しい人間は、引き込まれそうになるのです。落ち着いて整理してみると、
彼らは、自分の会派の論理を丸飲みにして、頭に詰め込み、論議していますが
自分という意識は何処にもないということに気が付くことが出来、幸いです。
 これからも皆様の御意見を拝聴したいので、よろしくお願い致します。
日蓮聖人を、もう少しで仏教の「恥さらし」に格下げするところでした(笑)
 「日蓮系の在家信徒団体」と「日蓮宗」「日蓮正宗」と混同し、さらに
日蓮イコール在家信徒団体を同じレベルに感じていたことを恥ずかしく思い
ます。私も「曹洞宗」の檀家に生まれたのも何かの縁として、在家の仏教信徒
として、少しずつ勉強していきたいと思います。
 日本をはじめ、世界には、さまざまな仏教宗派や宗教会派が存在しますが、
アインシュタインが明言しているように、宇宙は二重構造であり、その答は
「仏教」にあり。という偉大な物理学者が言うように、やがて宗教は物理化学
と交わるという言葉に共感しています。
 なんだか、元気が出てきました。これからも皆様の御意見を拝聴させていた
だきますので、よろしくお願いいたします。             玄
00023 00/04/10 10:22 Eisai              RE:00018 原始仏典と『法華経』の違い
玄さん、ようこそ仏教ラウンジへ。
どうぞ宜しくお願い致します。
 >  驚いたのは、彼らは「法華経」すら知らないということです。
 日蓮系には助行(お題目以外の修行)を軽視され過ぎておられる方が多いよ
うに思います。
 なぜ、助行はあるのでしょう。どうして、お題目は有り難いのか。法華経、
天台学、一般仏教から検証して有り難さをかみしめなくてはならないと思いま
す。
 そして、日蓮聖人の御文章を読むにも注意が必要です。日蓮聖人のものとし
て伝わる御文章には、明らかな偽書が沢山伝わっています。
 また、巷の宗教指導者の信じがたい話をあまりにも無抵抗に受け入れてしま
う信徒そのものも危険でしょうね。
 > パリー語の日本現代訳語の原始仏教経典を比べると、もはや同
 > じ種類?の仏教とは似ても似つかないものになっている事に気が
 > 付きました。
 仏教の歴史は、仏教が仏教でなくなる歴史でしかないという考えも成り立つ
と思います。
 ただ、国を越え、時代を超え、文化を越えて仏教が弘まるためには、ある程
度の変貌は致し方ない面もあるかも知れません。
 むしろ、仏教のガンダーラ化、亀茲化、中国化、日本化があったからこそ、
それぞれの国に仏教は弘まったのではないでしょうか。
 上座部仏教のままでは、在家的な存在の者は、家族と財産を捨てて本当の出
家をしない限り仏教の理想に到達できないままになってしまいます。また、托
鉢の修行者を供養する習慣のない地域や、それを受け入れられない既に高度な
文明を持っていた国々(中国など)に仏教を弘めることはできなくなります。
 また、原始仏教から派生した、さまざまな仏教の中にも教義や哲学の発展に
より奥行きが深まった面もあるでしょう。
 大切なのは、お釈迦様当時の仏教を否定しないことと、全仏教はお釈迦様の
理想へといざなう手段でなくてはならないと思います。
 私は、少なくとも『法華経』を読んでいて、『スッタニパータ』、『ダンマ
パダ』、『マハー・パリッパーナ・スッタンタ』と似ても似つかないとは思い
ません。
 ただ、脅迫的な布教をしてきた連中のありかたは私も否定します。
 仏教者は法難を忍受こそすれ、脅迫を忍受させることは間違いだと思いま
す。
 >  法華経に代表される、末法というのは、
 『法華経』には「末法」という文字が二度出現します。
  又文殊師利、如来の滅後に末法の中に於て是の
  経を説かんと欲せば、安楽行に住すべし
            『妙法蓮華経安楽行品第十四』
  悪世末法の時 能く是の経を持たん者は
  則ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足するなり
           『妙法蓮華経分別功徳品第十七』
 末法は、大変だから注意して布教しなさい。でも末法だからこそ法をたもつ
功徳がありますよ。というものでしょうか。
 『法華経』は恐らくイエスキリストと同じ頃に成立しているそうです。直接
の仏説ではないかも知れませんが、お釈迦様の直弟子の声聞達の成仏を大乗経
典として唯一保証しているなど、決してお釈迦様の原始仏教を否定してるもの
ではありません。そして、原始仏教から上座部仏教そして初期大乗の歴史を十
分と踏まえていて、他の仏様を中心に据えずにあくまでお釈迦様を本仏と仰ぎ
ます。
 さて、日蓮聖人においても、末法は脅迫の具ではなく、大変な末法だからこ
そ私たちは逆に救われるというのが日蓮聖人の本来の教えではないでしょう
か。
   極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。
   正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。
   是ひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、
   時のしからしむるのみ。 
                  『報恩抄』真跡曽存
 > このように釈迦の教えが、時代の僧侶達によって、自分の解
 > 釈と経典書き換えによって変化した末路であろうと直感してい
 > ます。
 自分の都合の良いように書き換えたのではなく、お釈迦様に会いたい一心で
見仏の行をするなどして、宗教的体験として仏菩薩にお会いして、そこで体験
されたことがお釈迦様の真意に違いあるまいと・・・そういうことを赤裸々に
仏説に違わないものととして述べられたものだと私は解釈しています。
 > もはや釈尊の教えは、ごくわずかになり仏教から新興宗教
 > へと変化してしまったのだと思います。
 初期大乗仏教は紀元前後の新興宗教でしょうね。
 ただ、如来蔵思想なるものが登場する中期大乗以後と峻別することができる
のではと思います。
 ただ、どちらにしましても初期大乗経典は2000年近い歴史があます。釈
尊の理想への手段である限りは、否定的な意味の新興宗教ではないと私は思い
ます。
 > にわずかな神通力をお持ちのようで、それなりに病気を治し
 > てみたり、活躍されているようです・・・。ただ、原始仏教経
 > 典には、修行の途中で、そのような能力が備わっても、自
 > 分の為に使ってはいけないと書かれて居るはずです。
 仰るとおりでしょうね。祈祷で私腹を肥やそうなどと言うのは言語道断で
す。
 祈祷は、損得勘定だけで動きがちな現代人を無上道にいざなう手段としてこ
れほど有効な手段はないのでしょう。
 ただ、その手段が目的になっている認識不足の方が多いように思えます。
 加持をしたり霊の話をするだけで、あとはほったらかしの御仁も多いです
ね。
 私は聞く耳を持つ人には、四苦八苦と四諦と八正道の話を必ずするよう努め
ています。
 でも、切羽詰った悩みをもつ人に話しても・・・・丁度、入試間際の高校受
験生に分数の基礎を教えているようなものかも知れません。
 ちなみに、私は修法師ではありません。
 > どうせ出家など出来ない未熟者ですから、在家に生活しながら、
 > 女は女房だけと心に決めて、欲望のコントロールの方法を修行
 > 中であります(爆)!
 私も同じ心境です。
 奥さんの負担?を増やさないでくださいね (^_^;
 > それでも、最近は「お金」「異性」「名誉」等の、自
 > 己顕示欲はコントロール出来るようになって来ました。
 素晴らしい!
 ただ、私も俗的です。いろいろ自分をコントロール出来るようになりました
が、単に年を取ったせいかも知れません。
 でも、こんな私がここまでなったのは仏法のお陰だななんて思います。
 もちろん、それでもなかなか自己をコントロールできない凡夫です。だか
ら、私は私の今の信仰を続けなくてはと思っています。 
 >  法華経に関しては、私の感じるに・・・。解釈を誤ると、とんでも無
い、
 > 経典であると感じます。
 ちゃんと『妙法蓮華経方便品第二』(十如是までだけではダメ!!)を読ん
でいれば大丈夫だと思うのですが・・・。
 そう言う意味でも、助行は大切なのです。
 > 日蓮聖人も、法華経の解釈を誤解して、鎌倉幕府に
 > 厳格な態度で、進言し、多宗を折伏したのだろうと推測しています。
 日蓮聖人が私利私欲で他宗批判などしていないと思います。命がけの慈悲
で、肯てされた行動と理解しています。
 日蓮仏教は、戦闘的な宗派ばかりではありません。
 そして、できますれば、・・・日蓮聖人が法華経を誤解した・・・などとい
うことを言われる前に、真摯に日蓮聖人の仏教を信仰している人への配慮が欲
しいです。
 肯てそう言われるのであれば、どいう立場から何故そう言えるのかを具体的
に明らかにして下さい。あるいは、素朴な疑問としてそういうことはあっても
不思議ではないと思いますので・・・柔らかい言葉使いをお願いできれば幸い
です。
 曾て NIFTY-Serve でオンラインビハーラ FBUD のシスオペをされていたマ
イコン坊主さんが昨秋に仏教大学四条センターのパネルディスカッションで
仰っていました。
 マイコン坊主さんがどうしてオンラインビハーラ FBUD から降りられたか・
・・理由を述べられました。おそらく、彼はここもROMされていると思いま
すが・・・。
 ネットでは、昨日今日仏教をかじった者と、長年真摯に専門的に仏教を求め
てきた者と同列になってしまう。昨日今日仏教をかじった者は、仏教の大切な
部分まで昨日今日得た知識だけで茶化してしまいがちだ。そんなことでは仏教
の本質は語れない・・・。そう彼は仰っておられました。私も同感です。
 匿名であれ、実名であれ、信仰者にはネットでも譲れない伝統と権威など大
切にしたいことがあります。それは信仰者にとって命です。自由闊達な意見交
換は有益ですが、そのあたりを尊重できるかどうかが仏教BBSの健全さを保
てるかどうかの大切な要因でしょうか。
 もちろん、無謬を主張するつもりはありません。素朴な疑問の披瀝、しっか
りした根拠に基づく批判なら肯て受けましょう。それは私たちにとって有益だ
からです。そしてディスカッションしましょう。
 > 大変、恐ろしく、興味深いことに気が付いてしまいました。私のよ
 > うな者は、知らなくても良いことを知ってしまったので、「法華経」
 > 信徒団体に、殺されるのでしょうか?
 そんなバカなことはしないでしょう。
 彼らが仏教の fundamentalism (原理主義)を主張するならなおさらです。
 原典に帰れば帰るほど、仏教は平等で平和なものです。
 それが、ユダヤ教やキリスト教そしてイスラム教など砂漠の一神教と違うと
ころです。
 自然科学の軋轢もほとんどありません。
 玄さんは、恫喝を受けて居られるのですか?
 日蓮聖人は迫害を忍受するとも、迫害を加えたりしたことはありません。
 > もしくは、法華経を愚弄した罪により、頭が七つに割れて、
 > 無惨な臨終を遂げ、無限地獄に赴くのかも知れません。
 『法華経』が説かんとしていることは(ほんの一部の列挙)、
  みんな成仏する才能を持った菩薩ですよ
  お釈迦様と私たちは遠い存在のようでそうではありませんよ
  だから頑張りなさい
  だからといって驕ってはいけませんよ
  この教えでみんなで等しく幸せになりましょう
  みんなが等しく幸せにならないとあなたも幸せになりませんよ
ということでしょう。
 
 本来仏教に備わっていて『法華経』の根本にもある、慈悲、平等、平和・・
・そういったことを蔑ろにするとストレス社会になります。そして、ストレス
から精神的な病にかかります。そのような状態を「頭が七つに割れて」と『法
華経』末尾にあるのでしょう。私は個人はそう理解しています。
 >  時々、法華経信者の脅迫めいた折伏活動で、もしかしたら、あら
 > ゆる経典の中で、「法華経」こそ唯一絶対の教えであり、他の経典
 > は紙屑という日蓮信者達の言うことが、適正な仏教なのではない
 > だろうかと、心の何処かでおびえている自分がいます
 日蓮聖人は『法華経』以外の経典を紙屑とはしていません。むしろ仏説とし
て現在の仏教学者以上に尊重しておられます。
   阿含、方等、般若、大日経等は、仏説なればいみじき事なれども
   『開目抄』真跡曽存
 そのなかで、どれが仏教の真理に迫っているのだろうかと真摯に突き詰めら
れて『法華経』を唱導されたのです。
 ともかく、富士系過激派について教義や信仰面で怯える必要はありません。
 むしろ、彼らの過激な行動につられて、法華経や日蓮聖人まで同列にするこ
とだけはお避け下さい。
 それにしても問題は脅迫行動です。
 大石寺系富士門徒に何故脅迫行動に出る者が多いのか・・・それは、後日一
緒に考えましょう。
 ただ、私もかなり、大石寺教学や大石寺系富士門徒の過激な行動を批判して
きましたが、脅されることなく今まで来ています。
 数年前ですが、創価学会を脱会した方を世話したときは電話で
  「おまえとこへ今から押しかけたるさかいになぁ〜」
 と、ガラの悪い口調で怒鳴られましたが・・・結局は押しかけて来ませんで
した。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00024 00/04/10 11:38 YAM                RE:00022 他力本願
At 1:27 AM 00.4.10, 玄 wrote:
>  自分の心の不安は隠しきれず、なにか絶対の教理が存在するのでは無いのか
> という欲望から、さまざまな仏教経典や、キリスト系、一神教系や他力本願系
> のアブナイ(爆)宗派の本まで読んでみましたが、結局「中村元」氏などの方
> 々の書かれている書籍に共感を覚えるに至りました。
他力本願系のアブナイ宗派,って???
たぶん他力本願を誤解されているのではないでしょうか?
他力とは仏力のこと,本願とは阿弥陀仏の48の誓願(狭義にはそのうちの
第18願)のことです.
どうしても聖者になれなず生死流転の世界から解脱できない凡夫も,仏の
本願のお力によって成仏できるが,凡夫の浅ましい努力には限界がある
と教えるのが,無量寿経です.
00025 00/04/10 16:17 玄                 RE:00023 原始仏典と『法華経』の違い
>玄さん、ようこそ仏教ラウンジへ。
>どうぞ宜しくお願い致します。
>
 Eisai様をはじめ、皆様の意見を読み、ますます仏教に対して興味が沸いて
まいりました。なにゆえ、私がこのように真剣に仏教について、考えるように
なったかと言えば、この歳になって(40歳)から、ふと人生について疑問を
持ちはじめたからです。
 幼い頃から、優秀な学歴と高収入を得る仕事と、社会的に尊敬されるような
職業に就き、人様からうらやましがられるような美人と結婚して、富を築くの
が「幸福」なことという一般的な価値観が、むなしくなったからです。
 誰しも、金銭的に裕福でありたいと願うのが通常であろうと思います。
また、より綺麗で可憐な女性をを自分の物にしたいという欲望も隠しきれませ
ん。努力して努力して、高収入を目指し、自分の外見を作り上げ、異性の目を
気にしながら、同性に対しても、常にライバル意識を持ち、負けないように
努力してきたつもりですが、ここに来て、なんだかきりがないよなあ・・・
と、感じるようになってきたのです。
 数年前からの、大石寺系在家信徒団体に入信している、同級生の激しい折伏
活動にほんろうされ、幸せ論についての話を聞いているうちに、ナルホドと
思える話から、かなりおかしい?と思える話まで・・・。彼らの話の中にも
まとものな部分があるだけに全面的に否定することも出来ずに、調べはじめた
のが、仏教に興味を持った最大の理由です。
 なるほど、皆様の意見を聞いて心が安らかになったような気がいたします。
仏教に入り込んだばかりの私と致しましては、難しい言葉が多いのですが、
その都度、素朴な疑問として教えを頂きたく重ねてお願い申し上げます。
 早とちりと、早合点の「お調子者」と自分で認識しておりますので、どうぞ
よろしくお願いいたします。
 もう少しで、日蓮聖人と、大乗仏教経典を「誤解」という名のもとに、削除
する恐れがありました。(反省)
 また、他力についてですが、浄土系の仏典を読んでいませんので、これから
少しずつ勉強したいと思いますので失礼な文面の数々、どうか容赦願います。
 とにかく、このホームページを見つけて、吹っ切れたような気がします。
ありがとうございます!                     玄
00026 00/04/11 18:08 Eisai              RE:00025 中村元先生のテープ
玄さん、こんにちは。
 >  早とちりと、早合点の
 いえいえ、仏教についてはいろんな人がいろんな考えを持っています。
 学術的な研究をしている仏教学の先生でもそれぞれ見解が違ったりします。
 まして、身近な坊さんや信徒さんなどの話を聴いたりしていても、早とちり
や早合点の範疇に陥ることがあると思います。
 もし、法華経は○×だ、親鸞聖人は△△だと結論づけるのであれば、その原
典にあたってみて実際自分がどう感じるのかということが肝心だと私は思うよ
うになりました。
 それができそうでできないのですが、それなしに評論や解説だけで判断して
しまうと・・・それはあくまで借り物の知識であり、受け売りにすぎないなと
思います。
 借り物の知識や、受け売りで信仰を捉えようとすると、玄さんのお友達のよ
うになるのでしょうか。
 かく言う私も、自分の宗旨の書物だけでも四苦八苦しているのですが・・
・。
 そうそう・・・原典を読むことにはなりませんが・・・中村元先生のファン
のようですね。
   NHKサービスセンター こころをよむ仏典 \28,840- カセットテー
プ12本
は、本を読む時間のない私にはとても勉強になりました。原始仏典から大乗経
まで代表的なものが取り上げられています。
 檀家参りのクルマの中で時々聴いています。如何ですか?
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00027 00/04/11 23:16 玄                 ここのホームページの不思議!
 新参の玄です。
いろいろな方々の意見を読んでいるうちに、ふと気が付いた事があります。
ここのホームページの投稿を見ていると、非常に難しい仏教用語は別として
我々、在家の仏教徒でも、大変解りやすい内容であり、心にスッと入ってくる
ものがあります。それが何なのかは良くわかりませんが・・・。
 私の同級生による、数年間の折伏活動の腹いせに、このホームページに、
殴り書きをしたようで、随分と反省しております・・・。<反省!
 私の家は、曹洞宗の檀家で、このままでは子供を含め、無限地獄に落ちる
とまで言われたときは、唖然としてしまい、怒りを通り越していたのです。
何の意味も無い、法華経の前に説かれた経典を読む僧侶に、布施をやるなど
言語道断とまで言われました。
 個人的には、「般若心経」や法華経の「如来寿量品」が好きな経典です。
中でも、中村元さん直訳の、原始仏教直訳の本が大好きです。
 大石寺系の僧侶にも遊びに行って、日蓮正宗の教義や、曹洞宗の僧侶の方
にも、時々話を聞きに行ったりもします。素人の私と致しましては、宗派会派
を区別する気は、まったくなく、自分に抵抗無く受け入れられる事を参考にし
ています。
 ここのホームページに投稿されている文章を見ていると、宗派会派を超えて
「仏教」に対して正しく論議されているような気がして、心が休まります。
私にとって、砂漠のオアシスを見つけたような気が致します。
 ここのシスオペに感謝するとともに、皆様に敬意を表します。
 私は、唯一絶対の宗派と断定する人には近づかないようにしています。
大変仲が良かった同級生は残念でしたが、目の輝きが消え、麻薬中毒患者の
ようなうつろな目をして、自分の苦悩を「世間」のせいにしている姿が、あわ
れでなりませんでしたが、救うことも出来ないし、あきらめました。
 「親切というお節介、そっとしておく思いやり」というのもまた、正しい
考え方かもしれません。彼らには彼らの価値観があるようで、とてもついて
いけませんでした。私から見れば、明らかに狂っているとしか思えないので
すが、どうすることも出来ずに数年が過ぎてしまいました。
 なんだか、私の捜していた「仏教」なるものが、ここにあるような気がし
ます。また、中村元さんの録音テープですが、機会があったら購入したいと
思っております。また、「原始仏教から大乗経」という中村元さんの本も、
近く購入して読んでみたいと思います。
 これからも、よろしくです。                   玄
00028 00/04/13 15:19 川蝉               きくさん今日は。
何年か前、NHK深夜便で、金沢市・雲龍寺・荒崎師の名講話を聴き、道元禅師が極
めて法華経を重要視していたことを知りました。
それを機会に、十二巻正法眼蔵(玉城康四郎氏現代語訳)を読んで見たくらいで、道
元禅師に関しての知識は有りません。
栂尾の明恵上人は、神秘的能力をときおり発揮したそうですね。もっとも、弟子がそ
の事を記そうとしたら、「誰でも座禅修行すれば、こんな事ぐらい分かるものである。
記録などしないように」と戒めたと云う話しを読んだ事があります。
「神通は禅より生ず」と云われますが、道元さんにも特殊能力的な話しは有ります
か?。
作家の真継伸彦著「心の三つの泉」(河出書房刊・臨済宗の花園大学での講義録との
事)があります。
禅仏教の項では、広島県在住の永井駿氏の回心(見性)をめぐって語っています。そ
の中で紹介している永井氏の禅定力のすごさと、体験には心打たれました。永井氏は
教育テレビの「こころ」でも紹介されました。
日蓮聖人は末法の衆生は戒・定・慧の能力がひどく衰える旨を云われていますが、ほ
とほと私には禅定と言うか精神統一力が欠けているなと思われます。唱題三昧といい
ますが今まで読経唱題中、無念無想の三昧境を体験したことが有りません。
そのせいか、神秘的能力は全くありません。(霊に関する話しは好きなのですが)
きくさんが四月九日の発言に
> 西村公朝が両界曼荼羅の解説で、大日如来は真ん中にある仏様だが、その曼荼羅
全体
>も大日如来をあらわしたものなのだ、と説明していましたが、私は同じような感じ
で、
>我が家の十界曼荼羅を見ています。すなわち、あの曼荼羅の諸尊がすなわち法華経
なの
>ではないかと・・・。あの全体が法華経なのではないかと・・・。
と書かれていましたが、
大曼荼羅は釈尊の悟りの世界を顕していると云う義もあります。釈尊の悟りイコール
法華経とも言い得ますから、「あの全体が法華経なのではないかと」と思われても良
いと思います。
曼荼羅の諸菩薩・諸天等は、悟りを得て、釈尊の心を心として衆生救済教化している
諸尊で、釈尊の手足・代理になっている姿です。で、「あの曼荼羅の諸尊がすなわち
法華経なのではないかと」と云う理解も良いと思います。
 
00029 00/04/13 22:45 きく               RE:00028 私には否定できないのです。
川蝉さん、こんばんは。
 大曼荼羅の自己流の解釈、誤りでないのなら、安心しました。私の日
蓮聖人の解釈は、宗門の人から見たらおかしな理解の仕方でしょうが、
娑婆即寂光浄土ではないか、・・・まだまだ私もそうは思えないのです
が、そうして行こうとする態度がとても好きです。それが、日蓮聖人、
道元禅師にひかれる理由なのです。
 仏は常に在せど現ならぬぞあはれなる人の音せぬ暁にほのかに夢に見
えたまふ
 やはり仏様はいつもおられるのでしょう。ただ見えません。凡夫の我
々にはなかなかわかりません。
>栂尾の明恵上人は、神秘的能力をときおり発揮したそうですね。もっとも、弟子がそ
>の事を記そうとしたら、「誰でも座禅修行すれば、こんな事ぐらい分かるものである。
>記録などしないように」と戒めたと云う話しを読んだ事があります。
>「神通は禅より生ず」と云われますが、道元さんにも特殊能力的な話しは有ります
>か?。
 澤木興道に『谿声山色』という著書があります。『正法眼蔵』の中の
「谿声山色」の巻の提唱です。その中に「一所四見」という話がありま
す。「一水四見」とも言います。一つの水を、天人は珠玉、人は水、餓
鬼は膿血、魚は宮殿と見る、という話です。すべてのものに仏性がある
のですが、それがわかるかどうか、そこが大切だというのです。それが
わかれば、心が自由になれるし、石女が子供を産み、山が動く、という
こともわかるはずです。しかし、それはまた、ごく当たり前の、山は緑に、
花は紅・・・、でもある。当たり前のことなのです。・・・もっともそ
うは言っても、私も受け売りで言っているので、自信を持ってそうなの
だと言えるわけではありませんので、何を言いたいのか見当をつけてい
ただければけっこうです。
 そんな境涯を得られれば、心の自由が得られる。それが神通を得ると
いうことではないかと思います。
 ある人は、いや神通とは、もっと劇的な、目に見える奇跡的なことだ、
とも言います。しかし、私は、もっと内面のことだと思います。心の中
だから、それは劇的で奇跡的なのだと思います。
 なぜなら、自分の一つの考え、観念、感性、が変わるということは、
そうたやすくあることではないし、それが変われば、生き方まで変わる
でしょうから・・・。
 宗教的体験、感得する、とはそのようなものではないでしょうか。
 道元禅師に物語的な怪奇譚は聞きません。しかし、石女が子供を産み、
山が動くような話は『正法眼蔵』の中には数多く出てきますから、そん
な意味で、道元禅師にも特殊能力的な話しはある、といってよいでしょ
う。
 栄西禅師が祈祷の名手であり、それが幕府に用いられた大きな理由の
一つであったことが、歴史学の分野では明らかになってきましたが、曹
洞宗に祈祷が大きくかかわっているのも面白い特徴です。脳波からこれ
を説明しようとした本はいくつもあります。その精神状態を神通と言っ
ているのかもしれません。
>何年か前、NHK深夜便で、金沢市・雲龍寺・荒崎師の名講話を聴き、
道元禅師が極
>めて法華経を重要視していたことを知りました。
 本には曹洞宗の所依の経典としてよく、般若心経や観音経、自我偈、
などが出ていますが、所依の経典はありません。こんなことを言うと、
エッ、と思われるかもしれませんが、仏性を説く手がかりとして、縁に
したがって、いくつかの経典を読誦しているのです。私の参禅する会で
は、金剛般若波羅蜜経を読みます。田舎、新潟のお寺では自我偈を読ん
でいました。友人Kさんのところでは、弘法大師がご本尊で、地蔵和讃
を読んでいたので、Kさんはデタラメではないかと言っていましたが、
そうではないのです。
 道元禅師が法華経を重要視していたことは有名で、特に如来寿量品や
如来神力品のことはよく引き合いに出されます。永平寺の当処永平はす
なわち常寂光土、同じことです。もちろん南無妙法蓮華経と唱えるので
す。如来寿量品や如来神力品を読むときには、いわゆるお題目を唱えま
すから(日蓮宗のように数多くは唱えませんが、)、不思議な感じです。
>日蓮聖人は末法の衆生は戒・定・慧の能力がひどく衰える旨を云われていますが、
 私はこれは非常に大事なことだと思います。末法の衆生には、どうす
ることがよいのか、人間というヤツは、すばらしいかもしれないが、ど
うしようもないものだ、そんな認識が日蓮聖人にはあったのでしょう。
 日蓮聖人の遺文、私は古文を読むことが仕事ですから、そのままで読
みますが、力を入れて、勇ましく解釈する人が多いのですが、私にはそ
うは読みとれません。「立正安国論」も「開目抄」も冷静で静かです。
「我日本国の大船とならん」、この一文だけを取り出せば、力の入った
勇ましい言葉ですが、本文はその前後があります。これは若い頃の誓願
です。それを思い出しているのです。そうすると、これはしみじみとし
た部分ですね。
 末法の凡夫に、どう戒・定・慧を悟らせるか、・・・。
 十界曼荼羅は金ピカの仏像ではなく、文字です。一度何か精神を通し
て、もう一度出てきたようなものに感るのです。
 うまく言えませんが、私には何かを与えてくれるのです。いや、与え
てくれるというのではなく、否定できないのです。
00030 00/04/20 14:14 川蝉               玄さん今日は。
中村元著「原始仏教から大乗仏教へ」(九千円)は、四月末に増刷販売するそうです。
平川彰著「大乗仏教の教理と教団」が届いたので、
「第二章 大乗経典の成立と経録」を、読んでみました。
昔のインド・中国においても、すでに大乗経典は「正典を惑乱するもの・邪見の書」
と批判があった事例、部派仏教が大乗を否定していた事例を引いて、
「大乗非仏説の主張はインドや中国でも実際に存在したが、有力な主張とならなかっ
た。その理由は、阿含から大乗経典につながる強い思想の流れを認めていたからであ
ろう。
明治以降は阿含経を重視する見方が強まったが、大乗経典は以前と同様に信奉された。
それは結局、大乗経典のそなえている思想や教理にもとづくものと理解してよいであ
ろう(趣旨)。」と述べ、
さらに、
「大乗経典は、菩薩の禅定の体験を述べたものではないかと思われる。」
とし、
「無着菩薩が夜は天宮に昇って慈氏菩薩から教えを受け、昼は大衆のために妙理を講
義したと伝えられているが、無着が禅定体験の中で兜卒天に昇ったことを意味するの
ではないかと考えられる。すなわち『定中所見の弥勒』から教えを受けたと云ういみ
である(趣旨)。」
と述べ、
つづいて、十住毘婆沙論を証として、
「出家菩薩の修行は非常にきびしく、その三昧修行中に、観仏三昧等の仏を観る三昧
に入ることが当然予想される(趣旨)。」と論じ、
さらに、禅定に入って仏を観ずる体験を述べているのであろうと推測できる経典を引
き、
「大乗経典には観仏三昧の体験を説くものが多い。三昧の体験において、仏から教え
を受け、三昧から出定してから、定中に受けた仏の教えを中心として、経典を述作し
たと考えてよかろう。
そのために、菩薩がみずから述作した経典を『仏説』と受けとったのではなかろうか
と考える。・・
経作者たちが自己の背後に仏陀の支持力を感じて、その力に乗じて経典を作ったと見
られるのである。そこに深い宗教体験が認められる。そのために大乗経典が『仏説』
であると主張されても、受持者に奇異の感じなしに受け入れられてきたのであろう
(趣旨)。」
と論じてありました。
第二章の部分は昭和59年に発表されたもので、この著書も十年前に第一刷されたと
のことですから、皆さんには御存知の論旨だと思いますが、まずはひとまず内容のご
紹介まで。
 
00031 00/04/21 05:22 玄                 RE:00030 川蝉さん今日は。
>中村元著「原始仏教から大乗仏教へ」(九千円)は、四月末に増刷販売するそうです。
>平川彰著「大乗仏教の教理と教団」が届いたので、
>「第二章 大乗経典の成立と経録」を、読んでみました。
>
 どうもありがとうございます!
川蝉さんの、投稿を見まして、納得出来る説明ありがとうございます。
 ただ頭ごなしに信心が足りないと言う住職が多く存在するなかで、大乗経典
の趣旨を、明確に説明されていると思われます。ありがとうございます。
 大乗非仏説については、歴史上でたくさんの方々が説いていますが、なる
ほど川蝉さんの説明で、心にスッキリとするものがあります。
 これで、ますます大きな声で、「私は仏教徒」です!と主張できそうです。
 重ねて、お願いですが、上記に紹介されました書について、さっそく注文
したいと思いますので、お手数ですが、出版社名をお知らせ頂きたいと思い
ます。
 中村元著「原始仏教から大乗仏教へ」(九千円)出版社****
 平川彰著「大乗仏教の教理と教団」 (**円)出版社****
 ***の部分を、お手数ですが、お知らせ願います。
いつも、納得できる投稿に感謝しております。       玄
00032 00/04/21 12:23 川蝉               RE:00031 川蝉さん今日は。
 玄さん今日は。
出版社は両書とも「春秋社」です。
平川彰著「大乗仏教の教理と教団」は税込みで7980円です。
それにしても仏教書は高いですね。欲しい本もなかなか買えませんね。
ついでに。
平川彰博士の「大乗経典は、菩薩の禅定の体験を述べたものではないかと思われ
る。」
との見解に、私も大いに賛同したいです。
御存知のように、正・像・末のうち、正法時代は、解脱堅固・禅定堅固とされていま
す。
禅定能力が極めて優れた修行者達が多く存在していたのでしょう。
天台大師も禅定中に霊山一会(法華経説法の光景)の光景を、ありありと観たと伝え
られています。
法華経自我偈に
「時に我衆僧 ともに霊鷲山に出づ 我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず」
と云う事を、法華経創作の菩薩たちも、天台大師と同じように、実体験したのではな
いでしょうか。
「常に坐禅を尊び諸々の深定を得、精進勇猛にして諸々の善法を摂し、利根智恵にし
て善く問答に答へん」(分別功徳品)
「我 その時に為に 清浄光明の身を現ぜん もし章句を忘失せば 為に説いて通利
せしめん」(法師品)
「是の比丘終らんと欲する時に臨んで、虚空の中に於いて、具に威音王仏の先に説き
たまう所の法華経二十千万億の偈を聞いて」
(不軽品)
等の文も平川彰博士の見解を証する文になるかなと思いました。
00033 00/04/23 21:53 きく               東洋の知恵
こんばんは、きくです。
 今日は東京の西のはずれ高尾山のハイキングをして、今帰ったところ
です。山川草木悉皆成仏、いいですね。みんな仏の姿、これはやっぱり
東洋人の発想です。そしてそれは正しいことだと思います。
 丹沢の山毛欅や樅の木は酸性雨で立ち枯れが目立つ、と言いますが、
不思議なのは、箱根の芦ノ湖の西岸の外輪山の山毛欅林は今年も元気に
芽吹いているし、高尾の樅の木も元気です。どちらも首都圏のすぐ横で、
排気ガスもすごいはずです。しかし、どちらの山も今年も元気に芽吹き
に季節を迎えました。
 信じられないでしょうが、箱根には表日本有数の山毛欅の原生林があ
ります。(三国山のあたり)そして、高尾には樅・・・。丹沢に降る酸
性雨はもちろんここでも降っています。
 私は、はっきり言って、これは山を大事にしないからだと思います。
箱根では山仕事の林道が出来ても、その仕事が終われば、元のように道
を埋め返して自然を復元しています。自然が無くなれば、観光も成り立
ちません。高尾の山には本当にゴミがありません。自然が自然を保てる
ように、自然のままで生育できるように、人が力をかしているのです。
 ああ、これが東洋の知恵なのだな、と思って帰りました。
 東洋の知恵、私はそれは仏教に象徴されると思います。
 山河国土悉有仏性、・・・いろいろ宗派の解釈はあるでしょうが、こ
れはヨーロッパ人の発想にはないでしょう。今こそ声を大にして称える
べきではないですか・・・。
 山を歩きながら、法華がなんだ、天台がなんだ、真言がなんだ、ある
いは禅だ、浄土だとは言っても、これがキリスト教文化と違う、発想や
感受性の異なるところなので、もっと声を大にして言うべきことではな
いかと思いました。
 法華経の真実が法身の大日如来で、そして悟りで、阿弥陀仏だ、など
と言ったら、宗門の人からは、なにを素人が・・・、と言われるかもし
れませんが、南無妙法蓮華経と南無大師遍照金剛と只管打坐がどうちが
うのでしょうか・・・。
 さて、かねがねあの日蓮聖人の十界曼荼羅の左右の愛染・不動の種子
が、あれだけなぜ種子としてあの位置になければならないのか、疑問で
なりませんでした。また、日天子、月天子が同様に左右にありますが、
法華経にはもっと有名な菩薩や天部があるのに、なぜあるのかわからず、
不思議に思っていました。四天王が書かれていなくとも、左右の愛染・
不動の種子はあります。何を意味するものなのか、・・・本当に不思議
です。
 また十界曼荼羅が画像ではなく文字で書かれていること、ある人は、
法華信者の経済的事情をあげていますが、本当はもっと深い意味がある
のではないでしょうか。形としてあげてはならない理由があるのではな
いでしょうか・・・。私は、それが鎌倉仏教を鎌倉仏教たらしめる大切
な理由だと思います。(これは親鸞、道元、一遍、みな同じだと思いま
す。)
 雑誌「大法輪」5月号は修験道の特集ですが、知識ではない、体得す
る宗教の発想には、宗教の原型のようなものを感じました。今日ともす
れば忘れかけているものではないか、と思いました。
00034 00/04/24 08:57 紫蘭               RE:00033 ゴミですが(^^;)
 どもっ (^-^)/>きくさん
> 今日は東京の西のはずれ高尾山のハイキングをして、今帰ったところ
>です。
高尾山ですかあ・・・良いところだそうですね。
いちど行ってみたい場所です(^o^)/
> さて、かねがねあの日蓮聖人の十界曼荼羅の左右の愛染・不動の種子
>が、あれだけなぜ種子としてあの位置になければならないのか、疑問で
>なりませんでした。
ずいぶん前の話ですが、ウチのお上人さんが研修会に行ったときに、真言宗僧侶の方
が講演して「日蓮宗は、我々真言宗では御本尊にしている不動明王・愛染明王を〈門
番〉にしていて、すごいですねえ」・・・と言っていたそうな(^^;)
ゴミですので・・・失礼しましたm(__)m
          紫蘭でした。 か し こ
00035 00/04/24 15:22 川蝉               RE:00033 東洋の知恵
 きくさん今日は。
> 法華経の真実が法身の大日如来で、そして悟りで、阿弥陀仏
>だ、などと言ったら、宗門の人からは、なにを素人が・・・、と
>言われるかもしれませんが、
御存知のように、真言宗では大日如来と釈迦如来を別仏とし、念仏宗では阿弥陀仏と
釈迦仏とは別仏としていますね。
日蓮宗では、釈尊を法身・報身・応身の三身を具足している仏と観ます。大日如来は、
釈尊の法身の面。阿弥陀仏は釈尊の分身仏としています。
結城令聞博士が「宮本正尊編・大乗仏教の成立史的研究」に於いて、
「釈尊の真精神をと把へる最もよき方法だと云う信念の下に、如何にすれば釈尊の真
の姿をえがきうるかという意図で、釈尊の真の姿として阿弥陀仏なる像を表出したの
であると私は思う。それではどうして釈尊をえがくに阿弥陀仏を以てしたかというに、
そこに当時の出家教団たる部派の釈尊観への抗議があるのであり、・・」
(P316)
と述べています。
上の日蓮宗の立場や結城令聞博士の見解などから云えば、
「法華経の真実が法身の大日如来で、そして悟りで、阿弥陀仏だ、・・」
と云う感想は、あながちに誤りとはいえないでしょうね。
>南無妙法蓮華経と南無大師遍照金剛と只管打坐がどうちがうので
>しょうか・・・。
宗教的な大天才がたの、それぞれの結論ですから、違いがあるか、無いか、凡才の
我々が簡単に評する事は、困難な事のようですね。
>不動の種子はあります。何を意味するものなのか、・・・本当に
>不思議です。
なぜ、種子で表したのか、日蓮聖人の教示がないので、本当の意味は、これからも分
からないことなのでしょうね。
大正七年に、日蓮宗大学長であった風間随学という碩学が
「親師の相承書に、二明尊が梵字で他は漢字であり、蓮・経と二明尊の『こ』は日本
のいろはの『伊』の字だから、之をもって三国の字を表したものであるとあるが、こ
れは信じるに足りない説である。日輝上人の『本尊弁』に、殊勝荘厳の意味より外な
いと云ってあるが、その通りである(取意)」
と、指摘しています。
> また十界曼荼羅が画像ではなく文字で書かれていること、ある
>人は、法華信者の経済的事情をあげていますが、本当はもっと深
>い意味があるのではないでしょうか。形としてあげてはならない
>理由があるのではないでしょうか・・・。
日蓮聖人ご在世の信徒が、一尊四士像を造立しましたし、(宗学上、一尊四士像は曼
荼羅本尊の妙略とされています)
宗門上代において、「戒壇の本尊は本尊の図のようにすべきである」と考えられてい
た文献もあるので、「形として顕してはならない」と云うような特別な意味は無かっ
たのでは。
しかし、十界曼荼羅の姿を木像で表すことは、実際上、極めて難しいと思われます。
経済的にも芸術的にも無理だと思います。
出来の悪い粗雑な木像を沢山並べた本尊では、有り難みが無いでしょうね。文字曼荼
羅の方が霊山会上の荘厳な光景を想像できるしなにかしら神秘的な味わいがあるよう
に思えます。
寺院では、一塔両尊四士とか一尊四士像、あるいは四天王像を添えた像造本尊を祀っ
ている所が多いようです。
00036 00/04/24 15:57 川蝉               RE:00033 東洋の知恵
 追加です。
>あれだけなぜ種子としてあの位置になければならないのか、疑問
>でなりませんでした。
天台では(妙楽大師の止観輔行)
「東は集、西は苦。南は道、北は滅なり」あるいは「東は集、南は苦。西は道、北は
滅」と、四聖諦に配当しているそうです。
そこで、
「涅槃の不動を、集・苦の生死を表した持国と広目の間に置き、生死即涅槃を表し、
向かって左の愛染(愛染の二字には一切の煩悩が含まれる)は、道・滅を表す増長と
毘沙門との間に置いて、煩悩即菩提と云う意味を表している(取意)」
と、前のコメントに挙げた風間随学師が述べています。
00037 00/04/25 21:13 顯正居士           RE:00033 不動・愛染の種子
川蝉さんおっしゃるように、
生死涅槃、煩悩菩提をあらわすと口伝されています。
参考〜「本尊論資料」(祖山学院・各派の本尊口伝の集成)
なぜ法華経に出てこない両明王が種子でしるされているか。
不動愛染感見記(保田妙本寺蔵)
http://tv.acmecity.com/baseball/263/bomp/kanken-2.htm
を御覧になれば納得ゆくとおもいます。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/
00038 00/04/27 21:39 きく               RE:00036 ずいぶん思索が深まりました。
 川蝉さんこんばんは。きくです。
 いろいろ教えていただいて、ありがとうございます。
風間随学師のお話、なるほどと思って、読ませていただきました。
 弘安三年七月と十月の「妙一女御返事」があります。その中で、自分
(日蓮聖人)がこれまで説いてきたのは、即身成仏のことなのだ、と言
っています。そしてそれは何なのだ、ということを説明しています。
 日蓮聖人の若い頃のことは、空海と同じようにあまりよくわかりませ
んが、天台、真言を相当深く学ばれたことは、最近の研究でわかってき
ているようですね。私は天台よりも、たぶん高野山で学ばれたであろう
真言の教学の深さに驚いています。しかし、晩年の日蓮聖人は、はっき
り佐渡以前と佐渡以後とを区別しています。もっと言えば龍ノ口がその
境目だと思うのですが、そこから天台の法華ではない日蓮の法華になる
のだと思います。いろいろな方から、有益な知識をいただいて、たいへ
んありがたく思って、本当に感謝しています。が、私はこの娑婆世界で
即身成仏ということが何であるのか、日蓮自身はっきりわかったのが龍
ノ口、そして佐渡でのことだったと思います。
 護摩壇を作り、そこで神秘的な行に全身全霊を集中してある精神状態
を感得することではなく、もっと、アッ、そうか、というような、この
現実の世界の中で、これが命なのだ、というような、そんな心境になっ
たのではないかと思うのです。
 天台や真言の教学の体得の跡は跡として、私はそれでは説明しきれな
い、と思うのはそのことなのです。(私は個人的には、この龍ノ口こそ
寂光の浄土だと言った日蓮聖人が好きです。それは実に静かな落ち着い
た境地だったと思います。)
 日蓮聖人がしばしば信者の木像の仏像の開眼供養をし、その功徳を説
いていますが、信者に木像の仏像を与えたという文章は不勉強で知りま
せん。文永十二年二月の「新尼御前御返事」や建治元年八月「妙心尼御
前御返事」には曼荼羅を与えています。信者には多くというより、十界
曼荼羅を書き与えていたのでしょう。木像絵像の仏像ではなく、文字で
あることは重要なことだと思います。
 釈迦牟尼仏でも上行菩薩でも、形となったら、もはやその生命や働き
とは違う色形です。日蓮聖人は当然天台の止観を学んでいますから、こ
うした禅の発想はごく自然にされたと思います。不動愛染の種子も法華
経の真理を、力を、生命を生の形で示す方法ではなかったかと思うので
す。色や形にしたら、それはそれでもうおしまいなのです。
 妙法経力即身成仏、・・・何となく、種子がそれを示す鍵のように思
えてなりません。
 私は専門的な勉強をしていませんので、たぶん変なこじつけもあるか
と思いますが、ずいぶん思索が深まりました。感謝しています。
00039 00/04/27 22:23 YAM                RE:00038 偶像崇拝
YAMです.横から失礼します.
At 9:39 PM 00.4.27, きく wrote:
>  日蓮聖人がしばしば信者の木像の仏像の開眼供養をし、その功徳を説
> いていますが、信者に木像の仏像を与えたという文章は不勉強で知りま
> せん。文永十二年二月の「新尼御前御返事」や建治元年八月「妙心尼御
> 前御返事」には曼荼羅を与えています。信者には多くというより、十界
> 曼荼羅を書き与えていたのでしょう。木像絵像の仏像ではなく、文字で
> あることは重要なことだと思います。
>  釈迦牟尼仏でも上行菩薩でも、形となったら、もはやその生命や働き
> とは違う色形です。日蓮聖人は当然天台の止観を学んでいますから、こ
> うした禅の発想はごく自然にされたと思います。不動愛染の種子も法華
> 経の真理を、力を、生命を生の形で示す方法ではなかったかと思うので
> す。色や形にしたら、それはそれでもうおしまいなのです。
なるほど,日蓮聖人もやはり形にとらわれることを戒められた,という
ことでしょうか.
私は浄土真宗なのですが,『蓮如上人御一代記聞書』には
「木像よりは絵像,絵像よりは名号」ということばがあります.
同じ発想だと思いました.
藤場俊基という方が『親鸞の教行信証を読み解く』第3巻で
「言語表現を本尊の形式としてもつことにより,いつでもどこでも
だれとでも共有できるということが大切だ.さらに考えをすすめれば
文字である必要さえもない.音声としての本尊=称名といえる」(取意)
と言っています.
しかし実際にお寺の本堂には金ぴかの仏像が鎮座している,
これはいったい何なのか,どうしても偶像崇拝になってしまうのだ
ろうか,と考えさせられます.
00040 00/04/28 03:49 きく               RE:00039 形や色の否定
 YAMさんこんばんは。きくです。
 今日は生徒のことでこんな時間まで起きています。今はそれこそ不動
明王のような気持ちで心を鬼にして、というよう気持ちです。金八先生
はやはりテレビだけの世界です。生徒は子供、とは言っても、これが同
じ人間なのか、と思いたくなるようなことも、逃げ出せない世界の現実
です。
 さて、形や色の否定ですが、『歎異抄』の中にもはっきりありますね。
道元禅師の言葉の中にもあります。仏像をありがたがったら、その中に
悪魔が宿るぞ、と。
>私は浄土真宗なのですが,『蓮如上人御一代記聞書』には
>「木像よりは絵像,絵像よりは名号」ということばがあります.
>同じ発想だと思いました.
>藤場俊基という方が『親鸞の教行信証を読み解く』第3巻で
>「言語表現を本尊の形式としてもつことにより,いつでもどこでも
>だれとでも共有できるということが大切だ.さらに考えをすすめれば
>文字である必要さえもない.音声としての本尊=称名といえる」(取意)
>と言っています.
 私も同感ですが、もっと微妙で、厳しいところがある、と思います。
 鎌倉の祖師には共通してこの発想、態度がある様に思います。
 西村公朝が信仰の形の変化としてこのことを言っています。そして運
慶の写実の時代が終わるのだと。しかし、宗教としての、もっと微妙で、
厳しいところがある、と私は思います。だから、日蓮聖人の十界曼荼羅
や、親鸞聖人の名号の文字が、これは一遍上人や、道元禅師にしてもそ
うなのですが、そのあまり上手くはない文字、しかし、グッと何かを通
してきた、ある意味では素朴で力のある字が、大切な意味を持ってくる
のだと思います。それは実に見事です。
>しかし実際にお寺の本堂には金ぴかの仏像が鎮座している,
>これはいったい何なのか,どうしても偶像崇拝になってしまうのだ
>ろうか,と考えさせられます.
 残念ながら鎌倉仏教の宗派で、美術品としてあまりすぐれた仏像はあ
りませんね。ですが、それが大事なのだと思います。
 近年、鎌倉仏教の諸宗派が、みんな豪勢で金ピカになってきています
 ね。私にはとても残念なように思えてなりません。
 鎌倉仏教の諸宗派、もう一度、鎌倉時代の心の原風景にもどろう、と
いうような発想はないのでしょうか・・・。それぞれの宗祖のいたころ
の、もっと素朴な精神の・・・。
00041 00/04/29 13:11 きく               RE:00034 日本人が日本人の頭で考えたもの
 紫蘭さんこんにちは。きくです。
 いろいろ教えていただいてありがとうございます。
>ずいぶん前の話ですが、ウチのお上人さんが研修会に行ったときに、真言宗僧侶の
>方が講演して「日蓮宗は、我々真言宗では御本尊にしている不動明王・愛染明王を
>〈門番〉にしていて、すごいですねえ」・・・と言っていたそうな(^^;)
「我々真言宗では御本尊にしている不動明王・愛染明王を〈門番〉に」とは面白い表
現ですね。でも、最近の真言の僧侶の方は、そのご本尊が大日如来の一つのあらわれ
た姿なのだ、とは考えないのでしょうか。それが種子であることは、真言の僧侶なら、
胸の中にピピピ・・・、と走るものがあったのではないかと思います。たぶん、お付
き合いの中の軽い会話の一節だったと思います。
 ところで、日天、月天、それが生のはじまりで、死の果て、を意味するそうですが、
そうすると、日→月→明星→日→月→明星・・・、と繰り返される意味が、門外漢の
我々にも理解できます。シンプルな十界曼荼羅の諸尊の表現でも不動愛染の種子が必
ずあり、次にあるのが四菩薩と日月天王ですね。私は宗門の人間ではないので、勝手
なことを言っていますが、十界曼荼羅は、ただありがたいのではなく、すばらしくよ
く考えられたものだと思います。
 両界曼荼羅には、東洋人の知恵の深さにおどろかされますが、鎌倉の祖師は、日本
人が日本人の頭で消化し、まとめ上げて、発明しています。私が十界曼荼羅におどろ
き、何だか引っ張られているような感じがするのは、それが理由の一つです。
 (新学期で、このところ殺人的な毎日を送っていますので、頭の中がまとまりませ
んが、ナイフをちらつかせるような生徒もいる中で、元気でいられるのは、これも宗
教さわりだけでも聞きかじることができたおかげだと思っています。これが私の仏道
修行なのかもしれません。)
00042 00/04/29 21:02 川蝉               RE:00040 形や色の否定
 YAM さん、きくさん今晩は。  
観無量寿経に、阿闍世に幽閉された韋提希夫人が
悲泣し、釈尊の居ます方に向かって礼拝し、頭をあげると、釈迦牟尼仏が身は紫金色
の釈尊が蓮華に坐し目蓮と阿難を従え影現した、旨が説かれていますね。
ぎりぎりの所を云えば、形有る本尊が無くとも、至心礼拝する者の前に、本尊は影現
してくれるのでしょうね。
形有る本尊は、凡眼には見えなくとも、このような本尊が影現してくれるということ
なのでしょうね。
00043 00/04/30 10:21 きく               RE:00042 ぎりぎりのところ
川蝉さん、ありがとうございます。
>ぎりぎりの所を云えば、形有る本尊が無くとも、至心礼拝する者の前に、本尊は影現
>してくれるのでしょうね。
>形有る本尊は、凡眼には見えなくとも、このような本尊が影現してくれるということ
>なのでしょうね。
 その「ぎりぎりの所」、生きてあるのは、そのぎりぎりのところなの
だと思います。だから色や形であらわすということは、その形にとらわ
れてしまって、心の動きが発動しない・・・。末世の凡夫が救われるか、
救われないか、その微妙なところが、そして案外、ナーンダ・・、とい
うところが大事なのではないかと思います。
 京都の東寺の仏像は仏教美術の作品としてはとんでもなくすごいもの
ですが、たぶんこれは鎌倉の昔もそうだったのでしょうが、鎌倉の祖師
達から見たら、それはそれですばらしいが、もう一つの大切なもの、そ
れがあるのだ、自分達はそちらの扉を開いたのだ、という意識があった
のではないかと思います。
 日蓮聖人、これは親鸞聖人にしても道元禅師にしても、この発想や行
法は天台じゃないの、真言じゃないの、と思われるところがたくさんあ
ります。元は叡山だもの、とのんびりしたことは言ってはいられないと
ころは、その部分だと思います。そして、それが鎌倉仏教の鎌倉仏教た
る所以のところだと思います。
 川蝉さん、よいところを指摘してくださいました。
 先日、書店で仏具法具便覧を見ていたら、宮崎英修氏が念珠の解説で、
日蓮宗の念珠が今日の形になったのは南北朝の以降で、それまでは天台、
真言で今日も用いられている形であった、とありました。広く広まった
のは、たぶん近世初頭だとは思いますが、日蓮宗(いわゆる法華宗)が、
はっきり宗派の組織としての形をもつ経過がこんなところにもあらわれ
ているように思われて、興味深く思いました。
 急に念珠の話など思い出してすいません。要は内面の形なのです。そ
れが、はっきりと違うのです。だから、鎌倉の祖師はあれだけがんばっ
たと思うのです。そして、それを民衆も望んだのだと思います。
 さて、平成の仏教、21世紀の仏教、どうなって行くのでしょうか・
・・。しらけているように見えますが、本当はみんな宗教に何かを欲し
ているのだと思います。その要求は、とても強いのだと思います。私は
宗教の総括が必要だと思います。だからといって新興宗教や新宗教がよ
いというのではありません。
 個人の時代なのです。個人がどう救済されていくのか。オームの不幸
な事件も、オームを弁護するつもりはさらさらありませんが、さびしい
都会の若者の心に照準を当てていたからあんなに大きくなったのだと思
います。
 なんでこんなに携帯電話が流行るのだろう。しかし、親友と呼べる友
達がいますか、と聞くと、いないのです。
 毎日楽しいですか、と聞くと、ほとんどつまらないという答えが返っ
てきます。
 詩歌の会で、馬場あき子さんが、もう斎藤茂吉や石田波郷は流行りま
せんね、と話してくれましたが、人間と面と向かうのは嫌うのに、さび
しいのですね。
 否応なしに個人の時代になってきているのに、それをどうしたらよい
のか、どうしたら生き生きとしていけないのか、宗教は方向を示す必要
があるのではないかと思います。
 森鴎外は先妻に産ませた息子於菟に、根津権現を散歩しながら、それ
が今わからなくても、みんながよいと言ったら自分もよいと言えばよい、
それをすればよい、そうすればずいぶん気が軽くなるものだ、と言った
そうです。それは森鴎外の気持ちでもあったでしょう。ただ、鴎外がそ
ういったからと言って、それが今の時代に正しいわけではありません。
時代も背景も違います。しかし、不幸な生い立ちの於菟には、立派な人
生の教師でした。
 真言に覚鑁という人がいます。修験道に役行者がいます。数々の不思
議が伝えられていますが、本当は何もなかったのではないかと思います。
ただ、しっかりとものを見定めて、それを説いて聞かせた、その迫力は
火炎に包まれた不動明王のようであったろうし、尊敬し、付き従った人、
おそらく名もない土にまみれた民衆は、役行者に付き従う鬼達ではなかっ
たかと思います。
 日蓮聖人の三光天子の話も、創作に近いと思います。ただその迫力と、
内面の真実は事実だと思います。日蓮聖人には多くの書簡がありますが、
実に細やかですね。あるときは仮病のすすめもあって、おどろきました。
いつ命が奪われるかもわからない人に、こんなことまで言ったのか、と、
おどろきました。
 両界曼荼羅の構成には本当にすごいな、と思いますが、十界曼荼羅も
すごいですね。ただ諸尊がそこに勧請されている、というのではありま
せんね。首題が塔の姿で、その両脇に何々・・・、という説明もたしか
に大事ですが、生まれ出て、生きて、死んで行く、生き生きと生きて、
死にきるのだよ、と示しているように思います。
00044 00/04/30 14:37 きく               RE:00037 ご教示ありがとうございます。
 顯正居士さん、ご教示ありがとうございます。
 なかなか難しいですね。・・・本当に難しいですね。
>生死涅槃、煩悩菩提をあらわすと口伝されています。
 しかし、これは天台、いや真言では常識的なことですね。するとどこ
が日蓮の法華教学が異なるのかわからなくなってしまいます。種子であ
ることが鍵だと思います。
>なぜ法華経に出てこない両明王が種子でしるされているか。
>不動愛染感見記(保田妙本寺蔵)
>http://tv.acmecity.com/baseball/263/bomp/kanken-2.htm
>を御覧になれば納得ゆくとおもいます。
 『摩訶止観』にはいかがですか。種子で記す法は曹洞にもあったかと
思います。
 阿字観と止観と只管打坐の作法はほとんど同じ形ですが、あるいは同
じことだったのではないかと思います。(そのいたるところも近いもの
だと思います。同じところかもしれません。)
 初学の私にはこれ以上はうまく言えません。止観をおさめた人には案
外簡単なことかもしれません。しかし、それは言ってはいけないことな
のかもしれません。
 真言の碩学は、空海は『大日経』と『法華経』は等価値ではないとし
ていますが、その即身成仏が『摩訶止観』と根本においては一であると
言っています。
 日蓮はこれを見抜いていたのではないでしょうか。
 行を通しての比較、論ではなく体験としての比較が、後の日蓮の方向
を決定づけるように思います。(ですから矛盾ではないと思います。)
 ところで、座禅の方法で数息観というのがありますが、吐く息、吸う
息を、南無・妙・法・蓮・華・経、とやると、不思議と私などでも、た
いへん気持ちよくできます。(吐く息、吸う息が大切です。)
 これは曹洞禅にも臨済禅にもありませんが、このところこれで座って
います。
00045 00/05/02 12:35 川蝉               RE:00044 ご教示ありがとうございます。
 きくさん今日は。
> ところで、座禅の方法で数息観というのがありますが、吐く
>息、吸う息を、南無・妙・法・蓮・華・経、とやると、不思議と
>私などでも、たいへん気持ちよくできます。
もう故人となりましたが、湯川猊下と云う高僧が、新しい形式の唱題行を提唱し、宗
内に於いて、行われています。
唱題の前に、何分間かの浄心行、唱題の後にも何分間かの深信行と云うものを行いま
す。
浄心行・深信行は、上記のきくさんのやり方と同じです。
上記のきくさんの数息観は、発声しなくとも、立派な唱題行になっていると思います。
仏壇もなく、環境上、声を出して唱題できない人に、就寝前布団の上でも良いからと
云って、きくさんの数息観のように御題目を念じるようにと、勧める場合があります。
他に、御題目に合わして、払う、捧げる、頂くの手振りをつけて、精神統一をはかる
唱題を考えた高佐猊下と云う人が居ました。
これは何だか手踊りみたいなので、私はやっていません。
松本史郎氏の「禅思想の批判的研究」の宣伝に
「もしも禅が思考の停止を意味するものなら仏教を否定することはあきらかであろ
う」と、添え書きがありました。
この人の著述は読んだことはありませんので、具体的な主張はしりません。
著名な仏教学者の玉城康四郎氏が「生命とは何か」中に、
「入出息念定がブッダの重要な教えとして説かれている。呼吸を調えていくことによ
って、そのままおのずから解脱に至るというものである」
と入出息念定を説明してあります。
玉城康四郎氏は相当に禅の実践・体験があるようです。
ただしこの人の本は哲学的なので、苦手です。
「禅が思考の停止を意味するものなら」との宣伝文句と
「呼吸を調えていくことによって、そのままおのずから解脱に至る」という玉城康四
郎氏の言葉と較べて、ちょっとおもしろいなと思いました。
それにしても昔のように素直でない、中には荒れた生徒の居る時代に先生で有ること
は、さぞかし大変なんでしょうね。
00046 00/05/03 07:50 きく               RE:00045 さて、数息観のことですが
 川蝉さん、コメントありがとうございます。きくです。
 
 今の学校(高校)は完全な輪切りですから、あるラインで生徒はほぼ
完全に二分しています。真ん中より下の学校では、何でもあり、です。
またまた事件があり、昨夜も9時頃まで生徒の家庭と善後策について連
絡を取っていました。ただ、うちのクラスは加害者ではなく被害者であっ
たのが、せめてもの救いでした。
 さて、数息観のことです。
>もう故人となりましたが、湯川猊下と云う高僧が、新しい形式の唱題行を提唱し、宗
>内に於いて、行われています。
>唱題の前に、何分間かの浄心行、唱題の後にも何分間かの深信行と云うものを行いま
>す。
>浄心行・深信行は、上記のきくさんのやり方と同じです。
>
>上記のきくさんの数息観は、発声しなくとも、立派な唱題行になっていると思います。
>仏壇もなく、環境上、声を出して唱題できない人に、就寝前布団の上でも良いからと
>云って、きくさんの数息観のように御題目を念じるようにと、勧める場合があります。
 私の発明(?)というわけではないようですね。
 しかし、これはたいへん効果的で、曹洞でいえば瑞息観の一つという
解釈にもなるのではないかと思います。友人はこれが止観ではないか、
と言っていますが、たぶんこうした方法は古くからあったのではないか
と思います。ただ、たいへん心が落ち着くのは事実で、よい方法を思い
ついたと思っています。
 仮りに禅でこの方法が成り立つとして、こうした方法を特にご本尊の
前でする(向かってする)ということはしません。その部屋の中にはご
本尊はあるのですが、簡単には壁に向かって座ります。浄心行・深信行
はご本尊の前でする(向かってする)のでしょうか。私は曹洞でも、元
はご本尊の前に向かって座ったのではないかと思っています。曹洞は昔
からの方法をそのまま伝えている、とは言っていますが、後世加わった
ものも多くあります。曹洞(特に日本の曹洞)は同じ座禅でも臨済とは
まったく違う、というのは黙照禅だからというのではなく、止観から発
しているからだと思っています。
 私のは仮りに名付けるとしたら法華禅(?)、と言うことになるのか
な、などととんでもないことを思っています。私のは、専門の禅僧の修
行でもないし、堅固な法華経の行者でもありませんから、単なるなまけ
者の思いつき、程度に思って下さい。
 ただ、日蓮聖人は『観心本尊抄』で、はじめに『摩訶止観』をさかん
に引用しますが、止観による一念三千の観法の、しっかりとした体験的
裏付けによる引用だと私は思っています。浄心行・深信行はまさしくの
一つ観法ですね。唱題行に浄心行・深信行がない場合とある場合を考え
ると、初心の私などでも、平面的な行がずっと立体的になるように思わ
れます。
 玉城康四郎氏の入出息念定の考え方は、同様の考えを別のもので見た
ことがあります。私もそう思います。原型はヨーガです。友人の阿部慈
園さんなどはそう断言します。(宗教学の先生はいろいろいらっしゃい
ますが、実践の伴わない方は説得力がないですね。Y氏などは、私は信
用していません。)
 私の家では十界曼荼羅をご本尊にして、お題目をあげて座禅をしてい
る、というめちゃくちゃと言われても仕方のないお祀りの仕方をしてい
ます。しかし、今の私にはその方が納得がいくような感じがしています。
 ところで、浄土教で日想観や水想観のようなことは行われていますか。
行われていないとしたらなぜなのですか。もし、真宗、浄土宗、浄土宗
西山派の方で、これを見ている方がおられましたら、ご意見お聞かせ下
さい。
00047 00/05/03 18:32 YAM                RE:00046 観想
きくさん,こんにちは.
At 7:50 AM 00.5.3, きく wrote:
>  ところで、浄土教で日想観や水想観のようなことは行われていますか。
> 行われていないとしたらなぜなのですか。もし、真宗、浄土宗、浄土宗
> 西山派の方で、これを見ている方がおられましたら、ご意見お聞かせ下
> さい。
時宗についてはわかりませんが,浄土宗(鎮西,西山)と浄土真宗では
日想観や水想観は行としては取り入れられていません.
浄土三部経のひとつ観無量寿経では,御存じのとおり,十三観にわたる
定善と三福九品にわたる散善を説いているのですが,これはヴェーデーヒー
の求めによる随他説です.随自説としては「無量寿仏の名をたもて」と
ある,すなわち称名念仏になります.
善導大師は『観経疏』において,往生の行として,正行と雑行に分類し,
前者を更に(1)読誦(2)観察(3)礼拝(4)称名(5)讃嘆供養に分類した上で,
(4)称名をもって正定業とし,それ以外を助業と位置付けました.
これは無量寿経に説く第18願を根拠とするものです.
法然は善導を師として,以上の説を『選択本願念仏集』で
「正助二業のなかに,なお助業を傍らにして選びて正定をもっぱらに
すべし」としました.
要するに,さまざまな行業があるなかで,何が勝れているか,何が
すべての人々に実行可能か,という観点から,仏が選択されたのは
称名であるから,それ以外は必要無い,ということです.
もっとも必要無い,ということは,やってはだめだ,という意味では
ないので,実行する人がいても批判はされません.
こんなところで,おわかりいただけましたでしょうか?
(余談)
私の先生のひとり(真宗)は,インドのゴアで日想観を修したそうです
が,ものにならなかったそうです.「女性のヌーディストが目の前を
通ると,思わず眼がそっちへいってしまってだめだった.」
YAMAGUTI Sin'iti ********************************
tel 052-801-1381/ fax 052-807-1198
adr. Nagoya-si, Tenpaku-ku, Tutihara3-205, JP-468-0026
E-mail: syam-z@wa2.so-net.ne.jp
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00048 00/05/04 23:03 きく               RE:00047 YMAさん、ありがとうございま
 YMAさん、ありがとうございました。
>浄土三部経のひとつ観無量寿経では,御存じのとおり,十三観にわたる
>定善と三福九品にわたる散善を説いているのですが,これはヴェーデーヒー
>の求めによる随他説です.随自説としては「無量寿仏の名をたもて」と
>ある,すなわち称名念仏になります.
>善導大師は『観経疏』において,往生の行として,正行と雑行に分類し,
>前者を更に(1)読誦(2)観察(3)礼拝(4)称名(5)讃嘆供養に分類した上で,
>(4)称名をもって正定業とし,それ以外を助業と位置付けました.
>これは無量寿経に説く第18願を根拠とするものです.
>法然は善導を師として,以上の説を『選択本願念仏集』で
>「正助二業のなかに,なお助業を傍らにして選びて正定をもっぱらに
>すべし」としました.
>要するに,さまざまな行業があるなかで,何が勝れているか,何が
>すべての人々に実行可能か,という観点から,仏が選択されたのは
>称名であるから,それ以外は必要無い,ということです.
 『選択本願念仏集』は岩波文庫でも出ていますね。『和語燈録』は何
度も読みました。『一遍上人語録』もとても心ひかれた本です。
 浄土系には浄土系の大山脈がありますね。。
 阿部慈園がインドですでに阿弥陀仏の仏像があった、と書いていまし
た。西方からの影響とばかりは言えないとの、報告でした。商業にたず
さわる階層の人たちに広まった、と言っていました。(阿部慈園は『あ
なただけの阿弥陀経』の著者です。曹洞の人で、私の学生時代からの友
人です。)
 一遍は法然の仏教はかなり違います。それはわかるのですが、親鸞と
法然の教義がどこでどう違うのか、よくわかりません。しかし、法然の
教えには、理屈では割り切れないところがあります。
 私はけっして浄土教を易行だとは思いません。ぎりぎりのところまで
選び取り、選んだ末の称名念仏だったと思います。
 学生時代海の近くのアパートにいましたが、夕日が沈むのをよく見に
行きました。夕日が山の端に沈むとき、夕日から水面に私の足元まで日
の光が続きます。これが日想観や水想観というものなのかなと思いまし
た。そのむこうがさながら浄土のようでした。
 しかし、わけのわからないことばかりです・・・。
 穢土と浄土とが別々なのか、浄土は願って行くところなのか。浄土は
自ら作り出すものなのか、それともその行為によってなって行くものな
のか、あらわれてくるものなのか。ある時忽焉と変化して行くものなの
か、それともこの世がそのまま浄土なのか。
 いつからか、私はその人の願いと努力によって、あらわれてくる、と
いう考え方にひかれるようになりました。
 人はこの世で救われなければならないと思うようになりました。
 ・・・そして、今に至るというわけです。
00049 00/05/05 10:30 川蝉               YAM さん今日は。
>(余談)
>私の先生のひとり(真宗)は,インドのゴアで日想観を修したそ
>うですが,ものにならなかったそうです.「女性のヌーディスト
>が目の前を通ると,思わず眼がそっちへいってしまってだめだっ
>た.」
戒・定・慧の能力、極めて欠けている私には、この余談ばかに気に入りました。
隣家の奥さん(五十代後半)は、度々、宗務院の月例講話に出かけています。
ご主人のお姉さん(知的障害)が同居しています。そのため奥さんが心身共に疲れ果
てた状態におちいっていた時に、月例講話に出かけました。講話の初めに行う五分程
度の唱題の最中、身体が光り輝く空中に昇っていくようの感じ、直前まで具合の悪か
った身体と気分がスーッと楽になったそうです。
短い唱題なのに、三昧境に入ったようなんですね。
唱題の時間の長さも忘れ、思念もなく、雲の上に居るような気分爽快を味わったと云
う人の話を聞きますが、私は一度もありません。
法華経普賢品に
「三七日の中において一心に精進すれば普賢菩薩が眼前に身を示し、法を説き示教利
喜すべし(取意)」
とありますが、これは体験者の言葉で、定力の優れていた昔の修行者は、本当に体験
できたのだろうな、などと思います。
日想観等も経典が編纂された当時は、出来た人が多く居たのではないかと思っていま
す。
00050 00/05/05 16:38 川蝉               RE:00048 YMAさん、ありがとうござい
 きくさん今晩は。
> いつからか、私はその人の願いと努力によって、あらわれてく
>る、という考え方にひかれるようになりました。
大乗では、浄仏国土の願行が菩薩の誓願とされています。
娑婆を浄め浄土化する誓願ですね。
穢土も浄土に成り得る、と云う思想が、浄仏国土の願行の根拠だと思います。
穢土も浄土に成り得る根拠は。
一如平等の思想で、穢土・浄土は各別のものでなく、住む人々の徳不徳によって、仮
に別の相を顕しているだけであると云う思想であろうし、
また、三身具足の釈尊は、この娑婆に居られる。釈尊の報身・法身の依報としての浄
土も、この娑婆に即して有る、と云う思想であろうと思います。
>人はこの世で救われなければならないと思うようになりました。
法華経勧持品を見ると、受記を受けた学無学八千人と比丘尼六千人は
「娑婆国の人は弊悪・増上慢・功徳浅薄・瞋濁諂曲・心不実であるから、他の国土に
於いて此の経を説かせていただきます(取意)」と誓っていますが、怯弱な私には、
仲間に入りたい気持ちです。
しかし、釈尊はその誓願を特に貶さないものの、八十万億の菩薩達に娑婆世界での弘
教を催促されます。
法華経は此の土に於いて修行するのが本道であると主張していることがわかります。
ともかく、寿命が尽きるまで、この世で如説修行する外ありませんね。如説修行すれ
ば、
「薬草喩品」に
「現世安穏にして後に善処に生じ」とあるように、現世に於いても救われ、後生も救
われるのだと信じてゆきたいですね。
「薬王品」に
「女人あってこの経典の説の如く修行すれば、此に於いて命終の後安楽世界に往く事
が出来る(取意)」
とありますが、
安楽世界に生じる功徳果報を得たければ、この土に於いて如説修行すべきであると云
う文意に受け取れます。存命中に於いても、如説修行の功徳は現れると信じたいです。
00051 00/05/05 17:41 YAM                RE:00048 浄土とは
YAMです.ちょっと長くなります(m_ _m)
>  阿部慈園がインドですでに阿弥陀仏の仏像があった、と書いていまし
> た。西方からの影響とばかりは言えないとの、報告でした。商業にたず
> さわる階層の人たちに広まった、と言っていました。(阿部慈園は『あ
> なただけの阿弥陀経』の著者です。曹洞の人で、私の学生時代からの友
> 人です。)
原始浄土教の研究はかなり進んでいるようですが
(原始浄土思想の研究  藤田 宏達(岩波書店)など)
私は歴史方面には疎いもので,特にコメントできません.
>  一遍は法然の仏教はかなり違います。それはわかるのですが、親鸞と
> 法然の教義がどこでどう違うのか、よくわかりません。しかし、法然の
> 教えには、理屈では割り切れないところがあります。
法然在世中から「一念義」vs「多念義」の論争がありました.ともに異端
とされますが,後世にまで影響を残したことから,それほど単純に異端と
割り切ることができないのでは,という気がします.つまり,信心と名号
のどちらに重点を置くか,という問題です.
法然の選択他力本願を絶対他力にまですすめたのが親鸞であるとすれば,
親鸞以上に絶対他力を強調したのが一遍ということでしょう.それは
只管打坐にも相通ずるものでしょう.
しかし,一遍が絶対他力の徹底において親鸞を超えたとき,同時に見失った
ものがあり,それは人間だった...と,松本史朗先生が指摘されています.
>  私はけっして浄土教を易行だとは思いません。ぎりぎりのところまで
> 選び取り、選んだ末の称名念仏だったと思います。
称名自体は易行です.
しかし,同時に難信の法です.
普通の感覚からすれば,「阿弥陀の本願を信じて念仏すれば往生できる」
と言われて,「ああ,そうですか.簡単なことですね.じゃあ私も念仏
します.」というオメデタイ人がいるはずありません.ましてや現代に
おいては.
成仏のためには,それなりに厳しい修行が必要だ,と考えるのがふつう
ですね.その方がわかりやすいです.
ただ,そういう常識的判断と,経典にある仏の金言とを秤にかけて,
どちらをより確かなものとするか,そこに私たちが最後的に決断を
迫られる問題があります.
>  学生時代海の近くのアパートにいましたが、夕日が沈むのをよく見に
> 行きました。夕日が山の端に沈むとき、夕日から水面に私の足元まで日
> の光が続きます。これが日想観や水想観というものなのかなと思いまし
> た。そのむこうがさながら浄土のようでした。
一説によると,なぜ極楽浄土は西方か,というので(これは指方立相として
昔からある議論だそうですが),太陽が沈むその方向にイメージしたの
だろう,ということです.
もっとも,宇宙には西も東もありませんから,実体的に西,というのは
意味のないことではあります.
>  穢土と浄土とが別々なのか、浄土は願って行くところなのか。浄土は
> 自ら作り出すものなのか、それともその行為によってなって行くものな
> のか、あらわれてくるものなのか。ある時忽焉と変化して行くものなの
> か、それともこの世がそのまま浄土なのか。
>
>  いつからか、私はその人の願いと努力によって、あらわれてくる、と
> いう考え方にひかれるようになりました。
>  人はこの世で救われなければならないと思うようになりました。
>  ・・・そして、今に至るというわけです。
私は,学生時代のレポートで,「本願とは人類の普遍的で*本*質的な
*願*いではないか」と書いたことがあります.
人間は個別的特殊的にはエゴイスティックな生き方しかできません.
だから現実の世界は穢土です.その穢土を照射する存在として浄土が
建立されているのでしょう.
私が阿弥陀仏や浄土を願うのではなく,阿弥陀仏や浄土から私が願われて
いる--あなたの本来のいのちに目覚め人間らしさを回復せよ--
と願われている,それに心から共感できた時,この世における救いが
成立するのでしょう.
歴史的には,真宗では三つの教学が,画然と区分はできないにしても,
あります.
(1)封建教学:浄土はどこか遠くにあって,死んだら連れていって下さる
  けっこうなところ,という没主体的な信仰.死後の救済.
(2)近代教学:自覚・自証を重んじる実存主義的信仰.迷信的要素を排除
  し,主体の確立による現世での救済をめざしながら,個人の主観の
  うちに浄土を閉じ込めてしまうという,非社会的な信仰.
  「我信ずるがゆえに地獄極楽あり」.近代仏教学が理論的基礎.
(3)解放教学:カトリックの解放の神学をヒントに形成途中の運動論的教学.
  穢土(現実社会)に対する批判原理としての浄土.社会のありようが
  信仰課題となる.主観的信仰を超えた「他者としての如来」.
  最近の批判仏教学が理論的基礎.還相回向を重視.
法然は「己心の弥陀」を明確に否定し,「西方の弥陀」といっていますが,
(3)はその点で,善導流浄土教へ回帰したものといえましょう.
00052 00/05/05 17:41 YAM                RE:00049 瞑想
川蝉さん,おひさしぶりです.
> 法華経普賢品に
> 「三七日の中において一心に精進すれば普賢菩薩が眼前に身を示し、法を説き示教利
> 喜すべし(取意)」
> とありますが、これは体験者の言葉で、定力の優れていた昔の修行者は、本当に体験
> できたのだろうな、などと思います。
> 日想観等も経典が編纂された当時は、出来た人が多く居たのではないかと思っていま
> す。
ティク・ナット・ハン(ベトナム人僧侶,臨済宗,在フランス)という方がいます.
欧米では鈴木大拙よりも有名人らしいです.「行動する仏教」(engaged buddhism)
の提唱者で,私が尊敬する仏教者のひとりです.
なぜ尊敬もうしあげるかといいますと,彼の瞑想は,寺院や瞑想センターに籠って
雑念のおこりにくい環境を選んで行う,というのではなくて,民衆への関わりの
なかで行住坐臥,集中力を高めるトレーニングをされているからです.
実は私も参禅体験があります.僧堂の中では,三昧に近い状態まで行くことができ
ました.しかし,たとえば隣で家族がテレビを見ている中では,まったくだめです.
彼我の能力の違いといってしまえばそれまでですが,やはりとても難しいです.
ティク・ナット・ハンについて,著書はたくさんありますが,
私が読んだのは"Being Peace"(Parallax Press,1987)で,「諸法無我」
とはどういうことなのか,大いに啓蒙されました.
00053 00/05/06 18:35 YAM                RE:00048 浄土とは
YAMです.
>  阿部慈園がインドですでに阿弥陀仏の仏像があった、と書いていまし
> た。西方からの影響とばかりは言えないとの、報告でした。商業にたず
> さわる階層の人たちに広まった、と言っていました。(阿部慈園は『あ
> なただけの阿弥陀経』の著者です。曹洞の人で、私の学生時代からの友
> 人です。)
原始浄土教の研究はかなり進んでいるようですが
(原始浄土思想の研究  藤田 宏達(岩波書店)など)
私は歴史方面には疎いもので,特にコメントできません.
>  一遍は法然の仏教はかなり違います。それはわかるのですが、親鸞と
> 法然の教義がどこでどう違うのか、よくわかりません。しかし、法然の
> 教えには、理屈では割り切れないところがあります。
法然在世中から「一念義」vs「多念義」の論争がありました.ともに異端
とされますが,後世にまで影響を残したことから,それほど単純に異端と
割り切ることができないのでは,という気がします.つまり,信心と名号
のどちらに重点を置くか,という問題です.
法然の選択他力本願を絶対他力にまですすめたのが親鸞であるとすれば,
親鸞以上に絶対他力を強調したのが一遍ということでしょう.それは
只管打坐にも相通ずるものでしょう.
しかし,一遍が絶対他力の徹底において親鸞を超えたとき,同時に見失った
ものがあり,それは人間だった...と,松本史朗先生が指摘されています.
>  私はけっして浄土教を易行だとは思いません。ぎりぎりのところまで
> 選び取り、選んだ末の称名念仏だったと思います。
称名自体は易行です.
しかし,同時に難信の法です.
普通の感覚からすれば,「阿弥陀の本願を信じて念仏すれば往生できる」
と言われて,「ああ,そうですか.簡単なことですね.じゃあ私も念仏
します.」というオメデタイ人がいるはずありません.ましてや現代に
おいては.
成仏のためには,それなりに厳しい修行が必要だ,と考えるのがふつう
ですね.その方がわかりやすいです.
ただ,そういう常識的判断と,経典にある仏の金言とを秤にかけて,
どちらをより確かなものとするか,そこに私たちが最後的に決断を
迫られる問題があります.
>  学生時代海の近くのアパートにいましたが、夕日が沈むのをよく見に
> 行きました。夕日が山の端に沈むとき、夕日から水面に私の足元まで日
> の光が続きます。これが日想観や水想観というものなのかなと思いまし
> た。そのむこうがさながら浄土のようでした。
観想あるいは瞑想について,前回私は,浄土宗や浄土真宗では取り入れられ
ていない,と書きました.
私の個人的な見解ですが,称名念仏も観想も,諸法無我という原理の体得
では同じことだと思います.
>  穢土と浄土とが別々なのか、浄土は願って行くところなのか。浄土は
> 自ら作り出すものなのか、それともその行為によってなって行くものな
> のか、あらわれてくるものなのか。ある時忽焉と変化して行くものなの
> か、それともこの世がそのまま浄土なのか。
>
>  いつからか、私はその人の願いと努力によって、あらわれてくる、と
> いう考え方にひかれるようになりました。
>  人はこの世で救われなければならないと思うようになりました。
>  ・・・そして、今に至るというわけです。
私は,学生時代のレポートで,「本願とは人類の普遍的で*本*質的な
*願*いではないか」と書いたことがあります.
人間は個別的特殊的にはエゴイスティックな生き方しかできません.
だから現実の世界は穢土です.その穢土を照射する批判原理が浄土です.
私が阿弥陀仏や浄土を願うのではなく,阿弥陀仏や浄土から私が願われて
いる--あなたはあなたのままで,自然で,人間らしさを回復せよ--
と願われている,それに心から共感できた時,この世における救いが
成立するのでしょう.
00054 00/05/06 18:35 YAM                RE:00049 瞑想
川蝉さん,おひさしぶりです.
> 法華経普賢品に
> 「三七日の中において一心に精進すれば普賢菩薩が眼前に身を示し、法を説き示教利
> 喜すべし(取意)」
> とありますが、これは体験者の言葉で、定力の優れていた昔の修行者は、本当に体験
> できたのだろうな、などと思います。
> 日想観等も経典が編纂された当時は、出来た人が多く居たのではないかと思っていま
> す。
ティク・ナット・ハン(ベトナム人僧侶,臨済宗,在フランス)という方がいます.
欧米では鈴木大拙よりも有名人らしいです.「行動する仏教」(engaged buddhism)
の提唱者で,私が尊敬する仏教者のひとりです.
なぜ尊敬もうしあげるかといいますと,彼の瞑想は,寺院や瞑想センターに籠って
雑念のおこりにくい環境を選んで行う,というのではなくて,民衆への関わりの
なかで行住坐臥,集中力を高めるトレーニングをされているからです.
実は私も参禅体験があります.僧堂の中では,三昧に近い状態まで行くことができ
ました.しかし,たとえば隣で家族がテレビを見ている中では,まったくだめです.
彼我の能力の違いといってしまえばそれまでですが,やはりとても難しいです.
ティク・ナット・ハンについて,著書はたくさんありますが,
私が読んだのは"Being Peace"(Parallax Press,1987)で,「諸法無我」
とはどういうことなのか,大いに啓蒙されました.
00055 00/05/07 12:00 川蝉               きくさん今日は。
> 阿部慈園がインドですでに阿弥陀仏の仏像があった、と書いて
>いました。西方からの影響とばかりは言えないとの、報告でし
>た。商業にたずさわる階層の人たちに広まった、と言っていまし
>た。
(きくさんの5月5日の発言)
岩本裕氏が阿弥陀仏思想は西北インドの一神教に由来する恩寵思想の影響とか、極楽
の名はエデンの園の名にヒントを得たものでないか、無量光の名は西北インド・東部
イランの光明思想のえいきょうである等と論じていますね。(インド仏教と法華経・
第三文明社刊)
仏の慈悲力で救ってもらいたいとか、理想郷の概念とかは、別に他宗教の影響が無く
とも、宗教心理的にごく自然に起こる考えであると思われますね。
岩本裕氏は「初期の仏教ではブッダを修飾するのに黄金で比喩している」と論じてい
ますが、岩波文庫「ブッダのことば」を、サット調べたのですが、黄金で比喩してい
るのは一句、光明で比喩している句は数句ありました。岩本裕氏はスッタニパーター
を検討しなかったのかな?と思いました。
YAMさんが紹介された「原始浄土思想の研究  藤田 宏達(岩波書店)」にも、岩
本裕氏の説を評してありますね。
YAMさん今日は。
法然在世中から「一念義」vs「多念義」の論争がありました.
日蓮宗に於いても、御題目は多く唱えなければならないか?と云うよう質疑か為され
ることがあります。
一遍でも多唱でも信がなければだめですね。
信があって至心で多唱の方がいいと考えています。
>だから現実の世界は穢土です.その穢土を照射する存在として浄
>土が建立されているのでしょう.
娑婆もあのような世界にしなければならないと云う見本として説かれたものと講話し
ていた日蓮宗の先学がいました。
>歴史的には,真宗では三つの教学が,
大変参考になりました。
解放教学と云う名は聞いたことがありますが、名称から、お寺や住職をものともしな
い、何やら、秩序破壊的な運動かなと勝手に想像していました。
ティク・ナット・ハン氏の"Being Peace"(Parallax Press,1987)「諸法無我」は翻訳
されているのですか?
 
00056 00/05/07 14:56 YAM                RE:00055 ティク・ナット・ハン
YAMです.
このラウンジの読み書きをEudora Proでやっていますが,
ひょんなことから,バックアップ用メールボックスが開いたみたいで,
投稿したはずの記事(00051/00052)が見当たらない,おかしいなと
思いつつ,投稿しなかったかもしれないな,と思って古い下書きの方を
再投稿してしまいました.00053/00054 がそれです.御迷惑をおか
けしました.
> 岩本裕氏が阿弥陀仏思想は西北インドの一神教に由来する恩寵思想の影響とか、極楽
> の名はエデンの園の名にヒントを得たものでないか、無量光の名は西北インド・東部
> イランの光明思想のえいきょうである等と論じていますね。(インド仏教と法華経・
> 第三文明社刊)
岩本裕氏はかなり大胆なことを正直におっしゃる方ですね.
○(法華経は)「あたかも小児が竹棒を持って強がりを言うのに類すると言っても
 言い過ぎではない.」
○三十二相については「考えてみただけでもぞっとするような姿である」
「一種の畸形の人間」「まさに狂気の沙汰であるが,彼らはまじめなのである」
『仏教入門』(中公新書)より
信仰と学問はべつ,というのが基本姿勢なのでしょうけど.
> ティク・ナット・ハン氏の"Being Peace"(Parallax Press,1987)「諸法無我」は翻訳
> されているのですか?
 
ブックポータル(http://www.trc.co.jp/trc-japa/index.asp)
で検索してみました.
以下のとおりです.
 1. 仏の教えビーイング・ピース ティク・ナット; 中央公論新; 99048806
 2. 生けるブッダ、生けるキリスト ティク・ナット; 春秋社; 96046947
 3. ラブ・イン・アクション ティク・ナット; 渓声社; 95026494
 4. マインドフルの奇跡 ティク・ナット; 壮神社; 95017486
 5. 微笑みを生きる ティク・ナット; 春秋社; 95016998
 6. ウォーキング・メディテーション ティク・ナット; 渓声社; 95016631
 7. ティク・ナット・ハンの般若心経 ティク・ナット; 壮神社; 95011453
 8. ビーイング・ピース ティク・ナット; 壮神社; 93005645
たぶん1と2が相当すると思います.
なお,Amazon.com(https://www.amazon.com/exec/obidos/tg/
browse-books/-/12279/002-3395904-4285023)
で検索すると,12点の出版物がリストされています.
YAMAGUTI Sin'iti ********************************
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00057 00/05/07 21:22 きく               RE:00055 十如是
 川蝉さんこんばんは。YAMさんこんばんは。
 いろいろご意見ありがとうございます。
 インドの阿弥陀仏のこと、阿部慈園はかなり早くから言っていまし
た。5年インドにいて、プーナを取ってこちらに戻り、明治と東方学
園で教えています。住職をしている黙仙寺の昨年の寺報に、博物館に
展示してある阿弥陀仏の写真と解説をしていました。
 阿部慈園は、ヒンズー教にも詳しいので、ある階層の人達、商業に
たずさわる人達が特にこの信仰を持っていたようだ、と言っていまし
た。
 これは阿部慈園の専門というわけではないのですが、きっとこれか
ら研究が進むと思います。
>岩本裕氏が阿弥陀仏思想は西北インドの一神教に由来する恩寵思想の影響とか、極楽
>の名はエデンの園の名にヒントを得たものでないか、無量光の名は西北インド・東部
>イランの光明思想のえいきょうである等と論じていますね。(インド仏教と法華経・
>第三文明社刊)
 阿部慈園なら反論すると思います。川蝉さんのおっしゃるように、
>仏の慈悲力で救ってもらいたいとか、理想郷の概念とかは、別に他宗教の影響が無く
>とも、宗教心理的にごく自然に起こる考えであると思われますね。
 それが、ある階層の人達には顕著なのでしょう。インドは現在でも
非常に階層意識が強いのですが、その人達特有の感受性もあったので
しょう。阿部慈園はそうした事情をよく知っています。(私が中国で
教鞭を執っていたとき、二人のインド人の知り合いができて、ある時
食事に誘いました。ところが、後日その一人から、私と彼とは階層が
違うのだと不満を言われ、理解できずに悩んだことがあります。)
 ところで、話がだいぶ進みましたが、先日、NHKで出している渡
辺宝陽『法華経・久遠の救い』を読んでいて、ハッとしました。
 「方便品」の「十如是」を三回読む理由の説明と、その「諸法実相」
ということを、道元禅師は『正法眼蔵』で解いている、とありました。
さっそく『正法眼蔵』を開いてみると、五十「諸法実相」に、『法華経』
「方便品第二」の「十如是」がまさに解かれているではないですか。
そして、解説では、この「諸法実相」に『正法眼蔵』の多くの内容が
集約されているのだそうです。うかつにも私は知りませんでした。
『正法眼蔵』が『法華経』から多くの影響を受けていることは、聞い
ていましたが、『法華経』の「諸法実相」を課題にしているというこ
とは、恥ずかしいのですが、知らなかったのです。
 さて「十如是」について、道元禅師の解説もすばらしいものです。
私などが、それを言っても、力が足りませんから、ぜひお読みになら
れるといいと思います。
 「諸法実相」、「十如是」の解説は、すなわち「一念三千」の観法
の解説でもあります。筆者渡辺宝陽氏は『摩訶止観』をあげ、天台の
碩学関口真大の解説を紹介しています。
 日蓮聖人の『観心本尊抄』と道元禅師の『正法眼蔵』、私はうなっ
てしまいました。(ですから日本の曹洞の禅と臨済の禅では拠って立
つところが違うのです。)
 観想が何によって成り立ち、何を求め、どこに達するのか。どんな
心境になるとか、どんな変化が起きるとかではないのです。
 「諸法実相」、まさにそこに(その境地に)至るかどうかなのです。
 日蓮聖人の唱題行はよく浄土教のまねだ、という解説がありますが、
簡単にそう片付けてよいものかどうか、道元の禅と臨済の禅では拠っ
て立つところが違うのと同じように、似てはいますが、異なるように
思います。
 『摩訶止観』がカギであるように思います。
   ――――――――――――――――――――――――――
 連休最後、片瀬の龍口寺の近く、かつての輪番寺の一つ本蓮寺へ行
きました。ここには関東ではめずらしい多宝塔があります。
 一遍上人はここ片瀬に一月逗留し、念仏と法華が一つであることを
感得したことが、『一遍上人語録』に出ています。
 茶飯を食べて、なんとなく、少しだけでもわかりかけてきたような
気持ちで、帰りました。

00058 00/05/09 14:52 川蝉               YAMさん、きくさんへ
YAMさん今日は。
ティク・ナット・ハン氏の著述を、さっそく調べて頂き、ありがとうございました。
きくさん今日は。
>『摩訶止観』がカギであるように思います。
家永三郎博士が唱題は念仏の亜流・模倣と云うような事を論じていましたね。
たしかに、易行・口唱の形は似ていますね。
しかし、きくさんのご指摘通り、唱題は法華経に基づくのですから、念仏と基盤が違
いますね。
本尊と題目を明かした本尊抄は、冒頭、「摩訶止観」の一文の解釈から漸次、日蓮聖
人独自の思想を展開してゆきます。たしかに「摩訶止観」がカギのようですね。
>『正法眼蔵』を開いてみると、五十「諸法実相」
「諸法実相」を見てみましたがチンプンカンプンでした。
こんな難しいものを勉強する曹洞宗に属さなくて、良かったなという思いです。
> 一遍上人はここ片瀬に一月逗留し、念仏と法華が一つであることを
>感得したことが、『一遍上人語録』に出ています。
幸い岩波書店の日本思想大系「法然一遍」を持っているので、見てみました。
「法華と名号と一体なり。法華は色法、名号は心法なり。色心不二なれば、法華すな
わち名号なり」(341頁)
云っているのですね。
「法華は色法、名号は心法」と配当する根拠・経証が無いですね。「故に観経に
は・・」と、一文を引証していますが、経証としては、ちょっと無理だなと思えます。
私などは唱題しているものの、心根は狭いし、偏っているし、慈悲心も慈悲心の行動
も無いので、法華経の悟りから遠く離れていますが、一遍上人の心根は、法華経的悟
りに住して居られたことだろうと思います。
 
00059 00/05/09 22:08 きく               RE:00058 二つの論集
川蝉さん、こんばんは。
 『正法眼蔵』の「諸法実相」については、雪峰義存の話以降は、古
い禅僧の話ですから、僧堂で参究した専門家でないと何が何だかわか
りません。しかし、その前はまさに「方便品」の「諸法実相」の話で、
「十如是」の解説です。
 最近は、玉城康四郎、西尾実、水野弥穂子、といったすぐれた学者
がたいへんよい解説や訳をしていますから、それらを頼りに、「十如
是」の解説などは比較的容易に読むことができます。
 『正法眼蔵』には、さらに十七「法華転法華」という一章があり、
これは道元禅師のいう即身成仏が、『法華経』によるものだというこ
とを解いた一章だそうです。まだ読んでいないのでわかりませんが、
玉城康四郎氏の解説など読むかぎりではおどろくばかりです。
 ところで、この連休の間、佐々木馨の『日蓮の思想構造』と中尾堯
の『日蓮信仰の系譜と儀礼』を読みました。『日蓮の思想構造』の中
の「日蓮の弾圧背景」では、日蓮聖人存命中の鎌倉幕府の公の祈祷の
実体が克明にいくつかの表で示されています。その中で、臨済の栄西
禅師が禅よりも祈祷僧として重用されていたという事実が明らかにさ
れています。
 また『日蓮信仰の系譜と儀礼』の中の「祖師信仰と板碑供養」では、
東国の一地方(埼玉)の信仰の形態と法華の勢力が、板碑の数(題目
は約5パーセント)とその板碑の文面から推定されています。
 今日の目で日蓮宗系の宗派の歴史を考えると、どうしても歴史の端
の方から眺めるわけですから、現在の日蓮宗系の宗派の姿にこだわっ
てしまい、よくわからない部分があります。「法難会と御会式」「七
面山の信仰と儀礼」というのもあり、論文集ですが、たいへん興味の
ある、読み応えのある本でした。
 二つの論集ともきわめて学術的な調査による考察です。こうした学
術的な調査に基づく宗祖像がどんどん出てきてほしいと思いました。
00060 00/06/19 21:29 Eisai              新テーマ募集
テーマ討議ラウンジの討議するテーマの案は何かないでしょうか。
7月2日締切で公募致します。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00061 00/12/12 12:01 Eisai              テーマ変更 「21世紀の仏教」について
  [テーマ討議]:今回は「21世紀の仏教」について
 今まで「伝統仏教vs仏教学」といったテーマでしたが、21世紀を迎えるにあた
って
   「21世紀の仏教」
をテーマに討議できればと思います。
 そもそも「21世紀」という表現はキリスト生誕を起点にしているのでありますか
ら、そこから問題となります。
  ・家制度の崩壊
    このことにより家制度が前提の檀家制度は崩壊し、仏教と
    日本人の関わりが余計に希薄となるのではないかという危
    惧。
  ・宗教教育の忌諱
    行き過ぎによってかえって弊害を起こしていないか。
  ・死者儀礼と祈祷
    結果としてそのことに終始している僧侶と仏教指導者は果
    たして仏教徒か。
  ・仏教学と伝統教義
    学術的な研究成果と伝統教義に差異があるばあいどう対処
    するのか。
 ざっと考えただけでも難しい問題がどんどん頭をよぎります。
 問題をどんどん掘り起こし、真摯に考察するだけでなく、待ったなしに実行して行
かなくては21世紀に日本仏教は滅ぶと思います。
 大げさなこと、ちょっとしたこと・・・何でも討議できればと思います。
管理者モード
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00062 00/12/13 23:49 master             RE:00061 テーマ変更 「21世紀の仏教」
皆さんこんにちは
Q.この時代の於いて、宗教とは何でしょうか。
漠然とした問いですが、熱心に信仰している方もおいででしょうが。
大勢の方は、自分の家の宗派も知らず、または、その教義も知らずだと思います。
どのようにしていけばよろしいのでしょうか?
00063 01/02/23 23:45 master             仏教と神道
Q、仏・菩薩と神を分ける必要があるのでしょうか。
00064 01/02/25 00:02 YAM                Re: 仏教と神道
Masterさま,はじめまして.
> Q、仏・菩薩と神を分ける必要があるのでしょうか。
その前に,神(the God)と神々(gods)を分ける必要があると
思います.
前者の場合,仏教は無神論(atheism)ですから,そもそも
存在の余地がありません.
後者の場合,インドではdeva,中国では天と訳すのでしょうが,
生死輪廻の存在ですから,仏教の外護者の役割はあっても,
それ以上の者ではない,つまり帰依信仰の対象にならないという
意味で,分けて考えるべきだと思います.
これ,きわめて教科書風の答で面白くないでしょうかね(^^ゞ
私なりの考えでは,
神々 = 同化と排除の原理/エゴ肯定の原理
仏 = 共生の原理/エゴ批判の原理
ということを,最近,なだいなだ『民族という名の宗教』(岩波新書)
を読んで思い付いたことです.
00065 01/02/25 09:52 Eisai              RE:00063 仏教と神道
Master さん、YAM さん、おはようございます。
レスの文章は書いていたのですが、投稿するのを躊躇していました。
YAM さんが投稿しておられましたので私も自分の意見を述べます。ただ、YAMさんの
御発言以前の文章ですのでYAMさんの御意見は反映していません。
 > Q、仏・菩薩と神を分ける必要があるのでしょうか。
 どう答えて良いか解らない質問ですね (^_^ ;
 勝手に解釈して回答します。
 仏(ブッダ)は目覚めた人という意味です。
 仏教経典をみると神々もその教えを請い、敬い、歓喜するそうです。
 ですから、私たちが仏陀の目覚めた智慧により説かれた法を読むとき、神々は聴聞
して歓喜して私たちを守護してくださるのでしょう。神々の不思議な力は、釈尊に
よって説かれた理法にかなった方向に発揮され衆生を利益し、結果として神々そのも
のも霊験あらたかな神々として賞賛と供養を受けます。
 日本の神祇を仏教経典によって勧請するのはそのようなものだと私は考えます。
 宗学や修法師の考え方はどうなのか知りませんが・・・。
 それを本地垂迹説・・・つまり、仏や菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹を垂れ
たものなどと平安時代に主張したから明治初期の神仏分離令の大きな原因になってし
まったのではと思います。
 神仏分離令のように、仏教と日本の神祇とを分離する必要はないと思います。仏教
の立場からは・・・。
 また、神道の側から仏教を排斥して分ける必要もないと思います。
 本来、仏教は形而上のことを積極的には説きませんから、形而上のことでぶつかる
心配もありません。そして、双方とも一神教ではありません。
 また、釈尊在世の時代は仏教以外の修行者や在家者が釈尊に教えを請うています。
神道にとっても、神道の教師や信徒にとっても、他の諸宗教であっても、無神論者で
あっても、仏教から得る大切なものがあると思います。
 ▼
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  ̄
00066 01/02/28 15:37 Eisai              RE:00064 Re: 仏教と神道
 > その前に,神(the God)と神々(gods)を分ける必要があると
 > 思います.
 > 前者の場合,仏教は無神論(atheism)ですから,そもそも
 > 存在の余地がありません.
 無神論ということばを単に「神の存在を否定する思想」と捉えて「えっ」と思いま
したが、そうではないようですね。以下広辞苑より。
・有神論(theism)
 この場合の神は、世界を超越して存在し、世界を創造し、世界に自己の摂理を働か
せている人格的な唯一の神を信ずる立場。
・無神論(atheism)
 神の特別の(特に人格的意味における)存在を認めず、世界はそれ自身によってある
とする説。自然主義・唯物論などはこの思想に属し、汎神論もまたしばしば無神論と
目される
 なんか、ヨーロッパより東をオリエント(Orient)と十把一絡げにする西欧人の無茶
な分け方のように、一神教側から一神教でない宗教を無神論(atheism)としているの
でしょうか。
 > これ,きわめて教科書風の答で面白くないでしょうかね(^^ゞ
 いえいえ、教科書風の考えって大切だと思います。そのことを知らずに、あるいは
知ろうとしないで奇想天外な教理に惑わされる人々が多いのですから。もっと教科書
風のことを教えて下さい。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00067 01/02/28 23:36 YAM                Re: bodhi.4:無神論
Eisai さま
> ・無神論(atheism)
>  神の特別の(特に人格的意味における)存在を認めず、世界はそれ自身によってある
> とする説。自然主義・唯物論などはこの思想に属し、汎神論もまたしばしば無神論と
> 目される
> 
>  なんか、ヨーロッパより東をオリエント(Orient)と十把一絡げにする西欧人の無茶
> な分け方のように、一神教側から一神教でない宗教を無神論(atheism)としているの
> でしょうか。
たしかに,有神論と無神論の中間形態について問題があるかもしれません.
私は,宗教を分類するのに
 無神教(atheism)
 多神教(multitheism)
 一神教(monotheism)
が有効ではないかと思います.
久松真一(鈴木大拙の友人でFAS協会の設立者)の論文に
『無神論』があります.著作集第2巻(法蔵館より復刻)所収.
久松博士の所論に依れば,仏教は明確に無神論です.
従来のキリスト教文化圏における宗教学では,神をもたない仏教は
宗教とは見なされなかった,というのは事実です.また,宗教の発展
形態ということを考えて,自然宗教(アニミズムなど)->多神教
->民族的一神教->普遍的一神教,という段階論を提唱していました.
(そしてもちろんキリスト教が最高次の宗教というわけです).
しかし今日ではこの考え方は否定されています.そのきっかけは
おそらく仏教ではなかったかと思います.仏教を知ることによって
宗教の定義が変わってしまった,といってもいいでしょう.
ポール・ティリッヒの言うところの<究極的関心>(ultimate concern)
もそのひとつです.
ただ,よく言われるのですが,外国へ行って,信仰を問われた時に
日本人は「無宗教」と答えてしまうが,これは「信用のできない人間」
と思われてしまうので注意が必要だと.(もっとも,それならというので
「仏教」と答えると,「では仏教とはどんな宗教か」と聞かれて立ち往生して
しまうことがあるらしい)
では「無神論」が一般に外国ではどういう目で見られているのか,
興味があります.
日本では「無宗教」の人はごくフツーの人ですが,「無神論」者というと
共産主義者に思われるのかな?
00068 01/03/05 23:41 master             仏と神について
みなさんこんばんわ
皆様の意見を見させていただいていたのですが、ちょっと難しくて
書き込めませんでした。
私は、日蓮宗の大曼陀羅ご本尊を見ていると天照大神と八幡大菩薩と
書いてありますよね。なのに何で日蓮宗のお寺では神棚を祀ろうと
しないのですか。
神々はそれぞれ、そのお役があるはず。
祈願ごとなどは、人間の欲になるわけですから神々にお願いし、供養の
部分は慈悲ですから、仏・菩薩に願うのが筋ではないかと思うのですが、
どうなのでしょうか???
00069 01/03/06 13:05 Eisai              RE:00068 仏と神について
master さん
 > 私は、日蓮宗の大曼陀羅ご本尊を見ていると天照大神と八幡大
 > 菩薩と書いてありますよね。なのに何で日蓮宗のお寺では神棚
 > を祀ろうとしないのですか。
 神棚はさすがにないでしょう。
 ただ、地域にもよりますが、庫裡に大黒天をまつったり、境内に妙見宮やお稲荷
様、地神水神様をまつったりすることはありますよね。
 > 祈願ごとなどは、人間の欲になるわけですから神々にお願いし、
 > 供養の部分は慈悲ですから、仏・菩薩に願うのが筋ではないか
 > と思うのですが、どうなのでしょうか???
 祈願ですが、仏教として我欲我執を満たすような祈願をして良いのかどうか疑問を
感じます。
 もし、それが許されるとしたら、その人を仏法の教えに導くための方便(手立て)
として許されるのでしょう。また、困窮している人を何とかしてあげたいという慈悲
心の発現としての祈祷だと思います。
 それから、日蓮宗の場合は神祇を本尊のように扱うのはよくないと思います。大曼
荼羅本尊の妙法五字の光明に照らされている存在の神祇への祈願です。
 境内の神祇に祈願をしているようで、その実は神祇を通して大曼荼羅本尊の世界が
そこにあり、仏菩薩もそこに居られると考えます。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00070 01/03/07 20:46 YAM                Re: bodhi.4: 仏と神について
Eisaiさま.
神祇観について興味深く読ませていただきました.
そこで,質問させていただきたいのですが:
『涅槃経』(如来性品)には
  仏に帰依せば,終にまたその余の諸天神に帰依せざれ
『般舟三昧経』には
  自ら仏に帰命し,法に帰命し,比丘僧に帰命せよ.余道に
  事うることを得ざれ.天を拝することを得ざれ.鬼神を祀
  ることを得ざれ.
とあります.
>  境内の神祇に祈願をしているようで、その実は神祇を通して大曼荼羅本尊の世界が
> そこにあり、仏菩薩もそこに居られると考えます。
ここから愚考いたしますと,神祇というものを入り口と位置付けておられるのかと
思われますが,それはあくまでも尊重であって帰依や礼拝ではない,ということで
よろしいのでしょうか?
YAMAGUTI Sin'iti ********************************
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00071 01/03/08 11:12 Eisai              RE:00070 Re: bodhi.4: 仏と神について
YAM さん
 > 『涅槃経』(如来性品)には
 >   仏に帰依せば,終にまたその余の諸天神に帰依せざれ
 > 『般舟三昧経』には
 >   自ら仏に帰命し,法に帰命し,比丘僧に帰命せよ.余道に
 >   事うることを得ざれ.天を拝することを得ざれ.鬼神を祀
 >   ることを得ざれ.
 > とあります.
 お経典を紹介して頂いて勉強になります。ありがとうございます。神祇を拝するこ
とを否定する経文ですね。
 『妙法蓮華経譬喩品第三』にも
   今此の三界は 皆是れ我が有なり
   其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり
   而も今此の処は 諸の患難多し
   唯我一人のみ 能く救護を為す
とあります。
 釈尊は迷いの世界の主であり、迷いの生存の親であり、釈尊のみその苦しみから救
護して下さると。じゃ〜、神祇の働きは?
 反面、『妙法蓮華経陀羅尼品第二十六』には、
   爾の時に毘沙門天王御護者、仏に白して言さく、
   世尊、我亦衆生を愍念し、此の法師を擁護せんが為の故に、
   是の陀羅尼を説かん。
   爾の時に持国天王、此の会中に在って、
   千万億那由他の乾闥婆衆の恭敬し圍遶せると、
   前んで仏所に詣で、合掌し仏に白して言さく、
   世尊、我亦陀羅尼神呪を以て、法華経を持たん者を擁護せん。
   爾の時に羅刹女等あり、一を藍婆と名け、二を毘藍婆と名け、
   三を曲歯と名け、四を華歯と名け、五を黒歯と名け、
   六を多髪と名け、七を無厭足と名け、八を持瓔珞と名け、
   九を皋諦と名け、十を奪一切衆生精気と名く。
   是の十羅刹女、鬼子母竝に其の子及び眷属と倶に仏所に詣で、
   同声に仏に白して言さく、
   世尊、我等亦法華経を読誦し受持せん者を擁護して、
   其の衰患を除かんと欲す。若し法師の短を伺い求むる者ありとも、
   便を得ざらせめん。
とあります。
 以上、『法華経』から考えると、私たちを救ってくださる主体は釈尊です。そし
て、神祇はその釈尊をお助けする為に不思議な力を発揮する。私はそう考えていま
す。
 
 > >  境内の神祇に祈願をしているようで、その実は神祇を通して大曼荼羅本尊の
世
 > 界が
 > > そこにあり、仏菩薩もそこに居られると考えます。
 >
 > ここから愚考いたしますと,神祇というものを入り口と位置付けておられるのか
と
 > 思われますが,それはあくまでも尊重であって帰依や礼拝ではない,ということ
で
 > よろしいのでしょうか?
 日蓮宗ではという前提のもとに話をしたと思います。日蓮教学にあっては、
   此等の仏、菩薩、大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人も
   もれず此御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊
   形となる、是を本尊とは申す也。 『日女御前御返事』
という本尊観です。そして、本尊は根本尊崇、本来尊重、本有尊形と定義づけられて
います。(日蓮宗事典 P374 b)
 ですから、教学者は神祇を本尊として祈祷するのはおかしいと考えられるようで
す。
 教学的に問題のない言い回しは川蝉さんがお得意だと思いますが、たとえ独立の堂
宇に別勧請してある神祇であっても、上掲の『日女御前御返事』にあるように御本尊
に住する神祇として法味を言上しているのだと思います。
 日蓮聖人の真跡御本尊を十ほど確認しましたが、四天王、天照大神、八幡大菩薩、
鬼子母神など神祇には南無がついていません。対して仏法僧には南無がついていま
す。神祇に対する日蓮仏教の礼拝の仕方が帰依かどうかの判断基準になると思いま
す。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00072 01/03/08 15:28 川蝉               RE:00071 Re: bodhi.4: 仏と神について
 
Eisaiさん、YAM さん今日は。
日蓮宗では、正神は釈尊・法華経に帰依し、法華経信仰者を守護するものであると基
本的に考えています。
時に応じて、正神(善神)に守護を願うことを認めています。
YAM さんが提示された『涅槃経』(如来性品)や『般舟三昧経』(四輩品)の文は、
いわゆる当時の外道が崇める神を、釈尊より優れた者、尊い者と考えて帰依していけ
ないと云う主張と私は理解しています。
『涅槃経』も『般舟三昧経』も仏法守護仏道修行者を守護する善神の在ることを認め
ています。
『般舟三昧経』の「擁護品第八」に
「是の菩薩は、諸天の為に護せられ、諸龍の為に護せらる。四天王・・閲又鬼神・・
もしは人非人、皆共に是の菩薩を擁護す(略抄)」
とあります。
『涅槃経』は「序品」に、
「諸々の天女等有り。・・是の諸々の天女は・・大乗を守護し、もし異学の大乗を憎
嫉するもの有らば、勢い能く摧滅すること雹の草を摧くが如し」
「魔王波旬・・是の如き呪を説く・・世尊、此の呪を持する者は、我当に之を護り、
亀の六を蔵するが如くすべし」
等とあり、諸天が擁護することを語っています。
仏法守護の神、並びに仏道修行者守護の神であるならば、その神に向かって、時には
守護を請うことは自然の宗教的心理であろうと思います。
Eisai さんの
「 以上、『法華経』から考えると、私たちを救ってくださる主体は釈尊です。そし
て、神祇はその釈尊をお助けする為に不思議な力を発揮する。私はそう考えていま
す。」
と云う見解と同じです。
さらに、Eisai さんが
「たとえ独立の堂宇に別勧請してある神祇であっても、上掲の『日女御前御返事』に
あるように御本尊に住する神祇として法味を言上しているのだと思います。」
と云われている通りですね。
有縁の神を別勧請しているケースが多く見られますね。
別勧請してある神祇の背後に釈尊が在す事を忘れないと云うか、その神は釈尊の手伝
いとして働いている、法華経の三宝帰依に導こうとして守護の働きをしてくれている
と云う認識を忘れてならないと思います。
別勧請された特定の神なり菩薩に守護を請う場合は、狭い意味で本尊として礼拝して
いることになりますが、大曼荼羅ご本尊もしくは一尊四士像本尊と同等のものとか優
れた本尊であるなどと考えるものではありませんね。

00073 01/03/08 15:28 川蝉               RE:00071 Re: bodhi.4: 仏と神について
 
00074 01/03/17 01:12 master             新世紀の仏教
今の世の仏教は、何百年も前からの形で行っていますよね。
時代が変わって世の中はめまぐるしく変化を遂げているにもかかわらず、
仏教を説く方法はこのままでよいのでしょうか。
形は変わらなくとも、今の時代にあった布教の仕方って無いのかな、っと
思います。
00075 01/04/02 23:27 なむnomoto         RE:00074 新世紀の仏教
  masterさん、はじめまして(かな?)
                  なむ野本です
>今の世の仏教は、何百年も前からの形で行っていますよね。
>時代が変わって世の中はめまぐるしく変化を遂げているにもかかわらず、
>仏教を説く方法はこのままでよいのでしょうか。
 どんな方法でも、説けたら良いのですが、仏教が何かを知らないでは
 説明できませんよね。
  でも、完全に知らなくても、少し知っていることは説明できますが、現代にふさ
わしい説き方が必要だとすれば、現代の常識知識やテクニカルなことや、社会を良く
知らないでは説けません。
 そうなると説く人は、ただお経を読んでお布施を貰うだけに較べて非常に沢山の勉
強や思索が必要になります。
 なんだか難しいことに思えますので、私は、お経を読誦してお布施貰うだけの仏教
に成り下がると思います。仏教教団が、怠け者に罰則を与えるようでなければ、改善
は見込めませんね。
 あ、これは非常に悲観的な意見です。(^^;)
00076 01/04/02 23:44 なむnomoto         RE:00071 Re: bodhi.4: 仏と神について
 Eisaiさん
           ご無沙汰の なむ野本です
 天台宗では、古くから日吉山王神をまつります。
 表白文(法則の)などでも、日本全国の神々に先ず敬意を示し、
 般若心経と、大般若経の経名を唱えてから、仏教儀式を始める
 ようになっています。
 この場合の神々は、すでに祭祀されている神社の神々ですね。
 これから見ると、日本神道の神信仰は仏教にも存在しています。
 ただし、明治以後の神道は全く別物です。ねつ造された神道だと
 思います。
 総じて、仏教守護神としてのみ認める内容です。奈良・平安時代に
 中国の道教を導入しなかったのは、日本の神信仰とバッティングする
 ことを分かっていたからのようです。遣唐使などが仏教ばかりを
 持ち帰ることを、中国皇帝は面白くなかったようです。
 仏教と神々は、仏教の定着した国の文化と融合するために、必ずしも
 経典にあるような形ばかりではないのに、経典にあるような形の神に
 整形しているような感じがあります。
  整形できるのは、日本神道に、仏教に対校できるだけの教理学が
 ないためだろうと思います。しょうがないから尊崇はするけど、
 仏・菩薩ほどではない状態となるのではないでしょうか。
 経典に出てくる、「山王」は、インドの自然神の総称のようです。
 もちろん、靈鷲山にもヒマラヤ雪山にも存在したようです。
00077 01/04/05 22:28 master             RE:00075 新世紀の仏教
なむ野本さま こんばんわ
> どんな方法でも、説けたら良いのですが、仏教が何かを知らないでは
> 説明できませんよね。
>  でも、完全に知らなくても、少し知っていることは説明できますが、現代にふ
>さわしい説き方が必要だとすれば、現代の常識知識やテクニカルなことや、社会を
>良く知らないでは説けません。
> そうなると説く人は、ただお経を読んでお布施を貰うだけに較べて非常に沢山の
>勉強や思索が必要になります。
> なんだか難しいことに思えますので、私は、お経を読誦してお布施貰うだけの仏
>教に成り下がると思います。仏教教団が、怠け者に罰則を与えるようでなければ、
>改善は見込めませんね。
>
> あ、これは非常に悲観的な意見です。(^^;)
私は大学を出たわけでもなく30歳までごく普通のサラリーマンでした。
ですから仏教を説くなどと言うことはとても出来ませんが、
私でも出来ることがあると思っています。
みんながみんな同じ立場では無いわけですから、私の話でもわかって
もらえる方がいればと思い地道に「一日一善」のお話をさせていただいて
おります。
日本人みんなが一日一善の布施の行をしたらすごいなー、などと夢見ております。
仏教は生活と密着しているものだと思っていますので、その当たりからお話を
させていただきます。
もう一つ勉強になることは、私のごく身近な方が霊能者の方なのです。
その方はきちんと僧階をもっている女性のかたです。
その方を守護されている八大龍王神さまが、困った時にヒントを教えてくれます。
そのヒントが、私達には大変ためになります。
仏界の動きや神界の動きなど教えていただけます。
ただそのときにも「必ず人として考えること」、と最後に付け加えられます。
私は毎日その中で過ごしております。
お寺の仕事とかんながらの仕事を毎日こなしているのですが、人間はこんなに
罪障を背負って生きているのかと思う毎日です。
自分の罪障を知ることが出来る方、知ることが出来ず一生を終わる方。
「縁」という言葉を深く感じます。
私達の日々の行動が過去の罪障にどれだけ関わっているか、私も初めて聞いた時は
驚きました。私達の名前(姓名)にもヒントは隠されていました。
これからこの場で少しでも皆さんとお話が出来たならと思います。
00078 01/04/05 22:31 master             RE:00077 新世紀の仏教
追加です。
私達のホームページです。
http://www.interq.or.jp/dragon/mirai/
00079 01/04/06 08:09 Eisai              RE:00074 新世紀の仏教
MASTER さん
 > 今の世の仏教は、何百年も前からの形で行っていますよね。
 変えるべきでないのに変わってしまった形もあるでしょうね。
 > 時代が変わって世の中はめまぐるしく変化を遂げているにもかかわらず、
 > 仏教を説く方法はこのままでよいのでしょうか。
 ホームページ、メールマガジン、ML、プレゼンテーション、衛星放送・・・もっ
と活かすべきでしょうね。
 仏の教えを弘めることに専念している寺院、僧侶にとって、布教方法はもっともっ
と工夫すべきだと思います。
 せっかく頭を丸めているのですから、もっと頭の中も丸めないといけないことがた
くさんあるでしょうね。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00080 01/04/06 09:09 Eisai              RE:00075 新世紀の仏教
なむ野本さん
 いろいろ同調のコメントを書きたかったですが、またオフラインで叱られますので
止めときました。
 私の場合、人のふり見て我がふりを直すことに専念する方が先のようです。
 >  そうなると説く人は、ただお経を読んでお布施を貰うだけに較べて非常に
 > 沢山の勉強や思索が必要になります。
 >  お経を読誦してお布施貰うだけの仏教に成り下がると思います。
 同感です。
 お経だけで気のきいた法話もできないで帰るお参りはむなしいです。
 > 仏教教団が、怠け者に罰則を与えるようでなければ、改善
 > は見込めませんね。
 選挙で選ばれる宗会議員制度では実現が難しいですね。
 でも・・・あったほうが良いと思います。
 何宗がではなく一般論ですよ・・・。
 以前から主張しているのですが、僧階昇叙に論文や試験を課してはどうかと思いま
す。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00081 01/04/06 09:24 Eisai              RE:00076 Re: bodhi.4: 仏と神について
なむ野本さん
 >  天台宗では、古くから日吉山王神をまつります。
 明治維新にともなう神仏分離令で日吉大社とは別になっているそうですが、比叡山
は比叡山で、日吉大社は日吉大社で同じ神様を勧請されているのでしょうか? 
 日吉山王神は延暦寺より古いようですが、延暦寺の興隆によって信仰をあつめ、全
国の末寺にまつられ、御威光を増したところがありましょうから神仏分離は日吉山王
神御自身も望まれなかったかも知れませんね。
 >  これから見ると、日本神道の神信仰は仏教にも存在しています。
 >  ただし、明治以後の神道は全く別物です。ねつ造された神道だと
 >  思います。
 へ〜っと思いましたが、調べてみると神道は仏教から養分を吸収して成立したよう
なところがあるようですね。
 現世利益を求めて天台宗や真言宗から神道の理論を構成することが起こって、天台
では日吉社の山王一実神道、真言では大和の三輪神道や伊勢外宮を中心とする伊勢
(度会)神道が発生したという村山 修一さんという方の記述をみつけました。伊勢神
道も密教の胎蔵・金剛両曼荼羅を中心とする二元観をもって内宮・外宮の関係を説いて
『神道五部書』をつくり、密教のみならず道教、陰陽道などさまざまの思想を混合し
て伊勢信仰の権威づけと神秘化をはかり神本仏迹説の奥儀を示したとか。
 日本の神道は、仏教をはじめ、道教、儒教、陰陽道などの習合により体系づけられ
たものなのですね。それに対して、明治以後の神道はどうなったのか。その辺のこと
を書いた本があれば読んでみたいですね。神道に対抗するつもりはないですが、明治
維新による廃仏毀釈と神仏分離令は神社と寺院に大きな溝を作ったままです。寺院と
地元との円滑な関係を考えても、もっと神道のことについて詳しくならないといけま
せんね。
 > 遣唐使などが仏教ばかりを
 > 持ち帰ることを、中国皇帝は面白くなかったようです。
 そうだったんですか。(._.) φ メモメモ
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00082 01/04/10 23:23 なむnomoto         RE:00077 新世紀の仏教
 masterさん、こんばんわ
           なむ野本です
>みんながみんな同じ立場では無いわけですから、私の話でもわかって
>もらえる方がいればと思い地道に「一日一善」のお話をさせていただいて
>おります。
>
>日本人みんなが一日一善の布施の行をしたらすごいなー、などと夢見ております。
>仏教は生活と密着しているものだと思っていますので、その当たりからお話を
>させていただきます。
 善とは何かという教理学的議論はとりあえず置いて、
 善と思うことをするのは良いかも知れません。
 善を行おうと思わないで、善が行えてるのが一番良い
 というか、疲れないですね。
>もう一つ勉強になることは、私のごく身近な方が霊能者の方なのです。
>その方はきちんと僧階をもっている女性のかたです。
>その方を守護されている八大龍王神さまが、困った時にヒントを教えてくれます。
>そのヒントが、私達には大変ためになります。
 私には霊感のことは分かりません。霊感が全然ないからかも
 知れませんがしかし、霊感を否定しません。
 しかし霊感に頼ることは、良いことではないように思います。
 どこかインスタント食品だけを食べるような気がするからです。
 合理的な説明も必要な場合が必ずあるので、私はこちらのほう
 から行きます。(^^;)
  自己の罪業を認知するのは、おそらく宗教の基本だと思います。
 それは、懺悔(さんげ)とか悔過(けか)とかいわれるもので、
 その方法の1400年前の典籍内容が知られています。
  天台大師の書です。でも書籍は、懺悔ではありませんから、
 自分で行うしか無いものだと思います。
 これは、何のために必要かと言えば、自己の精神状態を清浄に
 するためです。そうしないと正確に物事を判断できなくなるから
 だそうです。これを悪用して、寄付や布施を強要して脅すのが
 新興宗教や、既成教団の悪徳僧侶にいるので、自信を持って
 私は懺悔を説けなくなっています。
  これで、私は布施を貰うだけの、怠け者の僧侶になっている
 のですが、叱られるだろうなぁ・・・

00083 01/04/10 23:36 なむnomoto         RE:00080 新世紀の仏教
 Eisaiさん
          なむ野本です
> 同感です。
> お経だけで気のきいた法話もできないで帰るお参りはむなしいです。
 もっと悲惨なのは、気の利いた話をしたはずなのに、サッパリ
 喜んでももらえない場合ですね。トボトボ帰りです。(^^;)
> 選挙で選ばれる宗会議員制度では実現が難しいですね。
> でも・・・あったほうが良いと思います。
> 何宗がではなく一般論ですよ・・・。
 何宗にも必要だというご意見ですよね。宗教が民主主義できるなら、
 教祖は不要です。民主主義で、教理学を決めてしまうような事は
 出来ないですから、やはり優れた指導者が必要になるかと思います。
 567000万年後まで期待しなくちゃいけないのかなぁと、
 期待しなくても出てくるだろうから、まあ待ってれば良いか、とか。
 ほとんど投げやり状態。
> 以前から主張しているのですが、僧階昇叙に論文や試験を課してはどうかと思いま
>す。
  そうそう、絶対必要ですよ。問題は誰が採点するかですね。
  試験官が信頼されないと問題が起きます。(^^;)
    **檀家さんが試験官だったりすると悲惨かも。
  天台宗では下から半分くらいまでは、試験で昇格もできます。
  問題はそれから上ですね。とんでもない方も大切にしないと、
  団体も維持が大変だし、締め付けばかりではだめだから、
  アメがないとイケナイかも知れません。
  妙薬のようなアメ。(^o^)

00084 01/04/11 00:00 なむnomoto         RE:00081 Re: bodhi.4: 仏と神について
 神も仏も
 Eisaiさん        なむ野本です
> 明治維新にともなう神仏分離令で日吉大社とは別になっているそうですが、比叡山
>は比叡山で、日吉大社は日吉大社で同じ神様を勧請されているのでしょうか? 
 勧請しなくても、もうすでに有るわけです。
 しかし、神仏分離の時に、神体を取り替えたとかという話も、元に
 戻したという話もあります。
> 日吉山王神は延暦寺より古いようですが、延暦寺の興隆によって信仰をあつめ、全
>国の末寺にまつられ、御威光を増したところがありましょうから神仏分離は日吉山王
>神御自身も望まれなかったかも知れませんね。
 日吉神社のお祭りは、今は4月12〜14日です。
 この日吉の神様は沢山が一箇所におられます。
 おそらく、この神様は天皇家の先祖神である、大三輪の神を
 天智天皇(大津京)時代に勧請し、それ以前の地元神と、
 並んでいます。お祭りは、地元神の大山咋の神の春の再生祭り
 ですね。これで地元の農耕と平和を祈る行事のようです。
  これに現在は延暦寺は関わりません。氏子の祭りかな。
 延暦寺に関わる行事は別に行われます。神前論義法要です。
> へ〜っと思いましたが、調べてみると神道は仏教から養分を吸収して成立したよう
>なところがあるようですね。
 民族的な作法などには影響があるでしょうが、問題は国家神道に
 なった段階で、作為的な、信仰を利用した権力者の道具になった点です。
 古来の信仰じゃなくなってしまってます。それが鎌倉時代以前ころにも、神道教理
を纏めるために工夫された形跡があります。いずれもねつ造された書籍によるもので
すが、近年の神道は、さらに悪質だと思います。戦争の道具となり、政治の道具とな
って国民を死なせた点が良くないと思います。それを反省もしていない神主が多いこ
とも問題です。
 しかし、冷静な神主さんもあって、一概に悪くも言えないのですけどね。役に立た
ない宗教より良いという面も主張されるかも知れないし。
>(度会)神道が発生したという村山 修一さんという方の記述をみつけました。
  村山先生の研究は、神道研究と言うより、民族学的な面からの視座もあって面白
いですね。でもそれだけで片づかない面もあります。
  宗教って、簡単に分析できないところがあるでしょ?学問だけでは片づかないと
ころが、書かれていないです。なぜそうなったのかが分かりません。
>維新による廃仏毀釈と神仏分離令は神社と寺院に大きな溝を作ったままです。寺院と
>地元との円滑な関係を考えても、もっと神道のことについて詳しくならないといけま
>せんね。
 檀家さんも、神・仏は違うものだと堅く信じている方があります。
 これは、戦前戦後の教育のせいだと思いますから、簡単には
 解決しないでしょう。
 でも、地元の神のことを詳しく知っていることは、尊敬のまな指しで
 仰がれるでしょうね。
00085 01/04/11 00:06 なむnomoto         花ハス
 Eisaiさん
           なむ野本です
 花蓮の植え替えを行いましたので、ハスの芽が見えるものが
 あります。
 種レンコンが余っていますが、要ります?
 私は、40鉢ほど檀家ボランティアのご協力で植え替えました。
 これで、浄土の花をじっくり見学できますよ。
 法の華も良いけど、実の華も良いです。(^^;)
00086 01/04/11 11:47 Eisai              RE:00085 花ハス
なむ野本さま
 >  種レンコンが余っていますが、要ります?
 難しそうですが挑戦してみたいですね。
 本当に余っているのでしたら欲しいです。
  http://www.j-lotus.org/renkei/eno-index.htm
  http://www.geocities.co.jp/NatureLand/2627/top.html
なんかみて頑張ります。
 最初からうまくは行かないでしょうけど。
 >  私は、40鉢ほど檀家ボランティアのご協力で植え替えました。
 >  これで、浄土の花をじっくり見学できますよ。
 綺麗な華を咲かせるまでの世話と技術が大変なんでしょうね。
 >  法の華も良いけど、実の華も良いです。(^^;)
 40鉢も咲いた境内は荘厳できれいでしょうね。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00087 01/04/11 21:44 なむnomoto         RE:00086 花ハス
 Eisaiさん
        なむ野本です
> >  種レンコンが余っていますが、要ります?
>
> 難しそうですが挑戦してみたいですね。
> 本当に余っているのでしたら欲しいです。
 んじゃ、贈ります。
 取りあえず、2種類だけ。たくさんだと大変かも。
 ピンクとシロと。直ぐに植えて下さいね。
 ・大きな器が必要です。小さい器だと咲きにくく、華も小さい。
   ホームセンターで、底穴のないプラスチックの大きなのを
   無ければ注文して取り寄せます。1つ小さな穴があるやつ
   で、そこは、栓が付いていますので塞ぎます。
   直径60pあればOKです。
 ・骨粉入り発酵済み油粕と苦土石灰が少々、必要です。
 ・水と(水道の水で貯めとけば良いです)と
 ・土(田んぼの土のような土で良いです)が必要です。深さ40pかかな。
 ・日当たりの良いところに置いて下さい。
 ・植え方の方法を書いた紙を同封します。
 ・ボウフラ除けに、和金の金魚を2匹くらい入れておきます。
>なんかみて頑張ります。
> 最初からうまくは行かないでしょうけど。
 絶対巧く行きます。今年の7月には咲くでしょう。
 毎年植え替えると、巧く行きます。2年ごとでも良いかも。
 簡単です。私にも出来ましたから。
> 40鉢も咲いた境内は荘厳できれいでしょうね。
 巧く行けば増やされると良いですが、植え替えが大変です。(^^;)
 華だけにお参りされる方があります。(+_+)
                      なむ野本
00088 01/04/16 13:44 なむnomoto         RE:00087 花ハス
 Eisaiさん
        なむ野本です
   種レンコンを発送しました。
  ハス芽を傷つけないように注意して、そっと取り出して下さい。
  早めに植えるのが良いですが、取りあえず、水に浸して下さい。
  同じ品種を同じ鉢に植えるのは良いですが、別種を混植されませんようにご注意
下さい。
  植え込みが済んだら、水を目いっぱい入れて日当たりの良いところに
  置いて下さい。後は、水が切れないように注意するだけです。
  要するに放置して置けば良いのです。(^^;;
   では。

00089 01/04/16 22:04 Eisai              RE:00088 花ハス
なむ野本さま
 >  ピンクとシロと。直ぐに植えて下さいね。
うれしい!
 >  ・大きな器が必要です。小さい器だと咲きにくく、華も小さい。
ホームセンターで蓮用の鉢と肥料を下見してきました。
直径60cmで十分な深さで、さらに綺麗なデザインのものがありました。
 >  ・骨粉入り発酵済み油粕と苦土石灰
も全部みつけました。
 >  ・ボウフラ除けに、和金の金魚を2匹くらい入れておきます。
肥料の成分が水に溶けだして死なないですか?
どちらにしましても親切に教えて頂きましてありがとうございます。
インドの国花で仏教にも関わりの深い蓮です。
精一杯のことをして蓮の華をさかせてみたいです。
 >  毎年植え替えると、巧く行きます。2年ごとでも良いかも。
 >  簡単です。私にも出来ましたから。
檀信徒の隣人が二年目は咲かなかったということを言っていましたねぇ。
小さな鉢でしたが・・・。
 >  華だけにお参りされる方があります。(+_+)
方便で終わってしまっているのですね。
 >   要するに放置して置けば良いのです。(^^;;
それが本当だったら私向きです。(^_^ ;
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00090 01/04/17 10:53 なむnomoto         RE:00089 花ハス
  Eisaiさん
               なむ野本です
 このテーマは21世紀の仏教でしたね。(^^;;
 21世紀は、もっとも原始的なハスの華から始めれば、人工改良によって生命力を
失いかけた仏教も、蘇るかも知れません。
 何気なく見る華が、深遠な仏教の生命力を伝えてくれるかも知れません。
 別に、今年は沙羅双樹のインド伝来樹を植えました。芽が出てますから今年は、本
物の沙羅双樹の花を咲かせてくれるでしょう。
 菩提樹は、大木が2本すでにあるので、後は何を足せばいいのかなあ。
 無優樹って入手できるだろうか不明です(^^;;
 迷ったら、原点に戻って省みるって古くからある基本的な方法だと思います。ハス
の華にこだわってるのは、救いのない私の救いにしようとしてるらしいと、この頃感
じています。
> >  ・大きな器が必要です。小さい器だと咲きにくく、華も小さい。
>
>ホームセンターで蓮用の鉢と肥料を下見してきました。
>直径60cmで十分な深さで、さらに綺麗なデザインのものがありました。
 もちろん、底に穴はない器ですよね(^^;; 華麗なデザインって良いですね。私は
見つけられなかった。ううむ、要するに、植木鉢をホールなどに置く場合に植木鉢ご
と入れておく、穴のない外容器だと沢山あるようですが、田舎にはそうしたものがほ
とんど無いのです。
>檀信徒の隣人が二年目は咲かなかったということを言っていましたねぇ。
>小さな鉢でしたが・・・。
  池深ければ華大し。と古典にありますが、これは人格の事を喩えていますが、まあ、
本当のハスもその通りのようです。この頃はベランダで育てられるミニのハス、椀蓮
の品種改良が進んでいるようです。植え替えが楽だからこちらも良いかも知れません
が、大きな華は、問答無用の驚きが沸きますから、棄てがたいんです。器は大きい方
が良いみたいです。
> >  華だけにお参りされる方があります。(+_+)
>
>方便で終わってしまっているのですね。
  結縁にはなってるわけで、そのうち、いろいろお気づきもあるかと。
  成功を祈ります。
00091 01/04/18 08:25 Eisai              RE:00088 蓮華の栽培
なむ野本さま
 >    種レンコンを発送しました。
届きました。ありがとうございました。
小さなレンコンから芽が生えているというものですね。初めて見ました。
とりあえず、ビニール袋の中に入れたまま水に浸しました。
息ができるように袋の口は大きく開けています。
芽は真っ直ぐ上に向いて元気に伸びています。
鉢が来るまで、毎日水を換えて待機させようと思います。
鉢ですが、ホームセンターの在庫は2つ揃わないので、近所で中華料理屋さんを経営
する中国人の友人にピータンの瓶をお願いしました。かなり大きいらしいです。
お寺で仏教の象徴でもある蓮を育てられることはとても嬉しいことです。
ありがとうございました。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00092 01/04/18 09:10 Eisai              RE:00090 境内に植える植物
どうもです
 >  別に、今年は沙羅双樹のインド伝来樹を植えました。芽が出てますから
 > 今年は、本物の沙羅双樹の花を咲かせてくれるでしょう。
 すごいですね。
 こちらは双樹ではなく1本なのですか? 釈尊涅槃の場所は沙羅樹林だったそうで
すね。
 インド原産のフタバガキ科の常緑高木で淡黄色の小さな花をつけるそうですが、も
し咲いたら写真など見せて下さいね。沙羅樹は堅いので建築用材などにするのだそう
です。沙羅 sala (堅固、高遠)はここから来ているのかな?
 蓮といい、菩提樹といい、沙羅樹といい・・・檀信徒や参詣者が感化を受けるとい
うことで素晴らしい方便になりそうですね。見習いたく思います。うちも、一般の参
詣者が少なくないお寺ですので・・・。
 >  菩提樹は、大木が2本すでにあるので、後は何を足せばいいのかなあ。
 法華経の随所にある雨曼陀羅華ということで、華を雨らす木などないでしょうか?
 桜ではあまりに当たり前ですが。
 あと、曼陀羅華は天界の花ですが、曼陀羅華のモデルはマメ科のデイコ(パーリ
ジャータ 波利質多)なんだそうです。樹高は20m、初夏には深紅色から紫紅色の
花を長さ30cm内外の総状につけるそうです。マンドラゴラや麻酔作用をもつチョウセ
ンアサガオを曼陀羅華と呼ぶこともあるそうです。
 あと、法華経で長さの表現に使われる多羅樹?
 >  無優樹って入手できるだろうか不明です(^^;;
 無優樹って?
 > 大きな華は、問答無用の驚きが沸きますから、棄てがたいんです。
 壮観でしょうね。
 写真ではみたことありますが、実際に大きな蓮を咲かせている場所はあまり見ない
ですね。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00093 01/04/18 09:25 Eisai              RE:00077 新世紀の仏教
横からスミマセン
 一日一善は法華経の普回向の実践として素晴らしいことだと思います。
 さて、
 > 私は大学を出たわけでもなく30歳までごく普通のサラリーマンでした。
 > ですから仏教を説くなどと言うことはとても出来ませんが、
 「学校歴」は問題になりません。
 反面、何を学んできたかという「学歴」は大切です。
 仏教系の学校で学んだ人たちに追いつくことは難しいことではないと思います。
 一日一歩確実に何かを学んでおられれば眠っているウサギさんはスグそこに見えて
きます。
 先陣切って走っているウサギさんのシッポはなかなか見えませんが (^_^ ;
 > もう一つ勉強になることは、私のごく身近な方が霊能者の方なのです。
 修法やシャーマンのようなことに傾倒する場合はなおさら仏教学や教学に明るくな
いと、仏教でない変な方向にそれることがあります。
 宗門としてもシャーマン的な傾向のある教師が未信徒教化に貢献することは認めつ
つも、その布教現場でなされていることに憂慮をもっているようです。
 そのような方向に傾倒されるのであれば、余計にインド仏教学などにある程度明る
くなられることをお勧めします。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00094 01/04/18 16:08 なむnomoto         RE:00091 蓮華の栽培
  Eisaiさま
               なむ野本です
>鉢が来るまで、毎日水を換えて待機させようと思います。
 水は毎日換えなくてもそのままで良いはずです。
>する中国人の友人にピータンの瓶をお願いしました。かなり大きいらしいです。
 ピータンの瓶? どんなんか教えて下さい。興味有ります。
  ええと、散財させたかも知れません。
 無事に開花することを祈ります。
00095 01/04/19 21:10 なむnomoto         RE:00092 境内に植える植物
  Eisaiさん
             なむ野本です   
> > 今年は、本物の沙羅双樹の花を咲かせてくれるでしょう。
>
> すごいですね。
> こちらは双樹ではなく1本なのですか? 釈尊涅槃の場所は沙羅樹林だったそうで
>すね。
 そうですね、双樹というのは幹が数本に分かれて大きくなるという
 意味なんでしょうか。現在の幹は主幹1本です。
> インド原産のフタバガキ科の常緑高木で淡黄色の小さな花をつけるそうですが、も
>し咲いたら写真など見せて下さいね。沙羅樹は堅いので建築用材などにするのだそう
>です。沙羅 sala (堅固、高遠)はここから来ているのかな?
 向こうではどこでも生えている樹木だと書かれていますね。日本の松
 のような樹でしょうか。花が咲いたら、お見せしましょう。小さい華
 だそうです。って見たことがありますから。
  夏ツバキが、日本では沙羅の樹として有名ですが、本当は違う樹だ
 そうです。木槿(むくげ、韓国の国花)に似ていますから、昔にそう
 して、日本に伝わったのかも知れません。
> 蓮といい、菩提樹といい、沙羅樹といい・・・檀信徒や参詣者が感化を受けるとい
>うことで素晴らしい方便になりそうですね。見習いたく思います。うちも、一般の参
>詣者が少なくないお寺ですので・・・。
 種から芽を芽吹かせて増やせますので、種を贈りましょうか?
 私もそうして育てた後輩からもらった樹なんです。
> >  菩提樹は、大木が2本すでにあるので、後は何を足せばいいのかなあ。
>
> 法華経の随所にある雨曼陀羅華ということで、華を雨らす木などないでしょうか?
> 桜ではあまりに当たり前ですが。
 菩提樹は、桑科の樹木らしく、早く大木になります。実はもちろん数珠にできます。
やたらに実ります。花は雲のような花が目立たなく咲きますが、ワンワン音がします。
蜂が密を求めて群がっているからです。
 桜を、雨曼陀羅華と名付けてしまえば、良いかも知れません。(^^;)
 皆が「なるほど」と経文にも興味を持ってくれるでしょう。
> あと、曼陀羅華は天界の花ですが、曼陀羅華のモデルはマメ科のデイコ(パーリ
>ジャータ 波利質多)なんだそうです。樹高は20m、初夏には深紅色から紫紅色の
>花を長さ30cm内外の総状につけるそうです。マンドラゴラや麻酔作用をもつチョウセ
>ンアサガオを曼陀羅華と呼ぶこともあるそうです。
 それって、紅藤の花に似ていませんか。藤をマンダラ華として札を立てたら、イン
チキだと言われるかも知れないけど、面白いかも知れません。今度これを捜して見よ
うかな? マンダラ華ですね。
> あと、法華経で長さの表現に使われる多羅樹?
  多羅樹は、葉書の葉の元だといわれる樹でしょ?本当は違うのかな。
 これは田舎にも結構たくさん植えてあります。火事の時に延焼を防ぐように、水蒸
気を吹き出すと言われて、家の回りに植えられていますね。大木になります。寺には
有りませんけど、緑が濃い樹木で、良いですね。
> >  無優樹って入手できるだろうか不明です(^^;;
>
> 無優樹って?
 釈迦誕生の時に、母が手を伸ばした樹だと言われていますけど。悩みがなくなる樹
木なんて、良いですね。花が咲くんかいなと心配もありますけど。
> 壮観でしょうね。
> 写真ではみたことありますが、実際に大きな蓮を咲かせている場所はあまり見ない
>ですね。
 琵琶湖の水性植物園の外側に、保護された自然の蓮池があります。
 東洋で最大級クラスだそうです。それは見事です。蓮の香りもぷんぷん匂います。
 草津駅から、バスで行けます。自動車は駐車場もあります。
 時期には、夜明け前からにぎわっていますね。私の家の近くです。
  この中のどれかを見て下さい。紹介されています。
  http://www5.airnet.ne.jp/~ttsc/biwako/index.html
 
 境内も、上人さまの坐禅石とか、お釈迦さまの菩提樹とかで庭がさりげなく出来て
いれば、精神的ゆとりがあるような気がします。
 目で見る想像の世界ですね(^^;) 所詮は手がかりだけで、教えの内容を表すもの
ではないでしょうけど、説得力がありますね。
00096 01/04/19 22:01 Eisai              RE:00094 皮蛋の瓶で蓮華栽培
なむ野本さん
 > >中国人の友人にピータンの瓶をお願いしました。かなり大きいらしいです。
 >
 >  ピータンの瓶? どんなんか教えて下さい。興味有ります。
 扱う店によって瓶の形や大きさは違うでしょうけど、それほど大きくはなかったで
す。45リットルくらいの焼き物の瓶です。
 龍の絵がついていてかっこいいし、持ち上げるのに便利な紐がついていて重宝しそ
うです。
 移動しやすいように出来ていて、かなり頑丈そうです。御希望でしたら50KB程度の
写真を送ります。
 すこし蓮栽培には小さいかな?
 ピータン(皮蛋)は御承知の如く、アヒルの卵を殻のまま、木灰・泥・塩に漬けた
ものです。私の大好物で、前菜にこれがないと御機嫌斜めです。(^_^ ;
 その皮蛋を漬ける為の瓶が、蓮栽培に良いのではと家内に言われて中華料理屋さん
にお願いをしました。
 本日届きましたが、塩気をとるために半日ほど水につけておきました。
 それから、ホームセンターのお洒落な穴のない植木鉢ですが、本日別の店員さんに
訊いたら植木鉢の外カバーで植木鉢ではないそうです。そういえば、軽いグラファイ
トのような素材でした。そこで、1980円のプラスチック製の植木鉢(直径50cm深さ
40cm≒75L VASO SIMILCOTTO DIAM 55 TERRACOTTA)を2つ購入して来ました。底には
φ13mmの穴が8つも開いていたのですが、大阪江坂の東急ハンズに行って試験管用の
ゴム栓を16個買って穴を埋めました。水を張ってからまだ2〜3時間ですが、今のと
ころ水漏れは無いようです。
 合計4鉢です。
 >   ええと、散財させたかも知れません。
 いえいえ・・・良い機会を与えて下さいました。
 失敗するかも知れませんがワクワク o(^-^)o しています。
 とりあえず、油粕や苦土石灰が馴染むように半日おいてから明日午後にも種蓮根を
植えます。
 肥料は少ないよりも多い方が問題なようなので、少な目に入れました。
 PHを測る試験紙を買ってくれば良かった・・・。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00097 01/04/23 17:52 なむnomoto         RE:00096 皮蛋の瓶で蓮華栽培
 Eisaiさん
             なむ野本です
> >  ピータンの瓶? どんなんか教えて下さい。興味有ります。
>
> 扱う店によって瓶の形や大きさは違うでしょうけど、それほど大きくはなかったで
>す。45リットルくらいの焼き物の瓶です。
> 龍の絵がついていてかっこいいし、持ち上げるのに便利な紐がついていて重宝しそ
>うです。
> 移動しやすいように出来ていて、かなり頑丈そうです。御希望でしたら50KB程度の
>写真を送ります。
> すこし蓮栽培には小さいかな?
 ふ〜ん。色々有るんですね。陶器でしょうね(^o^)。
 写真は欲しいです。ゴクッ!(興味津々)
 45リットルは小さめですね。60リットル位を私は使っています。
 プラスチックの植木鉢カバーは、カバーリーフとして各種有るようですが、デカイ
のはなかなか売ってませんね。取り寄せになるかも知れません。もっとも私の場合は
田舎の話です。20号が最大でした。
 蓮にも小さな「碗蓮」のばあいだと、ラーメン鉢程度で咲くそうですから、部屋置
きなんかは碗蓮の方が良いようですし、育てやすいようです。私は、デカイ華を選ん
でますから(^^;)、どうしても器もデカイ方が安心です。
> ピータン(皮蛋)は御承知の如く、アヒルの卵を殻のまま、木灰・泥・塩に漬けた
>ものです。私の大好物で、前菜にこれがないと御機嫌斜めです。(^_^ ;
> その皮蛋を漬ける為の瓶が、蓮栽培に良いのではと家内に言われて中華料理屋さん
>にお願いをしました。
> 本日届きましたが、塩気をとるために半日ほど水につけておきました。
 ほう、好物なんですか。ピータンってヒヨコが顏出すやつですか?
 それなら、ちょっと・・・・(^^;)
でも瓶の塩気を抜くのは必須でしょうね。蓮がどこまで塩害に耐えられるか実験する
場合は別として、田舎でも、漬け物桶を塩抜きして使う人もあります。塩抜き技術を
私は知りませんから、時々混ぜるくらいしか分かりませんが、記録されて置くと来年
の参考になるかも知れません。
>訊いたら植木鉢の外カバーで植木鉢ではないそうです。そういえば、軽いグラファイ
>トのような素材でした。
 底に穴のない植木鉢って、実際は使えないでしょうしね。そうです。
 カバーですね。家と同じものを先日東京のホテルのロビーで見まし
 た。全く同じなので、これが正しい使用法なんだわと思いました。
>そこで、1980円のプラスチック製の植木鉢(直径50cm深さ
>40cm≒75L VASO SIMILCOTTO DIAM 55 TERRACOTTA)を2つ購入
>して来ました。
 ふむ。1980円は安いです。私は20号4000円でした。去年のは7000円でした。(+_+)7
000円のは生産中止だそうです。だって高いもんな。ほぼ同じで、半額があれば売れ
ませんね。
>底にはφ13mmの穴が8つも開いていたのですが、大阪江坂の東急ハンズに行って試
>験管用の
>ゴム栓を16個買って穴を埋めました。水を張ってからまだ2〜3時間ですが、今のと
>ころ水漏れは無いようです。
> 合計4鉢です。
 穴埋めも完璧ですか、流石ですね。
  もう、準備万端ですね。咲いたも同然!
> 失敗するかも知れませんがワクワク o(^-^)o しています。
  そうなんです。ワクワクしてしまいます。
 本当は、移植は桜の咲くまでにと書かれています。だと、もう遅いので、レンコン
は栄養吸収の根と、酸素吸入のための葉を伸ばし始めてしまっています。蓮も新しい
寝床をワクワクで待っているでしょう。
> とりあえず、油粕や苦土石灰が馴染むように半日おいてから明日午後にも種蓮根を
>植えます。
> 肥料は少ないよりも多い方が問題なようなので、少な目に入れました。
>
> PHを測る試験紙を買ってくれば良かった・・・。
 う、え? PH試験紙を使うのですか? 中性かどうかを確認しなければならないほ
ど、怪しげな土なんですか?
 土は何にされたのですか?
 肥料は、成長してきたら追肥する方が良いそうです。
 私の家のは、小さな葉芽が、広がり始めました。まだ赤い小葉です。
                        なむ野本
00098 01/04/26 13:55 Eisai              RE:00097 皮蛋の瓶で蓮華栽培
なむ野本さま
 >  ふ〜ん。色々有るんですね。陶器でしょうね(^o^)。
 >  写真は欲しいです。ゴクッ!(興味津々)
 別送添付いたします。
 小さいけどプラスチック系のよりはお寺の景観を害しないと思います。
 >  45リットルは小さめですね。60リットル位を私は使っています。
 うちのもプラスチックの方は75リットル近くあるようです。
 >  ほう、好物なんですか。ピータンってヒヨコが顏出すやつですか?
 それはタイ料理でいたっけ? (^_^ ;
 > でも瓶の塩気を抜くのは必須でしょうね。蓮がどこまで塩害に耐え
 > られるか実験する場合は別として、
 もう植えてしまいましたから・・・。
 束子でゴシゴシして、半日水をはっておいただけです。
 水は毎朝少しずつ換えていますの水の塩分濃度はましだと思います。
 泥の中の塩分濃度は知りません。
 >  本当は、移植は桜の咲くまでにと書かれています。
 そのようですね。
 > 酸素吸入のための葉を伸ばし始めてしまっています。
 送られてきた蓮根はその状態でした。浄台蓮より舞妃蓮の方が元気が良いです。
 4鉢のうち1鉢で、カラスか何かが悪戯して大切な葉の茎を1本折ってしまいまし
た。
 (>_<)ゞグスッ
 > 蓮も新しい寝床をワクワクで待っているでしょう。
 4鉢とも元気に太い茎を伸ばしています。ワクワクしてくれていたら良いのです
が。
 一方、水槽の金魚の方はいつだれが蓮の鉢に出向させられるかビクビク?
 >  う、え? PH試験紙を使うのですか? 中性かどうかを確認しなければな
 > らないほど、怪しげな土なんですか?
 元・・・理系の癖です (^_^ ;
 仰せの通り神経質にならずに、葉の様子がおかしければPHを調べることにしま
す。
 >  肥料は、成長してきたら追肥する方が良いそうです。
 檀家さんに頂いた発酵ずみ油粕がφ2cmくらいの固まりなんですが大丈夫でしょう
か?
 量は2〜3個しか入れていませんが・・・。
 >  私の家のは、小さな葉芽が、広がり始めました。まだ赤い小葉です。
 水面に蓮の何本も葉芽は出てきたのですが、まだ開きません。
 早く開かないと、こんどはカラスではなく、ジュンサイ(蓴菜)の味噌汁が好きな
娘に食べられてしまいそうです。ぬめりはありませんが・・・。
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00099 01/04/27 01:51 なむnomoto         RE:00098 皮蛋の瓶で蓮華栽培
  Eisaiさん
        こんばんわ なむ野本です
> 別送添付いたします。
> 小さいけどプラスチック系のよりはお寺の景観を害しないと思います。
  メールを拝見しました。立派な壷ですね。
  私の所には、このピータン壷をずっと太らせた壷が12個
  あるんですが、高かった。それをもらえるなんて、羨ましい。
  結構な器だと思います。
   けども、やはり毎年植え替えした方が良いかも知れないと
  思います。家の壷も2年目は咲きが悪くなりますから。
> >  45リットルは小さめですね。60リットル位を私は使っています。
>
> うちのもプラスチックの方は75リットル近くあるようです。
 それは、良いです。それで充分だと思います。
 それ以上だと、植え替えの時に困りますから(^^;)
> もう植えてしまいましたから・・・。
> 束子でゴシゴシして、半日水をはっておいただけです。
> 水は毎朝少しずつ換えていますの水の塩分濃度はましだと思います。
> 泥の中の塩分濃度は知りません。
  移植が終わりましたか、それは良かったですね。
  当方の田舎は霜が降りて、水から出た芽がやられたようです。
  そちらは安心でしょうから、楽しみですね。
> 送られてきた蓮根はその状態でした。浄台蓮より舞妃蓮の方が元気が良いです。
> 4鉢のうち1鉢で、カラスか何かが悪戯して大切な葉の茎を1本折ってしまいまし
>た。
> (>_<)ゞグスッ
 多分、大丈夫でしょう。ほっとけば良いのです。
  (ほっとくしか方法がありません。)
 
> > 蓮も新しい寝床をワクワクで待っているでしょう。
>
> 4鉢とも元気に太い茎を伸ばしています。ワクワクしてくれていたら良いのです
>が。
 私の所より、居心地が良いと思っているに違いないです。
 そちらは、少しは暖かいでしょうからね。 
> 一方、水槽の金魚の方はいつだれが蓮の鉢に出向させられるかビクビク?
  ははは、出向した方が面白いかも知れませんよ(^^;)
  ワイルドな環境になるでしょうから。水がタップリで、餌がある
  なら、繁殖するかも知れません。家の池はうじゃうじゃに増えています。
> > らないほど、怪しげな土なんですか?
>
> 元・・・理系の癖です (^_^ ;
> 仰せの通り神経質にならずに、葉の様子がおかしければPHを調べることにしま
>す。
    ふ〜ん。理科の実験に使う紙で調べるのですか?
    私は、ひたすら放置してます(^^;)
    琵琶湖の植物園では、殺虫剤を水に入れていました。
    薬品名は知りません。
> >  肥料は、成長してきたら追肥する方が良いそうです。
>
> 檀家さんに頂いた発酵ずみ油粕がφ2cmくらいの固まりなんですが大丈夫でしょう
>か?
 骨粉入り油粕なら、良いはずです。私もそれですから。
> 量は2〜3個しか入れていませんが・・・。
 それで良いと思います。浮き葉が2〜3枚出てきたら、何箇所かに
 分けて、2〜3個くらいずつ少し埋めるように入れてやれば良いよう
 です。2週間に1回くらいだったかな。これを7月に咲いてもやると良いそうです。
 
  華の大きさや、数はこの肥料の量らしいです。
 ところで、土は田んぼの土ですか?それともホームセンターの新しい無菌土です
か? 
 化学肥料でも良いようですが、これは長持ちしないけど早く効くそうです。もし、
無肥料土なら、追肥は多めにするほうが良いかも知れません。
> 水面に蓮の何本も葉芽は出てきたのですが、まだ開きません。
> 早く開かないと、こんどはカラスではなく、ジュンサイ(蓴菜)の味噌汁が好きな
>娘に食べられてしまいそうです。ぬめりはありませんが・・・。
 旨くないらしいと口伝しないと心配ですね。(^^;)
 食べられるより、触るな!という方が重要かも知れません。
 蓮の葉のお茶は、立ち葉の新葉を採取して、陰干しするかして
 番茶のように入れると飲めます。購入すると結構高いお茶です。
 お茶づくりは、7月の葉の方が良いかも知れません。
 中華料理に合うかも知れませんよ。
 
 もし、巧く撮れたら私の壷の写真を送信します。
   
00100 01/05/18 09:02 Eisai              RE:00099 蓮華の鉢がカラスの行水場
 > > >  45リットルは小さめですね。60リットル位を私は使っています。
 > >
 > > うちのもプラスチックの方は75リットル近くあるようです。
 >
 >  それは、良いです。それで充分だと思います。
 4つの鉢のうち一つはカラスが行水にやって来ます。
 行水に邪魔になる葉の茎は折られたりして・・・・。
 金魚まで躍り食いされたかな?
 3匹が行方不明。
 > > 泥の中の塩分濃度は知りません。
 >
 >   移植が終わりましたか、それは良かったですね。
 >   当方の田舎は霜が降りて、水から出た芽がやられたようです。
 >   そちらは安心でしょうから、楽しみですね。
 塩分による生育不良は今のところ無いようです。
 > > 送られてきた蓮根はその状態でした。浄台蓮よりの舞妃蓮方が元気が良い
 逆転したようです。
 舞妃蓮は水面に葉を浮かばせるばかりですが、浄台蓮は太い茎が伸びて大きな葉を
のばしています。
 >  それで良いと思います。浮き葉が2〜3枚出てきたら、何箇所かに
 >  分けて、2〜3個くらいずつ少し埋めるように入れてやれば良いよう
 >  です。
 そうですかぁ、浮き葉が7〜8枚ですからそろそろ肥やしをやります。
 火ばさみでφ2cmの発酵済み油粕の塊を土深くに突っ込めばよいんでしょうね。
 金魚たちは大丈夫かな?
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00101 01/05/23 20:18 なむnomoto         RE:00100 蓮華の鉢がカラスの行水場
 Eisaiさん
      もうお出かけかな?   
                  なむ野本です
> 4つの鉢のうち一つはカラスが行水にやって来ます。
> 行水に邪魔になる葉の茎は折られたりして・・・・。
> 金魚まで躍り食いされたかな?
> 3匹が行方不明。
 可能性あり。立ち葉が出るまでは網でもかぶせないといけないかも。
 そちらのカラスは、場所が無くて困っているんでしょうか?
 金魚は必需品ですが、カラスの餌食になるんじゃいけませんね。
 うちも、カラスが壷の端に止まってじっと中を見つめていますね。
  金魚は災難ですね。供養してやらねば・・・
> 塩分による生育不良は今のところ無いようです。
  ううむ、良い報告を聞かせてもらいました。
> 逆転したようです。
> 舞妃蓮は水面に葉を浮かばせるばかりですが、浄台蓮は太い茎が伸びて大きな葉を
>のばしています。
 おお、本格的な夏が近づきましたからね。私の所も、浄台蓮の方が元気です。ぐん
ぐん、葉が生育していますが、奥手の品種もありますね。
> そうですかぁ、浮き葉が7〜8枚ですからそろそろ肥やしをやります。
> 火ばさみでφ2cmの発酵済み油粕の塊を土深くに突っ込めばよいんでしょうね。
> 金魚たちは大丈夫かな?
 聞けば、追肥は少し埋めるか、土の上に置くだけで良いそうです。
 網の目のような根っこに傷が付くと言われました。
  金魚の餌にならない程度に埋めると良いかも知れません。
 ご帰国後は、見事な葉が茂っていますように。 合掌
00102 01/06/04 15:58 Eisai              RE:00101 蓮華の鉢がカラスの行水場
こんにちは。
 >       もうお出かけかな?   
明日からシルクロードです。
 >  そちらのカラスは、場所が無くて困っているんでしょうか?
 他に水飲み場も少ないようです。
 >  金魚は必需品ですが、カラスの餌食になるんじゃいけませんね。
 残った金魚は慎重で捕まらないようです。
 浮き葉の裏に隠れたりしています。
 >  うちも、カラスが壷の端に止まってじっと中を見つめていますね。
 なむ野本さんとこもですか・・・。
 >  おお、本格的な夏が近づきましたからね。私の所も、浄台蓮の方が元気
 > です。ぐんぐん、葉が生育していますが、奥手の品種もありますね。
 ほんと差が大きいです。
 カラスに葉っぱや茎をやられたせいもあるのですが・・・。
 >  聞けば、追肥は少し埋めるか、土の上に置くだけで良いそうです。
 >  網の目のような根っこに傷が付くと言われました。
 でも土の上におくだけだったら・・・水面まで浮いてきますよね。
 生育の悪いのは肥料不足もあるのかなって心配になっております。
 それとも金魚を沢山飼ってその糞を肥料にしようかな?
 ▼
 |\(*^^)v  Eisai
  ̄
00103 01/06/04 23:55 なむnomoto         RE:00102 蓮華の鉢がカラスの行水場
 Eisaiさん
                  なむ野本です
>明日からシルクロードです。
 もう、ご帰国頃だがと、誤解してました(^^;)
> でも土の上におくだけだったら・・・水面まで浮いてきますよね。
 最初だけ浮くのでは? やがて沈む。
 2〜3センチ埋めたらどうでしょうか? 化成肥料でも良いみたい。
> 生育の悪いのは肥料不足もあるのかなって心配になっております。
>
> それとも金魚を沢山飼ってその糞を肥料にしようかな?
 肥料になるまでに時間がかかりませんか?(^-^)
 発酵済みなら即効性があります。化成肥料なら直ぐです。
 私の方も生育の悪いものがありますが、ま、質でしょう。
 ほっぽってあります。来年は、肥料だけでグングンになるはずです。
 
 浄蓮華不着水になるのは、来月ですから、まぁ待ってれば咲くでしょう。
 浮き葉のカラス被害は、実は深刻な問題だそうです。浮き葉をやられると、生育が
非常にわるくなります。浮き葉は酸素吸引の偵察葉ですから、最初の頃のは特別に重
要だそうです。この頃から腐ってしまう株も
あります。心配させるようですが、そういうのがあっても良いと覚悟されないと、非
常に悔しい思いをします--->σ(^^)自分

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