日本の天台宗の密教化にともない、口決(数少ない選ばれた者に密か
口伝すること)や秘伝など大切な法門の口伝主義が発生した。とくに、平安末期の院政時代から鎌倉末期には、比叡山の僧風が堕落し、このような口伝主義が重視され、対して経・論などによる教相主義(文献主義)が衰退した。それにより、伝統的な経典や論書に説かれていることよりも、秘密裏の口伝により伝えられることが重視される。こ
の教相を離れ、秘密裏の口伝を重視することで恣意的な解釈も行われ、口伝がさらに口伝を生んで教義の変遷を起こしてしまう。しかも、この本覚思想の門戸を閉ざした秘密主義と口伝主義は、先師に仮託した偽書や相伝を捏造することも厭わなかった。
中古天台本覚思想は、現実を絶対肯定し、現実の凡夫の何気ない振る舞いそのものが仏の顕現とみなされる。凡夫の本来覚体(本来から悟りをもっている)を説く。極端な思想であるが、部派仏教(小乗仏教)にも客塵煩悩というものがあり、『涅槃経(大乗)』『維摩経』など如来蔵思想を説く中期大乗の経典もある。しかし、教義もさることながらここで問題としたいのその前述の相伝方法と教相軽視である。
天台法華の末裔の門流に、この影響をもろに受け教義を変遷させてしまった門流もある。ともかく、彼らだけでなく、天台法華の法灯を引き継ぐ宗旨は、天台大師、伝教大師最澄、宗祖、派祖の文献学的に真撰として間違いのない文献をもとに自らの宗義を検証するべきだと思う。