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近松門左衛門

近松の二つの墓碑(文献)

 

文献のまとめ

巻末の文献をもとに近松門左衛門の墓について整理する

●没後80年頃の文献執筆者には近松門左衛門の墓所がどこかわからなくなっていた。

『羇旅漫録』 (没後78年) 近松が墓所を問ふに正三もしらず
『著作堂一夕話』(没後80年) 墳墓しれず
『卯花園漫録』(没後85年) 墳墓知れず
※『著作堂一夕話』と『著作堂一夕話』とは文章に共通点

●にもかかわらず、広済寺過去帳に近松門左衛門の法名が記載されていることは知られていた。

『戯財録』(没後77年) 久々智妙見広済寺の過去帳に残る。
『羇旅漫録』(没後78年)久々智の広済寺の過去帳に戒名あるよしをかたれり。
『著作堂一夕話』(没後80年)広済寺、過去帳に法名あり。『卯花園漫録』(没後85年)広済寺過去帳に法名あり。

●墓が文献執筆者たちに知られたのは

『南水漫遊』 (没後96年) 墳墓は八丁目寺町法妙寺にあり (※命日は22日説)
『浄瑠璃作中祖近松門左衛門略伝』 (没後99年) 広済寺に葬る(妙見宮寺内也)石碑あり(自然の青小石也)

 広済寺の墓碑も、法妙寺の墓碑も、没後96〜99年になって文献に出現する。恐らく、墓がないわけはなく、広済寺過去帳の法名が手がかりとなって墓碑が発見されたのであろう。

●21日命日説は没後100年経ってから文献に登場

 法妙寺墓碑に刻まれている命日は、11月21日である。この21日命日説は『仮名世説』 (没後100年)以後にならないと文献に出てこない。それまでの文献は広済寺墓碑と同じ11月22日命日説である。
 ちなみに、『南水漫遊』 (没後96年)は「墓は八丁目寺町法妙寺」といいながら法妙寺墓碑に彫られた11月21日命日ではなく、11月22日命日説をとる。


考 察

 上記からこう考察する。

 近松門左衛門の墓が当初からなかったとは考えにくい。恐らく死後しばらくは、どこに葬られたかは周知のことであり、わざわざ文章で報せる必要もなかったのであろう。ところが、没後80年頃になって墓碑がどこにあるか『羇旅漫録』 『著作堂一夕話』『卯花園漫録』の著者達にもわからなくなってしまっていた。

 もし、法妙寺に当初から墓碑があれば、芸能関係者が近松門左衛門の墓所を知らないということは不自然である。竹本座などのある戎橋から2km未満の間近の場所だからである。あるいは近松門左衛門の菩提寺としての認識がなかったのであろう。末谷蓬吟氏の調査により、法妙寺は近松門左衛門の妻の菩提寺であることが報告されている。

 没後97年に法妙寺墓碑が断碑となるとの記載も気になる。断碑の「断」は、どういう意味か。墓をまつる子孫が絶えた、墓碑が破断した。前者であれば、家系は絶えても近松門左衛門 ほどの文豪の本墓であれば存続させただろう。事実谷町法妙寺跡の墓碑は残っている。後者の場合、現在の墓碑の正面左下部分に修理したとも考えられる模様があるが、それだろうか?。未確認である。

 多くの文献で広済寺の過去帳に言及されるということは広済寺が近松門左衛門の菩提寺(旦那寺)という意識はあったのだろう。一方で広済寺墓碑についての言及がないのも不思議である。

 広済寺と法妙寺の双方の墓碑について言及があるのは没後96〜99年。広済寺過去帳をはじめとした法名から発見されたのではないかと考えられる。あるいは、単に『羇旅漫録』 『著作堂一夕話』『卯花園漫録』の著者が十分な調査をせずに著述したのだろうか。

※同志社国文学 第三十号(昭和六十三年三月二十日) 近松墳墓考 向井 芳樹


結 論

 ここで結論を申し上げることができない。理由は以下の如くである。

下記の文献に関する知識を持ち合わせていない
下記の文献の原文にあたっていない

 結論のかわりに問題提起をしておく、

 法妙寺が近松門左衛門の菩提寺(旦那寺)であるかどうかの裏付ける資料があるのかどうか。具体的には法妙寺の江戸時代当時の過去帳に近松門左衛門の名前の記載があるのかどうか、近松門左衛門やその家系が檀家であったことを裏付ける文書などが伝わっているかなどである。それらの有無は本墓論議の大きな影響を与える。

 昭和42年(1967)に法妙寺が谷町から移転するに際し、墓碑の発掘作業はなされたのだろうか? あるいは、法妙寺石碑は台座部分が新しいが、丁重に扱われても不思議でない歴史的有名人の墓碑なのに、どうして全体が残っていないのだろうか。現在の谷町の墓碑は 移転後13年経った昭和55年(1980)に法妙寺跡近くの現地に移されたそうである。

 法妙寺の墓碑本体左下にある修理跡もしくは地層の模様は何なのか。表は2人の法名が彫られた夫婦墓なのに近松門左衛門の命日が墓碑本体裏側の中央に書かれているのは何故なのか。広済寺と法妙寺の墓は似せて作られているが、命日が1日違うのは何故なのか。それらを本墓論議にはそれらの検証が必要である。


文 献

『竹豊故事』 浪速散人一楽 宝暦6年9月 1756(没後32年) (京都生誕説)

享保九年辰十一月廿二日七十余歳にて死去せられぬ。平安堂菓林子と号す。法名は阿耨院穆矣具足居士と称せり。

『摂津名所図会』 秋里籬島 寛政10年 1798(没後74年) (長門生誕説)

享保九年十一月廿二日七十歳にて没す

『戯財録』 入我亭我入 享和元年 1801(没後77年) (備前生誕説)

享保九年甲辰十一月廿二日卒す。
法名 阿耨院穆矣日一具足居士(久々智妙見広済寺の過去帳に残る)

『羇旅漫録』 曲亭馬琴 享和2年 1802(没後78年)

今の並木正三が戯材録に云。(中略)予正三を訪ふて近松が墓所を問ふに正三もしらず。久々智の広済寺の過去帳に戒名あるよしをかたれり。よて正三が耳底簿をかりてこれをうつす。久々智は神崎の隣村なり。
久々智広済寺過去帳
阿耨院穆矣日一具足居士 俗名近松門左衛門
享保九年甲辰十一月廿二日
阿耨院の法号は近松みづからつけおきし也そは辞世の詠草中に見ゆ

『著作堂一夕話』 曲亭馬琴 享和4年 1804(没後80年)

享保九年十一月廿二日没。墳墓しれず。摂州久々智(神崎の隣村也)の広済寺、過去帳に法名あり。阿耨院穆矣日一具足居士といふ。この戒名は近松世にありし日設おきたる也。そは辞世の詠草中に見ゆ。(終焉の地は大坂なるべし)予浪花に遊びし時、歌舞伎狂言作者並木正三を訪て、その筆記する所の戯材録を一覧して、近松が事迹をしれり。

『卯花園漫録』 石上宣続 文化6年4月 1809(没後85年)

享保九年十一月廿二日没す。墳墓知れず。摂州河辺郡東富松村久々智(神崎の幡村也、)の広済寺過去帳に法名あり阿耨院穆矣日一具足居士といふ。此戒名は近松世にありし日認おきたる也。今は辞世の詠草の中に見ゆ。(終焉の地は大坂なるべし)

※「墳墓知れり。摂州久々智の広済寺過去帳に法名あり」との資料もあり。
※『著作堂一夕話』 曲亭馬琴 享和4年 1804(没後80年)と文章に共通点

『南水漫遊』 颯々亭南水(浜松歌国) 文政3年以降 1820(没後96年)

享保九辰年十一月廿二日没す墳墓は八丁目寺町法妙寺にありまた久々知広済寺の過去帳にも法名
阿耨院穆矣日一具足居士
此の戒名は近松氏在世より設置たるとぞ辞世二首詠草中に見ゆ

『平安堂近松翁墓碣』 大田蜀山人 文政4年 1821(没後97年)

その墓浪華谷町法妙寺にありいま断碑となる

『浄瑠璃作中祖近松門左衛門略伝』 近松春屋軒繊月 文政6年11月22日 1823(没後99年) (長門生誕説)

摂州河辺郡久々知村(かんざきより十八丁北)広済寺に葬る(妙見宮寺内也)石碑あり(自然の青小石也)

『仮名世説』 大田南畝 文政7年8月 1824(没後100年) (長門生誕説)

近松の碑文には、その事はもらせしなり。
近松の法名、穆矣具足居士とするものあり。此法名あやまれり。摂津大坂谷町法妙寺中に、平安堂の墓あり。おのれ其墓碑の石摺にしたるを蔵す。それにも旦を日一の二字につくれり。思ふに、近松は法花宗なれば、さもあるべし。且操年代記に、十一月廿二日とするもあやまれり。墓碑の裏かけて、纔に残る所に「辰年十一月廿一日」如此あり

『江戸本庄柳島妙見菩薩境内所在石碑』 文政11年(没後104年)

 日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖曽祖「近松門左衛門信盛、長州萩之藩臣杉森某男也」。後登京師奉仕一条禅閣兼良公。賜笏六位因老病致仕而遊摂浪華享保九年甲辰十一月二一日 而寂則葬於摂州久々智山広済寺。法号阿耨院穆日一具足居士 当百回之遠諱収遺草稿而於北辰尊前納千石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一首勤千石面者也 

『嬉遊笑覧』 喜多村〓庭 文政13年10月 1830(没後106年)

大坂谷町法妙寺に墓あり、法名阿耨院穆矣日一具足居士。

『摂陽奇観』 浜松歌国 天保4年成 1833(没後109年)

墳墓ハ谷町筋寺町法妙寺にありまた久々知広済寺の過去帳に法名あり
阿耨院穆矣日一具足居士 寿七十歳
この戒名は近松在世より設をきたるとぞ辞世二首詠草中に見ゆ

『声曲類纂』 斎藤月岑 天保10年9月 1839(没後115年) (長門生誕説)

享保九年甲辰十一月廿一日七十二才にて身まかりぬ。大坂八丁目寺町法妙寺に葬す

『京摂戯作者考』 烏有山人(木村黙老) 伝記 嘉永2年以後 1849(没後125年) (長門生誕説)

享保九年辰十一月廿一日、(種員曰、西澤一風子が外題年鑑には、平安堂の物故同年同月廿二日とあり、)七十二歳にて身まかりぬ、大坂八丁目寺町法妙寺に葬むる

『私の近松研究』 木谷正之助(1877-1950)

従来の通説によると、久々知広済寺の墓を正当とし、大阪法妙寺のは其模倣だと言ふことになつてゐた


参考資料

同志社国文学 第三十号(昭和六十三年三月二十日) 近松墳墓考 向井 芳樹

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