久々知村
現 久々知1〜3丁目
久々知西町1〜2丁目
南塚口町4〜5丁目
名神町2〜3丁目
東塚口町2丁目
尾浜町3丁目
若王寺3丁目
潮江3〜4丁目
上坂部2丁目
下坂部2丁目、4丁目
古代氏族久々智氏の居住地であったと推定されてわり、弥生時代がら古墳時代の遺跡が散在する。
現篠山市観福寺所蔵大般若経巻一六などの奥書(日本古写経現存目録)に建久二年(1191)として「摂州川辺南条久々智村」の住人らの名がみえる。
弘安元年(1278)多田院(現川西市)金堂上棟に際し、久々智兵衛尉が「難為他所之仁、志於為入、関東之見参」に、多田院御家人同様に馬一疋を引進めている(「金堂上棟引馬注進状」多田神社文書)。
当地を本拠とする武士と考えられ、のち多田院御家人になったとみえて、正和五年(1316)の塔婆落慶供養の際には他の御家人とともに警固に出仕している(「多田院堂供養指図」同文書)。
元弘三年(1333)閏二月から三月にかけて摂津で行われた赤松円心軍と六波羅軍の合戦の際には「久々智・酒部」に陣取る赤松軍が阿波小笠原勢に攻め寄せられて小屋野(現伊丹市)まで撤退している(「太平記」巻八)。
康永四年(1345)八月一六日には「楊津庄内久々智・坂部」の名田について奈良興福寺別当の命令が出されている(「御教書引付」成簣堂文庫大乗院文書)。
文明二年(1470)には「橘御園内九々智・生島之放生米」が惣大工に宛給されている(同年)十月二十日「院祐奉書写」石清水文書)。同九年から翌年にかけては「橘御園久々智村内大番」の年貢質契約をめぐって真下広長と松平勝親どの間で争いが生じた(政所賦銘引付)。
同年十月の三鈷寺領当知行目録(東京大学法学部法制史資料室蔵三鈷寺文書)に「久々知村之内貞延名参町余」とあり、三鈷寺(現京都市西京区)の所領があったが、同目録の追筆によると明応元年(1492)に沽却されている。広徳寺田地目録(大徳寺文書)には「クヽチ」とみえる。
慶長国絵図に村名がみえ高一千一六五石。元和三年(1617)の摂津一国御改帳によると幕府領(尼崎藩建部政長預地)、寛永三年(1626)大坂城代阿部正次(武蔵岩槻藩)領となり、慶安元年(1648)幕府領となる。
万治三年(1660)大坂定番板倉重矩領、延宝九年(1681)幕府領、貞享三年(1686)武蔵忍藩領、文政六年(一八二三)幕府領、同十一年尼崎藩領となり明治に至る(尼崎市史)。
宝暦五年(1755)の村明細帳(同書)によれば百姓六七・水呑一三・店借五一)・医師一、牛一六、用水は猪名川水系大井掛り、新田中野村陣屋(現伊丹市)ヘ一里三○町、大坂城へ二里。
天保九年(1838)には高札一所、家数一○八・人数四七六、牛二三、庄屋弥七・弥三右衛門、年寄弥右衛門・伊兵衛。氏神は諏訪大明神・妙見大菩薩・牛頭天王の相殿(現須佐男神社)。祭礼は九月一○日、社僧は法花宗京都本満寺末広済寺(現日蓮宗)。
「但州湯嶋道中独案内」に「妙見の寺右ニ見ゆ」と記される。
真言宗摂州寺本村正覚寺末円安寺(現真言宗善通寺派)、禅宗尼崎広徳寺未正眼庵(現臨済宗大徳寺派)がある(天保九年「巡見使通行用留」岡本家文書)。
享保一二年(1727)頃二人が各々馬一匹をもち、在々諸商人の荷物を尼崎へ付出し、船積みなどの馬借稼に従事していた(「訴状」昆陽農業協同組合文書)。
広済寺は正徳四年(1714)創立、開山は日昌。境内に妙見堂があった(明冶一二年調寺院明細帳)。「摂津名所図絵」には能勢妙見(現大販府能勢町)とともに参詣人も多く、霊験も日々に新しいとある。近松門左衛門の信仰が厚く、享保元年の開山講中列名縁起(広済寺文書)、同二年の開山百講中列名縁起(同文書)に門左衛門の名がみえる。近松門左衛門墓は国指定重要文化財。平成七年(1995)の兵庫県南部地震で転倒した。文禄五年(1596)銘の題目板碑がある。
円安寺は弘仁八年(817)空海開基と伝え、境内に大師堂があった。
正眼寺は永正六年(1509)創立、長空開基という。(前掲寺院明細帳)
日本歴史地名体系 29巻T 兵庫県の地名T 平凡社 1999 より |