広済寺と法妙寺の二つの墓碑について
近松門左衛門の墓碑は、広済寺と大阪谷町の旧法妙寺跡地(以下たんに法妙寺と記載する)にある。双方とも国定史跡に指定されていて、双方とも似せて作られている。
ここでは、どちらの墓がどうだという主張をするよりも、研究者への情報提供と、考えるべき点を羅列することにする。筆者個人は近松にしても仏教学にしても、十分でない論拠から断定的な主張をすることは欲しない。
・似た二つの墓
広済寺と法妙寺の墓は大きさや形が違うものの、似せて作られたということは写真を観ればすぐわかる。そのことをまずおさえておかなくてはならない。
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広済寺の墓碑 |
法妙寺跡(大阪谷町)の墓碑 |
広済寺と法妙寺の近松墓碑が似ている点
・緑色系の自然石を使っている ・夫婦の戒名が並べて彫ってある ・命日は近松門左衛門のみ裏面に彫ってある ・妻の命日は彫られていない ・命日の日も、戒名の日号も、日が月に見える書体
広済寺と法妙寺の墓碑との相違点
・近松の命日(広済寺は11月22日、法妙寺11月21日) ・法妙寺墓碑の台座は最近の花崗岩である ・法妙寺墓碑は広済寺のものよりひとまわり大きい ・法妙寺墓碑は本体にヒビか筋模様がはいっている ・角のない丸みを帯びた薄い広済寺墓碑に対して、法妙寺墓碑は角張った厚みのある自然石 ・深緑色の広済寺墓碑に対して、法妙寺墓碑は灰色に近い(束子で磨けばあるいは・・・)
・複数の近松墳墓を述べた論文
このことを論究した論文としては、
近松墳墓考 〜広済寺本墓説〜 向井芳樹
同志社国文学 第三十号(昭和六十三年三月二十日)
がある。
・日昌上人への帰依
近松門左衛門は広済寺開山の日昌上人に深く帰依していたと考えられる。そうであれば、たとい大阪に住居があっても自分の後生を日昌上人に託して、敢えて尼崎の広済寺に本墓を建立したと考えても不思議でない。
・夫婦墓ということ
広済寺の近松の墓は自然石に夫妻の戒名が彫ってある。しかし、裏面をみてみると命日を彫ってあるのは近松だけである。近松の妻は一説には享保19年2月19日命日で近松門左衛門に遅れること十年である。
もし、妻の没後に墓が出来たのであれば、妻の命日も確実に彫っていただろう。現在的に考えれば、夫(近松門左衛門)の死後に、菩提寺と妻との縁が無くなっていたか、菩提寺が妻の行方を把握できなくなっていたと考えるのが普通であろう。
・命日の違い
広済寺の墓碑と法妙寺の墓碑では近松門左衛門の命日に差異がある。広済寺は十一月二十二日に対して、法妙寺は十一月二十一日である。そのことは何を意味するのだろう?
・近松門左衛門の住居
近松の埋葬を考えるとき、残された夫人が何処に住んでいたかということも考える必要がある。近松の埋葬墓は加齢の夫人(とも限らないが)が参詣できる場所にあった方が便利だろう。
彼女が近松門左衛門と暮らした住居に住み続けたということで考えるなら、近松門左衛門がどこに住んでいたのかを考えなくてはならない。
近松門左衛門は竹本座の専属の戯曲家であるから、竹本座に通える場所に居を構えていたに違いない。まして、実話を庶民の心を打つような戯曲に脚色することが少なくない近松のような作家にとって情報は命である。テレビやラジオのない時代に人里離れた田舎に住むわけにはいかない。幸い、当時の大阪は全国各地の産物が集まる天下の台所であるから、全国各地の情報が聞ける場所であり、そのような場所にも通える場所に近松は居を構えたのではないかと考えられる。
当時、全国からの人が集まり賑わった場所は、江戸時代の全国米相場のあった堂島、諸藩の蔵屋敷のあった中之島界隈であろう。近松の住居はそのような賑やかな地域にも通える範囲だったのではないか。近松門左衛門は道修町(大阪市中央区)に住んでいたという話もあるが検証はしていない。
・どうして広済寺の近松座敷で執筆されたの?
広済寺には近松座敷なるものがあったそうで、近松はそこで執筆活動もしていたと伝わる。どうして、大阪からわざわざ広済寺まで来て作品を書くのか、筆者も訝しく思ったこともある。しかし、このように考えられる。
作品の構想を練る段階では情報収集が肝心で情報と人口が集中している地域の方が何かと便利ではあろう。しかし、作品を執筆し仕上げて行く段階では、来客や近所付き合いに煩わされない静かな場所を選んだのではないだろうか。そうなると、近からず遠からずの大阪郊外が便利で、広済寺は打ってつけの環境だろう。近松は広済寺本願人であったから、日昌上人もそれくらいの便宜ははかっただろう。
寺院対照表
寺名 |
広済寺 |
法妙寺 |
寶泉寺 |
住所 |
尼崎市久々知 |
大阪市中央区谷町8丁目
(移転前の近松墓碑のある場所) |
大阪市中央区中寺
当時は宝泉寺と至近距離 |
山号 |
久々知山 |
本覚山 |
昌蓮山 |
旧本山 |
京都 本満寺 |
京都 妙覚寺 |
京都 頂妙寺 |
法縁 |
筵師 |
奠師 |
奠師 |
創立 |
正徳4年(1714) |
永禄5年(1562) |
慶長13年(1608) |
旧寺格 |
緋金襴跡 |
紫金襴跡 |
紫金襴跡 |
当時の住職
(在任期間) |
開山 如意珠院日昌(1714-38) |
七世 玄成院日教(1677-1719)
(中興開基)
八世 智定院日邑(1719-1723)
九世 本地院日真(1723-1748) |
五世 栄樹院日昌(1693-1714)
六世 寂玄院日堯(1714-19) |
記事 |
近松墓碑あり |
近松墓碑あり |
広済寺開山日昌上人が広済寺に来る前に住職をしたお寺 |
墓そのものの調査
広済寺の近松の墓について、昭和20年代後半に久々知在住のK氏とY氏が発掘したようである。その模様は朝日新聞も取材したとか。実際、遺骨が出てきたが複数出てきたらしい。現在のように石垣で囲まれた領域は近松の墓だけではなかったのだろう。本堂のすぐ東側の脇で旧歴代住職廟にも近く、墓地としては一等地である。
当時の記事をお持ちの方はいないかと当ページで呼びかけたところ、尼崎市立地域研究史料館の辻川氏より神戸新聞の記事をファックスして頂いた。以下、その記事である。御厚意を頂いた辻川氏にはこの場をかりて深く御礼申し上げる。
神戸新聞 昭和25年3月13日
近松翁の遺骨か
久々知の廣濟寺から發掘
尼崎市久々知の廣済寺境内にある近松門左衛門翁(註:原文は文左衛門と誤植)の墓は近松翁が晩年同寺に引きこもって病を養い七十二の一生をとじたところと傳えられ、現に同寺には近松座敷という座敷が残っていて翁が会心の大作はその座敷で想を練り筆を執ったといわれるほど由緒正しい遺跡である。しかるに近松翁の墓所は同寺のほか、大阪谷町の法妙寺(註:原文は妙法寺と誤植)、九州唐津の近松寺とその他全国各地に五、六ヶ所もあってどれが本当の近松翁の墓所であるか眞僞のほどが疑われ、とくに大阪谷町の法妙寺(註:原文は妙法寺と誤植)の近松墓所とはたがいに本家争いをつづけてきたものであるが、尼崎の大近松宣揚会では廣済寺境内の墓碑の墓石がくずれかかって危険にひんしたので十二日これが修理を施し、これを機会に永年の疑問を氷解すべく市当局の立会いを求めて墓所を発掘したところ、地下数尺のところから多数の人骨を発見、これこそ近松翁の遺骨に相違ないと丁重に取扱ってひとまず同寺本堂に安置した。大近松宣揚会ではこれで尼崎廣済寺墓所こそ本当の相違ないことを確認するとともにさらに学界の権威に委嘱して学問的にその確実性を立証してもらうことになった。
神戸新聞 昭和25年3月23日
去る十五日尼崎市久々知廣済寺境内で発掘された大近松の遺骨に対し二十二日午前十一時から同寺で慰霊法要を執行したのち同寺に埋葬した。
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