日本仏教

仏教伝来

 日本への公的な伝来は宣化3年(538)、百済の聖明王が釈迦仏像と経典その他を朝廷に献上したときとされる。ただ、6世紀初めから一部の渡来人やその子孫によって仏教は信仰されていたと考えられる。
 仏教を取り入れようとした蘇我氏と渡来人系の氏族により、飛鳥に根付いた。排仏の物部氏の滅亡を機に、用明天皇、推古天皇とその摂政の聖徳太子の時代に、飛鳥と斑鳩を中心に仏教は興隆してゆく。飛鳥には法興寺が建立され、聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』を注釈した『三経義疏』を著したと伝わる。

 推古2年(594)には三宝興隆の詔が出されて、これを契機に豪族が競って寺を建てた。聖徳太子の仏教への造詣の深さもさることながら、仏教の教えによって政治的な志向をしたのではないだろうか。また、推古天皇はその在位中、自ら寺を建立することも、宮中で仏事をなすこともなく、仏教に対して傍観的態度で終始した。
 天皇が建立した寺院は舒明天皇による百済大寺建立(639年)が最初である。それに続いて、天智天皇、天武天皇、文武天皇の時代に次々と仏教寺院が建立され、国家的な仏教行事も行われるようになる。この時代になると、仏教は氏族によって受容された段階から、国家仏教として歩みだした。

奈良仏教

 この時代は国家仏教の性格をますます強めた。官寺を中心に学問や国家鎮護の祈祷が盛んに行われた。なかでも、聖武天皇は国分寺造営の詔(741)、大仏造営発願の詔(743)を行った。
 国分寺は国ごとに僧寺と尼寺から成り、僧寺の塔には読誦すると四天王がその国土を擁護すると説かれた護国の経典『金光明最勝王経』が安置され、尼寺では国土の災害を除去し、女性成仏と庶民の滅罪のための経典として『法華経』が読誦された。
 この時代は写経が盛行した。多くの写経生が経典を書写した。中国の三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の六宗派(南都六宗)が留学生などによってもたらされ、奈良の都に東大寺、西大寺、法華寺、新薬師寺、唐招提寺などの大寺院が建立された。
 ただ、これらの国家仏教は一般民衆の信仰とはかけはなれた存在だった。行基菩薩などの私度僧らが民衆へ仏教信仰を弘めた。

平安仏教

 平安遷都は、奈良の官営の大寺院に費やされる膨大な国費や増大する寺領荘園、既成仏教教団の腐敗堕落などへの対策の面もあった。遷都に際しては寺院の移築が慣例であっても、京都への遷都ではなされなかった。
 そのようなところへ、遣唐使の最澄(天台宗)・空海(真言宗)が活躍する。都の中にあった奈良仏教に対して、最澄は比叡山、空海は高野山などと主要な寺院が山岳におかれた。政治に従属する都市の仏教から、政治に一定の距離を置いた聖域に寺院を本拠となる寺院を建立した。また、最澄も空海も、そのもちかえった法華仏教や密教は一切皆成の仏教で、一切の者がすべて仏に成れるという仏教で、その意味でも既成の奈良仏教とは異なっていた。

● 最澄

 最澄は中国の天台山などに留学し、日本に天台宗を開いた。法華経中心の天台宗を日本にもたらし、比叡山延暦寺を開き、以来日本の仏教研鑽の中心地となる。そこでは多くの鎌倉仏教の祖師達を輩出する。また、最澄の業績には独自の戒壇の得たことがある。本来、僧侶になるための受戒が必要であるが、国家により運営された大寺院にそれが委ねられていた。最澄の戒壇の問題は大乗仏教と部派仏教(小乗)の戒律の問題とされているが、国家権力に緊縛された戒壇を、仏教側の自主的管理に取り戻したという意義がある。比叡山大乗戒の独立は、最澄の没後7日目に勅許された。
 天台大師智顗、伝教大師最澄の系譜であり、天台法華の系統である日蓮系教団の一部が国立の戒壇に拘るのは本末転倒ではないか。

● 空海

 空海は、嵯峨天皇に重用され弘仁7年(816)高野山を開創、弘仁14年(823)東寺を給付された。空海の真言密教は貴族や地方の豪族や民衆のなかに急速にひろまった。最澄も入唐時に真言の相伝を受けていたが、最澄の留学した天台山は法華仏教の本拠地であっても都の長安からほど遠く、また入唐期間8ヶ月だけの留学期間では新しい仏教である密教(インドでも7世紀に成立)奥義を修学することは不可能だったと考えられる。天台宗では、円仁や円珍らが入唐(唐に留学)して更に密教を取り入れ、密教色が濃厚となった。

● 入末法

 さて、平安時代には入末法という仏教の問題がある。末法というのは、釈尊の教えは伝わっていても、それを行じる人もなく、それによって悟りを得る人もない荒廃した時代となるという。日本では釈尊入滅後2000年で末法に入ると考えられた。その年が、永承7年(1052)であった。この末法思想と当時の飢饉・疫病・地震・洪水が阿弥陀仏浄土信仰が人々の心を強くとらえて弘まってゆく。

鎌倉仏教

 仏教が民衆の信仰として確立したのがこの時代だ。全体に共通することは祖師が比叡山での遊学経験をもつことである。あまり言及されないことであるが、各祖師はそれぞれ天台法華仏教のかなりの知識を持っていると考えられる。

● 浄土系

 浄土宗開祖の法然(1133-1212)は阿弥陀仏のみを信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、貴賤上下や男女の区別なく西方極楽浄土への往生することを主張した。

 浄土真宗開祖の親鸞(1173-1262)は師匠法然の教えをさらに徹底し、他力本願と悪人正機を説いた。半僧半俗で妻帯もした。全国を巡って東国辺地の農民や下級武士に法を説いた。ただ、浄土真宗が現在のように弘まるには蓮如の登場を待たなければならない。

 時宗開祖の一遍(1239-89)は、南無阿弥陀仏による往生の鍵は信心、浄不浄、貴賤男女に関係なく、すべてを放り投げて「空」の心境になって南無阿弥陀仏と一体になり縁を結ぶことにあると説いた。

● 日蓮系

 日蓮(1222-82)は天台宗の教学を基盤としながら、その『法華経』を中心とした教学を発展させ、南無妙法蓮華経の題目を唱導した。詳細は当ホームページの法華仏教にて。

● 浄土系日蓮系の共通点

 禅宗系を除く鎌倉仏教の共通点は一つの仏、一つの経典、一つの修行法を厳格に選び取り、その他を徹底的に排することにある。また、貴賤・男女・貧富の区別なく悪人さえもの成仏を認めることがあげられる。そして戒律を課すこともせしなかった。

● 禅系

 臨済宗(日本)開祖の栄西(1141-1215)は鎌倉幕府の帰依を受けた最初の禅僧である。宋への留学は2度にわたり臨済宗黄竜派の禅と戒を受けた。インドへの遊学も志したが断念した。臨済宗は幕府の保護をうけ鎌倉や京都に唐様建築による大寺院を建立し、中国から禅僧を迎えてた。

 曹洞宗(日本)開祖の道元(1200-53)は宋に留学後、只管打坐の禅を日本に伝えた。越前の永平寺を中心にして、おもに地方武士層に教線をのばした。
 この頃の中国仏教は禅と浄土仏教に収斂されつつあった。そのなかでも、禅宗は中国の異国の新しい香りが漂う新しい仏教として、あるいは文化として、この時代に台頭してきた武士に受け入れられた。

室町時代

 鎌倉仏教の各宗旨が全国規模の大教団になったのは室町時代になってからである。


● 禅系

 中国仏教は禅宗と浄土宗に収斂していった。そんな中国に留学した禅僧や渡来僧は中国の様々な文化を日本にもたらし、その異国情緒は封建時代を担う武士達にに珍重された。その流れをくむ五山の禅僧は、室町時代以降に幕府と密接な関係を結び、政治や外交の顧問役として重要な役割を果たした。また、文化にも大きな影響を与えた。

● 浄土系

 本願寺第8世の蓮如(1415-99)は弱小であった教団を強大な浄土真宗へと拡大した。教義を平易に著した『蓮如仮名法語』、講中による布教などにより、多数の信徒を獲得した。

 浄土真宗が爆発的な拡大をとげると、社会的権力も得ることになる。そこへ、政治的軍事的な圧力や、宗教的な圧力が加わるにいたり、その反撥として一向一揆がおこる。室町末期から戦国時代にかけての120年間、その勢力は畿内の一大軍事勢力となる。

● 日蓮系

 日蓮系教団も東国数カ国に流布していただけの小さな教団であった。そこへ日蓮の孫弟子にあたる日像(1269-1342)が京都を布教し妙顕寺を建立した。妙顕寺は後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を得て、そのことを突破口に日蓮宗は京都をはじめ全国に弘まる。この成功に各派が競って、京都に進出し布教の実をあげた。なかでも、日親(1407-1488)は厳しい弾圧をものともせず勇猛な布教をして本法寺を建立する。やがて、京都の町衆の過半数が日蓮系の信仰をもつようになる。

江戸時代

● 寺請制度

 江戸時代になると、キリスト教や日蓮宗不受不施派が禁制となる。そのことを徹底させるために、領民を寺院の檀家にして、その寺院にキリスト教や不受不施派でないことを証明させる制度が寺請け制度である。先祖供養をしない者、寺に参らない者などはキリシタンとみなすということもあった。現代の固定された寺檀制度はここに始まる。

 一見、寺檀関係が確定して寺院の収入が安定して仏教保護政策のようだが、他宗派の寺の檀家への布教や新たな寺の建立が禁止されたりして布教活動が著しく制限された。また、このような寺檀制度による寺院収入の安定は近代や現代の仏教形骸化の大きな原因となっている。

明治以後

● 廃仏毀釈

 明治維新のとき、神道の国教化にともない神仏分離令が発布され、寺檀制度のぬるま湯に浸かっていた日本仏教界は大きな打撃を被った。宮中から一切の仏像や仏具は取り払われ、天皇家と仏教は完全に無縁となった。不思議にも戦後の現代でもそれは続いている。
 また、寺院が廃止され、あるいは寺院の土地の一部が摂取されて神社になった。

● 僧侶の肉食妻帯

 江戸時代までは寺院法度によって、浄土真宗以外の僧侶は肉食と妻帯は原則的にしなかった。ところが、明治政府による「肉食妻帯勝手なるべし」とのおふれにより、現在では一部の宗旨を除き肉食妻帯をするにいたる。

 もちろん、戒律に厳しい南方仏教も供養に出された肉は食べる。供養されたものは何でも用いるからである。妻帯に関しては、チベットやネパールの僧侶も妻帯をしてい派がある。日本でも、古代から聖とよばれる半僧半俗の僧侶の存在はあったし、浄土真宗の僧侶も妻帯をしてきた。

 ただ、経典や先師先哲の典籍による十分な教学的な検証をして、肉食妻帯をしたのかという問題がある。いや、そのことよりも俗人とかわらぬ生活をして布教をするには相応の緊張をもととした自覚そして精進は不可欠であるが、実際はどうなのであろう。

● インド仏教学

 明治以後に日本にもたらされた学問で、教学的に大きな問題を提供したのがインド仏教学であろう。中国仏教と漢訳の文献をもとに成立している日本仏教であるが、そこへインド原典を学術的に研究した学問が入ってきたのである。

 釈尊の生没年の問題(末法思想への影響)、大乗仏教非仏説、中国撰述経典、サンスクリット原典と漢訳文献の相違点などがあり、各宗旨の教学と矛盾が容易に指摘できる。それをどう会通するのかを明快に説明する必要があろう。(当ホームページでは会通の試みをしているが) このことをおざなりにすることは、布教者の志気に大いに影響する。のみならず、既に伝統仏教衰退の大きな原因となっていると私は考えている。


余談1 いろは歌

 いろは歌は、『大般涅槃経』(大正新脩大藏經 1巻204頁c)の

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽

(意味)
もろもろのつくられたものは無常である。
生じては滅びる性質のものであり、
生じては滅びる。
それらの静まるところが安楽である。

を日本風に詠んだものである。空海(774-835)作とされてきたが、最近の研究では否定されている。

色は匂へど散りぬるを (諸行無常)
我が世たれぞ常ならむ (是生滅法)
有為の奥山今日越えて (生滅滅已)
浅き夢見じ、酔ひもせず (寂滅為楽)

余談2 彼岸

 彼岸は日本独自の行事である。彼岸という文字は、悟りのか彼の岸という意味。迷いのこの世界を此の岸になぞらえ、悟りの世界を彼岸というのである。その悟りの世界へ到ることを到彼岸(波羅蜜 paramita)という。
 彼岸の行事は、春分の日、秋分の日(お中日)を中心にした一週間の行事である。春分や秋分の日に行うことは、古代からの太陽を崇拝する信仰に関わりがあるかも知れないとのこと。一週間にわたる仏事を年に2度行うことは、『日本後紀』『延喜式』などにみえるそうだ。平安時代から行われ、一節には聖徳太子の頃からという。江戸時代にいたっては年中行事として、寺院に参詣し、墓参りをする。
 彼岸は波羅蜜であり、波羅蜜には六波羅蜜がある。布施、持戒、忍辱、禅定、精進、智慧の6つを中日の前後3日ずつに配当し、その徳を積み。中日は先祖供養をするという説もあるが、後からの講釈かもしれない。昼と夜と同じ長さであるから仏教の中庸の精神に通じるとか、年中きちっとした修行はできないから、せめて暑くもなく寒くもないこの時期の一週間くらい修行しようとかいう講釈もある。
 日本人としては、古代からもたらされた伝統行事を継承し、先祖を大切にする日としたい。仏教徒としては、怠けがちな仏教の行学を反省し精進について考え直す日々としたい。

苦滅の仏法 その本質へ