ポーランド旅行記 1 ビルケナウ Birkenau

写真をクリックすると大きな画像が表示されます
Click picture to see high resolution picture.

DSC_4451_x.jpg DSC_4459_x.jpg DSC_4462_x.jpg
クラクフ空港からアウシュビッツへの道中 オシフィエンチム Oświęcim 駅 旧共産圏という感じの列車
DSC_4464_x.jpg DSC_4466_x.jpg DSC_4470_x.jpg

ビルケナウの看板

「死の門」が見えてきた(外側) 「死の門」の近くに駐車
DSC_4471_x.jpg DSC_4472_x.jpg DSC_4473_x.jpg

アウシュビッツとビルケナウの位置関係がわかる

「死の門」をくぐる ダビデの国旗が…
DSC_4475_x.jpg DSC_4476_x.jpg DSC_4477_x.jpg
有刺鉄線と監視塔 来場者の多くはユダヤ人
DSC_4478_x.jpg DSC_4479_x.jpg DSC_4486_x.jpg
DSC_4487_x.jpg DSC_4492_x.jpg DSC_4507_x.jpg
DSC_4510_x.jpg DSC_4513_x.jpg DSC_4518_x.jpg
DSC_4521_x.jpg DSC_4522_x.jpg DSC_4525_x.jpg
DSC_4526_x.jpg DSC_4532_x.jpg DSC_4533_x.jpg
DSC_4535_x.jpg DSC_4537_x.jpg DSC_4539_x.jpg
DSC_4547_x.jpg DSC_4552_x.jpg DSC_4559_x.jpg
DSC_4560_x.jpg DSC_4563_x.jpg DSC_4572_x.jpg
DSC_4574_x.jpg DSC_4576_x.jpg DSC_4577_x.jpg
DSC_4579_x.jpg DSC_4580_x.jpg DSC_4583_x.jpg
  一棟に1000人も収容 建造物が朽ちて煙突のみ残る
DSC_4584_x.jpg DSC_4587_x.jpg DSC_4591_x.jpg

収容棟の内部 一つのセルに5人が寝たそうだ

DSC_4593_x.jpg DSC_4599_x.jpg DSC_4600_x.jpg
DSC_4601_x.jpg DSC_4602_x.jpg DSC_4603_x.jpg
DSC_4604_x.jpg DSC_4606_x.jpg DSC_4609_x.jpg
DSC_4611_x.jpg DSC_4612_x.jpg DSC_4615_x.jpg
DSC_4616_x.jpg DSC_4617_x.jpg DSC_4620_x.jpg
DSC_4621_x.jpg DSC_4627_x.jpg DSC_4634_x.jpg

証拠隠滅のために爆破されたガス室跡らしい

DSC_4636_x.jpg DSC_4642_x.jpg DSC_4643_x.jpg
DSC_4646_x.jpg DSC_4647_x.jpg DSC_4649_x.jpg
DSC_4650_x.jpg DSC_4651_x.jpg DSC_4652_x.jpg
DSC_4663_x.jpg DSC_4654_x.jpg DSC_4657_x.jpg

引き込み線のれるの終端には花が手向けられていた

DSC_4662_x.jpg DSC_4664_x.jpg DSC_4667_x.jpg
慰霊碑 英文 いろんな言語で書かれている
DSC_4653_x.jpg DSC_4670_x.jpg DSC_4671_x.jpg
DSC_4674_x.jpg DSC_4675_x.jpg DSC_4676_x.jpg
DSC_4680_x.jpg DSC_4692_x.jpg DSC_4693_x.jpg
DSC_4695_x.jpg DSC_4707_x.jpg DSC_4714_x.jpg
DSC_4705_x.jpg DSC_4701_x.jpg DSC_4700_x.jpg

この池にも遺骨が散骨されたとのことだが火葬した人数にしては小さすぎるような気もする

DSC_4733_x.jpg DSC_4736_x.jpg DSC_4749_x.jpg
DSC_4753_x.jpg DSC_4755_x.jpg DSC_4784_x.jpg
DSC_4786_x.jpg DSC_4787_x.jpg DSC_4798_x.jpg
木造収容棟へのゲート

木造収容棟

DSC_4790_x.jpg DSC_4793_x.jpg DSC_4794_x.jpg

ここでは集団で同じ時間にトイレをさせられた

DSC_4799_x.jpg DSC_4803_x.jpg DSC_4805_x.jpg

「死の門」まで戻ってきた

塀ではなく有刺鉄線で囲まれている

 

平成23年3月22日(火)

ワルシャワからクラクフへ

LOT ポーランド航空 LOT Polish Airlines LO3903

Departure: 06:55 Warsaw, Poland - F. Chopin, terminal A
Arrival: 08:00 Krakow, Poland - John Paul II - Balice, terminal D

でクラクフに向かうつもりだったが、出発二日前にポーランドから英語で電話があり、1便遅いフライトになると連絡を受け、確認のメールも戴いていた。というわけで、1便遅いフライトでクラクフに向かう。

 クラクフの空港は国際線と国内線と別である。もちろん、国内線の空港に到着。軍用空港を民間旅客機に使わせているという感じの空港でだだっ広かった。空港の建物は日本で言えば離島の空港のような感じ。ポーランドの古都の空港という感じは全くしない田舎の空港みたい。

 ここで、ガイドをお願いしていた先生と合流。先生の車でアウシュビッツに向かった。申し訳ないことである。本当は空港からレンタカーでアウシュビッツに行く予定であったが、レンタカー料金を考えるとタクシーでもリーズナブル。しかも、観光中アウシュビッツで待っていてくれるから荷物置き場の心配もないとのこと、ただ知らないタクシーに荷物を預けるのも怖い。先生の知り合いの運転手にお願いしようとしていたら、たまたま先生の都合が空いていたので先生の車に同乗することになった。

 クラクフ空港からアウシュビッツへの郊外の道はルーマニアの道みたいな田舎道だった。といっても、馬車は走っていない。あまりスピードを出せるような感じではない、日本で言えば田舎の県道みたい。峠道ではないがクネクネしてアップダウンがある。警察の速度違反取り締まりもあった。途中、林の中を通ったときは気持ちよかったが、家々は 普通の家で、ヨーロッパの趣のある建物ではなかった。

 グーグルマップで計算した移動距離は 51km である。やがて、アウシュビッツの町オシフィエンチム Oświęcim に到着する。駅に止まっている列車を観ていると旧共産圏に来たなと改めて思う。

アウシュビッツより先にビルケナウ

 午前中のアウシュビッツは混むということで、先にビルケナウ Birkenau に向かう。いや、ビルケナウの 「死の門」こそアウシュビッツの象徴かも知れない。入り口近くには廃線の線路がそのまま残されている。「死の門」から入場する。だだっ広い。本当に広い。ここに10万人が収容されたとのこと。アウシュビッツの比ではない。

 「死の門」からまっすぐ引き込み線の長い長いプラットホームがある。その線路にそって歩んで行く。来場者のほとんどはユダヤ人の団体である。ダビデの国旗を纏った人たちもいる。ユダヤ人といっても白人ばかりではない。黒人も居れば、多様な人種がいるようだ。ともかく、ユダヤ人の語り部、恐らくは収容経験者などの話を熱心に長時間にわたって聞き入っている。

 引き込み線の途中に貨物車一両がとめられていた。今の貨車からすると短い。この貨車は連行されてきたユダヤ人を乗せてきたもの。もちろん客車ではない。

 引き込み線の奥に向かって左側の収容棟を見た。1棟あたり700人〜1000人の収容者が居たとのこと。 収容棟の内部には大きな三段ベッドみたいなものがあった。その一つのセルに5人が寝ていたという。とんでもないストレスの中の窮屈な生活、食べ物は最低で栄養状態が悪いだろうし、衛生状態は 最悪だろうし、夏は暑いだろうし、冬は凍てつくだろうし、本当に気の毒な環境だ。

 インフルエンザ、ノロウィルス、風邪など感染症が広まるとひとたまりもなかっただろう。実際ここではチフスが流行り、多くの人の命を奪った。 ユダヤ人を大量虐殺したといわれるガス室の毒薬「ツィクロンB (Zyklon B) 」も。女性の髪を短く切らせたのも、チフスを媒介とするシラミ対策ではないかと いう気がしたが、そんなことを質問できる雰囲気ではない。

 さて、引き込み線の奥の方に、ガス室の跡がある。もし、この収容所の存在そのものがとんでもない話だが、ガス室が本当だとしたらとても許せない話である。

 更に、長い引き込み線を半分ほど戻り、「死の門」に向かって左側に向かった。そこには木造の収容棟跡がある。ここにも500人 (うろ覚え)の収容があったという。多くの木造収容棟群は朽ちて撤去され、煉瓦造りの煙突のみ残されている。

 その木造収容棟群の中にトイレ棟があった。トイレ棟といっても自分で自由に行けるトイレではなく、時間を決められて団体行動で行かされたらしい。

 結構な距離を歩いたと思う。ほんとうに広大だ、この収容者跡に10万人が収容され、その収容者を僅か3000人のドイツ人がマネージメントしていたそうだ。人手不足解消を本国に伝える書面も残っているそうだが、 ユダヤ人の協力者も得て管理されていたという。

 ナチス時代のドイツは第二次世界大戦で、ソビエト連邦に勝つ予定だった。そして、ゲットーの最たるものだろうか、ユダヤ人を強制的にシベリアへ移住させる予定だったとか。ところが戦局が悪くなり、シベリアへ強制移住させるはずのユダヤ人を収容する必要に迫られ、ここに膨大な規模の収容所が作られ。収容しきれなくなったので毒ガスによる虐殺があったと説明される。

 西欧人は東方に偏見があり、好ましくない(と彼らが考える)ものを東方に排除しようとするところがあるとのこと。ユダヤ人をシベリア強制移住の計画もしかり、アウシュビッツがドイツの東方にあるのもしかりである とのこと。

 
← Previous  

Top page of Poland.

 

Next →

Counter since 2011.06.15

(C)2011 Eisai Ishibushi ALL RIGHTS RESERVED