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近松門左衛門

広済寺との縁

 

広済寺開山に尽力して広済寺檀家となった近松門左衛門

 広済寺はもともと禅宗の古刹であったが、南北朝時代直前の元弘3年(1333)に戦災を被って長らく荒れ寺になったまま放置されていたようである。それを381年後の江戸時代、正徳4年(1714)に再興したのが、日蓮宗の日昌上人(1667-1738)である。その再興開山に協力した方々の中に近松門左衛門がいる。

広済寺の立地条件

 広済寺は現在でこそ阪神地区という都会にあるが、江戸時代は田園に囲まれた農村だったに違いない。昭和中期でも田圃と久々知の集落に囲まれた環境だった。どうして、こんなところで近松門左衛門のような方と縁ができたのだろう。

 もちろん、田園地帯といっても、天下の台所たる大阪都心から10〜15Km、当時は港湾商業都市として栄えていた尼崎の中心地から3〜4Kmという恵まれた立地であること。そして、大阪から有馬温泉へと通じる有馬街道に面していたということがある。随一の経済や文化が栄えた地域から徒歩でも日帰りできる恵まれた立地条件があったのである。

 更に、広済寺に勧請された妙見宮は江戸時代に大阪庶民の信仰を集めて賑わったそうである。

 それらのことを話の前に述べておく。

日昌上人と近松門左衛門

 近松門左衛門と広済寺の関係について述べるとき、広済寺開山の日昌上人と近松の縁を避けて通ることはできない。広済寺を再興した日昌上人の父である尼崎屋吉右衛門と近松門左衛門が知人あったので、近松門左衛門と広済寺に縁ができたと聞き及ぶ。※1

 広済寺開山の日昌上人は奈良、大阪、尼崎と経てきた。そのことを次に考察する。


広済寺開山日昌上人像(広済寺)

広済寺開山前の日昌上人

 日昌上人は広済寺を開山する前に2ヶ寺の住職をしている。

   奈良 常徳寺 二十四世 中興開山 (奈良市北向町)
   大阪 寶泉寺 五世           (大阪市中央区中寺)

である。広済寺開山に協力することから、大阪谷町の寺町にある寶泉寺住職をしている時代に近松門左衛門と縁ができていたと考えられる。

寶泉寺歴代住職 ※2
 4世 正善院日相 元禄6年 1月10日(1693)
 5世 栄樹院日昌 元文3年10月 6日(1738) ※3
 6世 寂玄院日堯 享保4年11月 4日(1719)

広済寺開山
 正徳4年 9月25日 官許を得る(1714)

 上記を考えるに日昌上人は、少なくとも元禄6年(1693)27歳から正徳4年(1714)48歳まで、21年間大阪寶泉寺の住職を務めていたことになる。

日昌上人と近松門左衛門の出会い

 注目すべき点は、寶泉寺から道頓堀までの距離である。貞享元年(1684)、竹本義太夫が竹本座を創設したのは大坂道頓堀である。現在でも、寶泉寺から南西に500mも歩けば道頓堀川があり、そこを更に1kmも行けば浪花座(元 竹本座)、松竹座、中座、角座などのある道頓堀の中心地たる戎橋界隈となる。(地図

 さて、近松が京都から大阪に移住し道頓堀の竹本座の座付作者となったのは、保元2年(1705)53歳の時である。その時、39歳の日昌上人は寶泉寺の住職であり、正徳4(1714)までの9年間、目と鼻の先に二人は居たことになる。約1.5kmという距離は、歩いても20分少々の距離である。かくして、日昌上人と近松門左衛門は時期的にも地理的にも縁を深めることができた。

 日昌上人は、南北朝時代の応安7年(1374)に開山された日蓮宗の古寺(常徳寺)を中興した業績があり、後には後西天皇皇女橿宮の祈祷をして霊験も示している。本山の地位ある僧侶でもない日昌上人が皇室の祈祷をするということは、よほど学徳と霊験を兼ね備えた実績ある優秀な僧侶だったのであろう。
 父を本圀寺(日蓮宗大本山)に葬るなど、日蓮宗であった近松門左衛門が移住先の大阪で僧侶を探せば、自然とそのような日昌上人に行き当たったのかも知れない。

 さて、父を葬った大本山本圀寺からの紹介で寶泉寺の日昌上人とつながりができたのではとも考えたが、師僧の系譜がわからないので何ともいえない。
 また、本山末寺の関係でも関わりはない。寶泉寺は大本山本圀寺の末寺ではなく、京都の本山妙覚寺の末寺である。常徳寺は京都の本山頂妙寺の末寺である。ちなみに、広済寺は京都の本山本満寺の末寺である。

 一つの可能性として、後西天皇(在位 1654〜1663)(1637〜1685)皇女橿宮という皇族の祈祷をするなど、京都でも日昌上人(権律師)は評価の高い僧侶だったと考えられる。保元2年(1705)まで近松は京都に居た。大阪寶泉寺の日昌上人のことを知っていたのかも知れない。皇族の一条恵観に仕えたこともある近松門左衛門だから尚更である。

広済寺開山

 広済寺の開山にあたり近松門左衛門は「広済寺開山講中列名縁起」(享保元年九月)に名前が記入されている。この年に亡くなった母「智法院貞松日喜」(享保元年九月九日命日)を広済寺に葬り、その機会に家宝の二位大納言阿野実藤筆の法華経和歌集二巻、後西天皇直筆の色紙を寄付した。

 当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」という、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があったそうだ。近松はここで著作したと伝わる。今でも、近松愛用の遺品や近松部屋の階段などが広済寺寺宝として「近松記念館」に展示されてる。

臨終と墓碑建立

 戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」、「曽根崎心中」「冥途の飛脚」等の不朽の名作を残した近松門左衛門の菩提所として、広済寺の墓碑は国定史跡に指定されている。

近松門左衛門の二つの墓に関する考察

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※1 広済寺過去帳には、「大阪尼崎屋吉右衛門二子」とある。ただ、その尼崎屋吉右衛門と近松門左衛門が知人であったという資料はまだ見ていない。御存知の方が居られたら教えて欲しい。

※2 「日蓮宗寺院文鑑」池上本門寺編 P754 a
※3 日昌上人は「栄樹院」から「如意珠院」に院号をかえているのだろうか。普通は栄樹院のように院のまえは二文字であるが、如意珠院のように三文字は異例であり、そのようなことを可能に出来る権威から賜ったものかも知れない。。憶測が許されれば、如意珠院は後西天皇皇女橿宮から賜った可能性がある。広済寺山門の額「如意珠院」の由緒参照。

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