密教とは
密教が成立し体系化されたのは、お釈迦様の入滅後1000年以上も経た7世紀のことである。密教はそれまでの顕教、すなわち明瞭な言葉で説く通常の仏教に対し、非公開な秘密の教義と儀礼を、師匠から弟子へと秘密裏に伝え持とうとする仏教である。
神秘主義を好むインドにあって、当初の仏教は神秘主義を排除したといえる。ところが、この密教はインド古来のバラモン教の神秘主義的な要素を仏教に取り入れたものだ。秘密裏の相承形態もバラモン教の特徴である。
歴史的背景
初期の仏教においては神秘的なものを排除しつつも、神々による不思議な力というものは認めていた。
やがて、初期大乗時代に成立した『般若経』『法華経』などにも一部に呪文が登場する。2〜3世紀頃になると呪文を中心とする単独の除災経典も成立する。6世紀までのこれら密教への発展過程ととらえるむきもある。
しかし、何故インド仏教は密教化しなくてはならなかったのか。
クシャーナ王朝(1世紀半ば〜3世紀前半)までのインドでは仏教は盛んだった。その時代は東西貿易でローマ帝国より莫大な金が流入して経済は栄えていた。
しかし、中央集権的にインド全体を統一したグプタ王朝(320‐550年頃)はヒンズー教を国教にしたので、仏教はそれなりの勢力を保持しつつも苦難の時代を迎える。
さらに、西ローマ帝国の衰退と滅亡(476)により東西貿易が衰退し経済は衰退した。それにともない、仏教を支えた商業資本とそのギルドは衰退した。相対的に王権が強くなり、宗教上もその統制力が強くなる。
都市のギルドの弱体化によって、相対的に農村に基盤をおくヒンズー教が優勢となり、やがて圧倒的となる。国王も彼らバラモンの意見を聞かざるを得ない状況となり、あるいは積極的にバラモンを利した。
ヒンズー教が圧倒的になり仏教はその影響を受けた。また、ヒンズー教が圧倒的な社会となったため、仏教には適応策が必要となった。そして、ヒンズー教に妥協し、その民間信仰を受け入れざるをえなくなった。
インド仏教滅亡へ
仏教はヒンズー教の一派のタントリズム(Tantrism タントラ教)の秘密の教義体系を受け入れた。それが密教となる。密教は呪文(真言・陀羅尼)、手の印相、曼荼羅を用いて修行の目的を達成しようとした。教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えない特徴をもつ。これはヒンズー教化した仏教である。その結果、ヒンズー教の要素が増えて、ヒンズー教との区別がつかなくなってきた。それはインドで仏教が滅亡する致命的な原因の一つとなってしまう。
7世紀に至って『大日経』『金剛頂経』といった体系的な密教経典が成立する。そして、宗教体験の絶対世界を象徴的に表現する曼荼羅が生み出される。それ以後のインド仏教は密教が盛り上がるのであるが、12世紀末頃を最後にインド仏教は消滅してしまう。
イスラム教により滅ぼされたということも理由ではあるが、仏教が密教化したこともインド仏教滅亡の大きな理由だ。
仏教の密教化は、言い換えれば仏教のヒンズー教化である。ヒンズー教の側でも仏祖のお釈迦様をクリシュナ神の化身として崇めたりするものだから、仏教の存在意義がなくなったのではないだろうか。
密教の問題点
密教は素晴らしい仏教である。歴史的には仏教発展の最終モデルともいえなくはない。しかし、その密室の相承や秘密の教義は時として危険な教義の発生や儀礼を実践することも可能にしてしまった。
密教はインドでおこったもののお釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの成立である。仏教が発展した最終モデルであると同時に、お釈迦様から最も遠い教えであることは事実であろう。
展開には良い面と悪い面が有ると思う。良い面は、お釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの仏教であっても取り入れるべきである。しかし、良くない面は捨てなくてはならない。
そもそも、歴史上のお釈迦様は秘密の一子相承などしただろうか。それは長男か信頼できる弟子にしか相伝しなかったウパニシャッドの哲人の相承形態ではないか。
歴史上のお釈迦様は秘密の儀式や修法などしただろうか。お釈迦様は伝統的なインドの古代宗教にとらわれず、自由な思索によって、生きるうえで避けて通れない苦しみという問題に対して教えを説かれたのである。その仏教の原点にたちもどって、密教を検証しなくてはならない。
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