インド四大仏跡を巡る旅

〜 ルンビニ 〜


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鮮やかな色彩のバンガロー(国境) インド側国境
INDIAN BORDER ENDS WELCOME TO NEPALE

パスポートコントロールの間にレースを売りに来る 落花生売りの勤勉な少年
キャンディーをねだる女の子たち M
ヒマラヤ山脈の銀嶺が見える 菜の花畑の奥にもヒマラヤ(残念ながら写真では見にくい)
ルンビニの入り口 地図
ベナレスで購入したシルクの作務衣で行脚 ユネスコ世界遺産の標識
テンポラルな白い建物の中で発掘が行われている 建物内部の遺跡
お釈迦様が誕生された場所 その目印の石(Marker stone)

外にも遺跡 必要な方は解説を読んでください
アショーカ王の石柱 銘文
法味言上 沐浴池 摩耶夫人は出産前に沐浴した

沐浴池の端にある神々しい菩提樹 たもとに老僧が
彼の息子さんは仏教僧侶 本尊は何だろう?
派手に旗が掛けられている チベット仏教?

遺跡に囲まれている ケシの花?
入り口 ユネスコの案内板
門前?の土産物屋 しつこさは全くない どこの寺院だっけ?
政情不安のなか警備する兵士 お坊さん?
何の看板だろう 気になる 国境警備の兵士
国境通過を待つトラック群 のどかな牛車
ドライブイン 豪快なチャイの入れ方
愛想の良い牛車の人たち オート三輪

(C)2005 Eisai Ishibushi ALL RIGHTS RESERVED
DATA: Nikon D70 ,  AF-S DX Zoom Nikkor ED 12〜24mm F4G(IF),
AF-S DX Zoom Nikkor ED 18〜70mmF3.5-4.5G(IF) , Ai AF Zoom Nikkor ED 80〜200mm F2.8D
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【解説】

ルンビニ

 お釈迦様が生まれた場所。ネパール領にある。お釈迦様の四大仏跡の一つ。

 アショーカ王は即位後20年目にこの地を巡礼し,釈梼の生誕の地を記念して石柱を建てている。7世紀にここを訪れた玄奘三蔵は石柱が落雷のために中ほどから折れていたことを伝えている。



【旅行記】

●2/21(月)

クシナガル
早朝: ルンビニへ
午前: 釈尊生誕の聖地

ゴラクプール 22:40 発 汽 車 鉄路: デリーへ(Gorakhpur Exp.)

【車内泊】

ルンビニーへ出発

早朝、クシナガラを出発しゴラクプールを経由してルンビニーへ向かう。ゴラクプールを経由してネパール国境へ向かう。

政情不安のネパール

 ネパールは王権復興を願う王室の政変で政情不安である。日本出発前からインターネットが禁止されたりするなどいろいろなニュースを耳にした。現地でも戒厳令が布かれているというニュースを耳にした。それよりも問題は政変を活動の好機としてテロ活動を行うという毛沢東主義者(マオニスト)に遭わないかというものであった。幸い問題ないという旅行社の判断で予定通りルンビニーに向かう。後日談であるが、私達がルンビニを訪れる2〜3日前に当地で銃声がしていたとか・・・。知らぬが仏。

国境通過

 インドからネパールへの入国は比較的スムーズだった。何十台ものトラックが越境待ちをしていたがバスは優先的に通行できるらしい。国境のゲートまでは並ぶこと無しに到達した。
 それから我々のバスの越境には20〜30分ほどを要したのではないかと思う。その間、レース売りのおじさん達や落花生売りの少年が車窓越しに商いを始める。レースは数十ルピー。同行の女性達が値切りを楽しんで買っていた。落花生は5ルピーだった。子供達が寄ってきたので、バスの窓から文房具や飴などを窓から子供達にあげた。老年の物貰いが来たが無始した。この老人は落花生売りの少年の落花生を勝手にとったりしていた。この老人が売り上げ金をくすねないか少年が警戒していたのを見て取れた。

厳戒の国境

 ネパール国境は厳戒態勢だった。インド側はさほどのことはないが、ネパール側は水色系の迷彩服を着た兵士を数十名見かけた。パスポート・コントロールのあと、国境から100mほどのところでバスはもう一度停車させられた。2〜3人の兵士が運転助手と話をしている間、後ろで別の兵士が自動小銃を構えている。彼の右手人差し指はしっかり引き金にあてられていた。

 といっても、地元の人々は簡単なチェックだけで行き来しているし、国境地帯での物売りも盛んである。この厳戒態勢がどの程度のものかはわからない。

 さて、ネパール国境を無事通過したが、景色はほとんど変わらない。いや、まったく変わらなかった。数キロ直進して左折すると、しばらく直進した。途中二股に別れるところがあったがほぼ直進だった。

ヒマラヤが見える

 ネパール国境にさしかかる前から見えていたが、ヒマラヤ山脈の雪山がいくつか見えた。わずかに霞んでいてハッキリは見えない。しかし、初めて見るヒマラヤに感動した。

ルンビニー園に近づく

 ヒマラヤみ見とれたり、林を通過したりしていると、やがて進行方向右奥に白い仏塔が見えてきた。日本山妙法寺の建てた仏塔らしい。さらに近づくと植林したばかりの林が現れた。是は最近整備されたもので昔はなかったらしい。やがて、右側にルンビニー園の入口が見える。

 以前はバスで入ることができたそうであるが、現在はここから500mほど歩かなくてはならない。リクシャーが数台待っている。
 ルンビニー園の静謐さを護るために車を入れないのか、リクシャーを引かせて地元にお金を投下するための策か。

行脚

 我々はここを唱題行脚してルンビニー園の釋尊生誕地に向かった。乾期のためか水の少ない大きな池を右側に見ながら、鉄筋コンクリートの建物まえまで行った。

お釈迦様の御生誕の地の様子

 ここは本来、もう少し荘厳な堂宇が建っていたそうであるが、現在は発掘のため写真のような建物になっている。他の仏跡と同じくレンガが積み上げられている。およそ、25m四方の遺跡が屋根で覆われている。その中に、お釈迦様誕生の目印となる石があり、その石がガラスで覆われていた。

 また、このお堂の後ろ側にはアショカピラーがある。その石から数メートルのところだ。

 お堂の中にいた中年のお坊さんが案内をして下さった。お堂の右側の沙羅の木を示して、摩耶夫人は沙羅の木に・・・してお釈迦様を産まれたという説明があったと思う。実際の沙羅の木であるはずはないが、その落ち葉を拾った。

 そしてアショカピラーの前でプージャーをしましょうと、パーリー語のガータ(偈頌=韻文)を呼んで下さった。私たちも一読唱題した。私は私の気持ちとして10ドルを布施したら、周りの人たちも布施した。すると、今度はお堂の左奥にあるガート(沐浴場)から水を汲んできて下さって頭につけろと言われる。そのとおりにした。
 やがて、そのガートの奥の大きな菩提樹の下に老師をみつけた。添乗員さんによると、この老師はバラモンで、その息子さんが私たちを案内した僧侶だとのこと。息子さんは出家して仏教の僧侶になっておられるらしい。

老僧との対話

 しばらく自由時間を戴いたネパール寺院とチベット寺院があり参詣した。ネパール寺院を参った。ピカピカ点滅する電球に飾られていて、日本人の荘厳の感覚とは違う。御本尊の釈尊像の右側に座っておられる長老が中に入って参りなさいという。合掌してパーリー語の三帰依文を唱えた。

 ブッダン・サラナム・ガーチャーミ (仏に帰依します)
 ダールマン・サラナム・ガーチャーミ (法に帰依します)
 サンガン・サラナム・ガーチャーミ (僧伽に帰依します)
 南無妙法蓮華経


とジャパニーズ・パーリーで唱えると、「よくちゃんとお唱えなさった」というお言葉を英語で戴いた。右腕に毛糸みたいなものを巻いていただき、少し老師とお話をした。何でも、老師は来日されたことがあり、奈良には大仏様がおられ巨大な伽藍があったというような話をされていた。私も奈良には鹿がたくさんいて日本のサルナート(鹿野苑 Deer Park)ですと申し上げた。そのようなとりとめのない話をした。

生きた仏教

 感じたことはここの仏教は生きていると思ったことである。お釈迦様の成道の地、ブッダガヤもしかり。入滅の地、クシナガラもしかりである。当然といえば当然である。

 しかし、中国やシルクロードあるいは南インドで生きた仏教を見る機会には恵まれなかった。形骸化した仏教。御利益信仰と死者儀礼に傾き、苦滅という本質を忘れた仏教。イスラムに滅ぼされて遺跡となった仏教。そうして弱体化した仏教が近代思想によって骨抜きにされ、打ちのめされている。しかし、根絶やしにはなっていない。そう思った。

 イスラム教は近代合理思想を拒否して生き延びようとしている。キリスト教は掲示宗教である以上、科学との衝突がさけられない。欧米でおこったものの考え方が世界を席巻しようとしているが、そのことで科学も発展し豊かになった反面、さまざまな問題を提供している。家庭が崩壊し、学校は荒廃し、倫理道徳は表向きだけの小悪魔が充ち満ちている。それぞれが我を通し、煩悩を野放しにして、貪り怒り自らの無知に気づかず、結局自己を苦しめ周囲を苦しめている。それを救えるのはお釈迦様の教えである。

 仏教を弘めるのが目的ではなく、仏教によって人々を苦しみから解き放つのが目的である。その仏教の本質を正しく解りやすく伝えることそれがその目的に対する目標である。
 今般の四大仏跡参拝を終えてそんな感慨にふけった。

インド再入国

 さて、仏跡参詣はすべて修了し、ここからは帰途である。

 国境までもどりインドへ再入国する。これだけ短い時間のネパール入国であるが、パスポートにはちゃんと査証のハンコがあり、Arrival Departure の記載があり、手書きの記載がなされている。

 数十人の兵士が国境を護る中、国境のゲートに至る。また20〜30分かかったようだ。疲れているのか心配しているのか知らないが添乗員さんの顔が険しいのが少し気になった。ネパール側を通過するとインド側に入る。そうすると車内に税関職員が乗り込んできた。手荷物検査こそなかったが、各座席を鋭い目で見て回り、客席や運転席の荷物入れをざっと検査していた。麻薬密輸取り締まりなのか、共産ゲリラの潜入逃亡を取り締まっているのか、少し緊迫した空気だった。欧州統合前に何度か国境を越えたことがあるがこんな緊迫した雰囲気は初めてだった。

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