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日蓮宗の本山

日蓮聖人の霊跡

日蓮宗の総本山


身延山 久遠寺 (みのぶさん くおんじ)

 山梨県南巨摩郡身延町にある。日蓮宗の総本山。文永11年(1274)6月、日蓮聖人が領主南部実長の寄附により草庵を構えたことにはじまる。以来、日蓮聖人は晩年9ヶ年を過ごされた。弘安5年9月(1282)体調を崩されて下山されるが、病は篤く同年10月13日に池上(東京都大田区)にて遷化(逝去)される。遺骨は身延山に埋葬されている。

[場所] 山梨県南巨摩郡身延町身延3567

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本山  〜日蓮聖人の霊跡〜


小湊山 誕生寺 (たんじょうじ)

 

日蓮聖人生誕地に建つ霊跡

  通称は小湊(こみなと)誕生寺。日蓮聖人は貞応元年(1222)2月16日、漁師であった父「貫名次郎重忠」、母「梅菊」の間に誕生した。

[場所] 千葉県安房郡天津小湊町小湊183

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岩本山 実相寺 (いわもと じっそうじ)

日蓮聖人が代表的著作『立正安国論』を撰述した霊跡

 通称岩本実相寺。実相寺は鳥羽法皇の勅願によって久安年代(1145頃)に開創された寺院で、日蓮聖人の当時は天台宗の名刹であった。最盛期には敷地が一里四方だったという。日蓮聖人は実相寺の経蔵で『立正安国論』を撰述し鎌倉幕府に提出した。
 日蓮聖人が身延山入山の後、実相寺は日蓮宗に改宗した。

[場所] 静岡県富士市岩本1847



千光山 清澄寺 (せいちょうじ)
「日蓮聖人出家」「立教開宗」の霊跡

 宝亀元年(771)に開創、中絶後、慈覚大師円仁が再興したと伝わる。日蓮聖人在世の頃は天台宗であった。日蓮聖人は天福元年(1233)12歳で清澄寺に登り、16歳で道善坊を師として出家し行学を積まれた。

 後に日蓮聖人は、鎌倉を手始めに比叡山延暦寺を中心とした遊学をされ、法華経持経者としての自己を確立され、清澄寺に帰られる。建長5年4月28日、清澄山の旭が森より立ちのぼる朝日にお題目を唱えられ立教開宗された。そして、持仏堂の教主釋尊を背にして、法華信仰の強調と浄土教(阿弥陀仏信仰)を批判されたのであった。ところが、当時の清澄寺には阿弥陀信仰が盛んであり、日蓮聖人は清澄寺に居ることはできなくなった。 清澄寺は後に真言宗となったが、現在は日蓮宗に帰属する。

[場所] 千葉県安房郡天津小湊町清澄322-1

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海光山 佛現寺 (ぶつげんじ)


日蓮聖人の「伊豆法難」の霊跡

 「立正安国論」を時の北条政権に提出したことに起因して、日蓮聖人は伊豆伊東に流罪となった。その頃、当地の地頭である伊東八郎左右衛門祐光は熱病にかかっていた。日蓮聖人の祈祷により病気が治り、喜んで日蓮聖人に海中出現の立像釈迦牟尼仏を贈った。日蓮聖人はこの立像釈迦牟尼仏を生涯身から離さなかったそうである。その、仏像出現の岸に建立されたのが佛現寺である。開山は六老僧日昭上人。

[場所] 静岡県伊東市物見が丘2-30


妙隆山 鏡忍寺 (きょうにんじ)

日蓮聖人の「小松原法難」の霊跡

 日蓮聖人は12年ぶりに故郷である小湊に帰られ、母を尋ねて孝養を尽くされた。文永元年(1264)11月11日、天津城主の工藤吉隆の招きで華房より天津に向かう道中の小松原で待ち伏せしていた、念仏者である東条景信(かげのぶ)の手勢によって襲われた。
 この法難で鏡忍坊日暁は討ち死にし、急を知って駆けつけた天津城主工藤吉隆も毒刃に倒れ、日蓮聖人も眉間に3寸の傷を負った。その霊地に建つのが小松原の鏡忍寺である。
 日蓮宗や法華宗など日蓮系宗派では、お会式から立教開宗会までの期間に日蓮聖人像に綿帽子を被せる。これは、小松原法難に於いて、九死に一生を得たものの眉間に傷を負った日蓮聖人が老婆に綿帽子を供養されたということにに因む習慣である。

[場所] 千葉県鴨川市広場1413


寂光山 龍口寺 (りゅうこうじ)


日蓮聖人の「龍口法難」の霊跡

 文永8年9月12日、日蓮聖人は鎌倉幕府に捕らえられ、龍の口(たつのくち)の刑場で斬首(死刑)されそうになった。日蓮聖人の首を斬ろうとしたとき、奇跡が起こり斬首の刀に雷が落ちて刀が折れて一命を取り留めた。やがて、日蓮聖人は佐渡島への流罪となる。

[場所] 神奈川県藤沢市片瀬3-13-37


明星山 妙純寺 (みょうじゅんじ)

日蓮聖人が佐渡島へ流罪となるまでの間1ヶ月滞留された霊跡

 通称、星下り。龍口法難の翌日文永8年(1271)9月13日に「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかり・・・」『種々御振舞御書』(※真跡曽存)と奇跡が起こったと伝わる。「星くだりの御霊跡」として有名。

※『種々御振舞御書』は日蓮聖人真跡が身延山にかつて存したが現存しない。なお、部分的には真跡によらず写本によっている。真跡になかった部分については、日蓮聖人の撰述ではない(偽書)との有力な説がある。

[場所] 神奈川県厚木市金田295


塚原山 根本寺 (こんぽんじ)

日蓮聖人の「佐渡流罪」の霊跡

 文永8年、龍口の刑場で九死に一生を得た日蓮聖人は佐渡流罪の身となった。そして、佐渡流罪の当初に日蓮聖人のおられた場所が塚原三昧堂と呼ばれる場所で、その地にあるのが根本寺である。

[場所] 新潟県佐渡郡新穂村大字大野1837


妙法華山 妙照寺 (みょうしょうじ)

日蓮聖人が佐渡流罪のときに住まわれた霊跡

 日蓮聖人は文永8年(1271)に佐渡島に流罪となり、当初は塚原三昧堂に居られた。しかし、翌年夏ころには妙照寺のある一谷(いちのさわ)に移られた。当地では、大曼荼羅本尊の図顕、日蓮聖人の代表作の一つ『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』が撰述されている。
 流罪の身の日蓮聖人を自邸で預かった一谷入堂は熱心な念仏者であったが、のちに夫婦そろって教えを信奉するようになる。

[場所] 新潟県佐渡郡沢田町大字市野沢459


徳栄山 妙法寺 [小室山] (みょうほうじ)

日蓮聖人と善智法印の法論の霊跡

 もともと真言宗の名刹であった。当時の住持、善智が日蓮聖人と法論をして屈服し日蓮宗となった。しかし、日蓮聖人との法論に破れた善智は日蓮聖人を亡き者としようと毒入りの粟餅をたべさせようとするが、白犬がその毒餅を食べたためにばれてしまう。善智は心より改心し、日蓮聖人に帰依するようになった。

[場所] 山梨県南巨摩郡増穂町小室3063


長崇山 本行寺 (ほんぎょうじ)

日蓮聖人御入滅の霊場

 通称は大坊(だいぼう)。日蓮聖人直檀(直接の檀徒)たる池上宗仲の館の跡で、日蓮聖人入滅の霊場として東京都の史跡に指定されている。

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[場所] 東京都大田区池上2丁目10-5


長栄山 本門寺 (ほんもんじ)

日蓮聖人御入滅の霊場の大本山

 池上(いけがみ)本門寺。日蓮聖人の檀越(だんのつ)池上氏の建立によるもので、日蓮聖人入滅の間近である。開創は弘安6〜7年(1283〜84)ごろと考えられる。本門寺に安置されている日蓮聖人の坐像は、日蓮聖人の七回忌のおりに弟子や檀越によって造立されたもの。右手には日蓮聖人の母親の毛髪を拂子(ほっす)として持たせてある。
 初代の住職は六老僧(日蓮聖人の選ばれた直弟子の代表者6人)のひとりである日朗聖人である。

[場所] 東京都大田区池上1-1-1

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