仏教の展示
・写真をクリックすると精細な写真(相似比3倍)が表示される。
・写真の横のタイトルと説明のほとんどは、大英博物館の英文の説明を試訳したものであるが、精度は保証できない。正確を期する場合は「Original English Text」をクリックして原文の英文を参照されたし。また、(叡)とあるのは著者の説明である。
・ここにあるの大英博物館は仏教展示の一部である。ほぼ全ての展示を撮影したが、紹介しきれない。アマラバティーの仏舎利塔の展示は次頁に掲載する。
釈迦立像 北インド サルナート グプタ王朝(435年頃) この釈迦像は安心をあらわすため右手を上げている。これは、一度でも人々が釈迦やその教えに保護されれば恐るべきものが何もないことを示す手振りである。
OA 1880. 6 India Museum Collection. |
釈迦像 ガンダーラ 2〜3世紀 この像は、仏陀の特有のしるしを見せている。これらは、額のしるし白毫(urna)と、頭上の突起肉髻(ushnisha)を含む。肉髻珠は髷(まげ)として示されている。
OA 1947.5-11.1 |
釈迦像 ガンダーラ 2〜3世紀 不幸にも破壊されてしまった頭部以外の片岩彫刻は、この頭部の大きさからしても例外的なものである。
Dighton Pollock Bequest |
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釈迦像 Danesar Khera, 中央インド 金色に輝く釈迦のブロンズ像は説法の印を結んでいる。この仏像の存在そのもののが珍しいことにとどまらず、土台の銘文に時代を同定する重要な情報があるのが珍しい。 Brooke Sewell Bequest |
釈迦像 釈迦の生涯における8つの大きな出来事が浮き彫りであらわされている。中央の大きな像は菩提樹の下で悟りを得た出来事(成道)を描いている。左下の浮き彫りは降誕で、ルンビニー園で木を握っている母親である(右脇誕生伝説)。石碑の真上は逝去であり、それは涅槃の達成である。 Lady Holmwood |
説法する釈迦 ガンダーラ マルダーン地区(パキスタン) ブッダガヤでの悟りを得た(成道)の後、サルナートの鹿の園(鹿野苑)で初転法輪をして5人の弟子を得た。台座には信徒に囲まれた菩薩像がある。 Given by Eustace Smith Esq |
奉納された仏舎利塔 インド東部 11世紀 小さな仏舎利塔(ストゥーパ)は個々人の信心の表現であり、それ自体に仏舎利(釈迦の遺骨)や神聖なものは具わってない。仏教の僧、巡礼者、在家信徒は、利益を得るために、仏教の神聖な場所に奉納された仏舎利塔を持っていた。
OA 1880-4085 |
スートラ(経典) スリランカやチベットの経典はこのように二本の糸で綴じられている。経はサンスクリットでスートラといい「たて糸」の意味。
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釈迦の頭像
ボロブドゥール ジャワ島中部 ジャワ島での建築における最初の主要な期間は、8〜10世紀に島の中央の地域で起こった。多くの仏教やヒンズー教の寺院が Shailendra 王朝のメンバーによって建てられた。この時代は、大乗仏教を導入してボロブドゥールの主要な遺跡が建造された。この頭部は建造物の頂上の脇の座像のもの。
OA 1859.12-28.177 |
釈迦像 サルナート 、アッタープラディッシュ。 釈迦は獅子の座に、「ヨーロッパの姿勢」で座っている。釈迦の足は二重の蓮の上にある。光背の下には竜などの精巧な彫刻が見える。釈迦はベナレス郊外のサルナートでの初めての説法(初転法輪)で5人の弟子にしたが、胸の前での指の印相は「転法輪」をあらわす(原文の意味不詳)。 OA 1880.7 |
鬼子母神
ガンダーラ 鬼子母神は子供達を食べる荒々しい人食い女であった。釈迦はその教えによって、鬼子母神を鬼神から、子供達の守護神にかえることができた。このような優しさの象徴した像である。後の時代に彼女は天然痘の女神として崇拝された。彼女は、富の神の将官であるパンチカの妻である。 Given by Colonel A.C. Walker |
苦行時代の釈迦の頭像と思われる。残念ながら、タイトルや説明文を散逸した。大英博物館の数ある釈尊像の中でも一番印象に残った。一切衆生の苦滅につながる悟りを求めて、精進し、魔の誘惑と戦い、身体は生死の境に達しようとさえしている。身はやせ衰え、眼はくぼんでも、求道の力強さと智慧の力は失せることはなく衰えることを知らない。苦行中の釈尊も、やがて苦行を捨て菩提樹の下で瞑想する釈尊も、象徴的に描くとこのようなお顔だったのかも知れない。だからこそ、乳粥を供養したスジャータは木霊と見誤ったのだろう。この頭像には、四諦の法門をはじめ一切の仏教の頼もしい萌芽が込められていると観じた。(叡) |
大英博物館
仏教の展示
迷惑や批判を顧みず、大事な仕事を休んでの英国旅行。その大きな目的の一つが大英博物館と大英図書館の拝観である。このページと次のページを観て戴いたら、それがダシでもウソでもないことがわかって戴けるだろう。
シルクロードに行っても、現地の遺跡は欧米の探検隊が遺跡を持ち帰ったあとで何もないことすらあった。大乗仏教の聖地でかつ中国へ仏法東漸の中継地となったガンダーラは、パキスタンやアフガニスタンといった治安上旅行を躊躇する地域である。また、インド、スリランカ、ガンダーラ、シルクロードの仏教遺跡を旅するのには膨大な時間と資金がかかり体力も必要である。そんなこんなを考えていると、先進国の博物館でも最も充実した仏教の宝物を展示しているであろう大英博物館に再訪することを思い立った。
写真撮影が許可されているのも嬉しい限りだ。ただ、ガラス越しの写真もあり、PLフィルタを持参しなかったのは失敗だった。
今回は展示横の説明文も写真撮影し画像処理してOCRでテキスト化したが、予想以上にうまくいった。
アマラヴァティー大仏舎利塔遺跡の展示
アマラヴァティー大仏舎利塔遺跡の展示
展示の説明文の試訳
アマラヴァティーの大仏舎利塔
仏舎利塔は、紀元前3世紀、インドのアンドラ・プラデシュ州アマラヴァティー(Amaravati)に建立された。仏舎利塔はバラバラになり無数の小さな遺跡保管庫に預けられていた。この大きな仏舎利塔を建立したのが誰なのかよくわかっていない。けれども、現地で発見された柱の破片の銘文によれば、紀元前3世紀のマウリア王朝の偉大なアショカ王の建立を示している。やがて、仏舎利塔は何度も改築されることになるが、とりわけ2〜3世紀の改築は特筆される。ここにある彫刻のほとんどはその時期のものである。スリランカの後の碑文によると、大仏舎利塔は恐らく14世紀まで仏教徒の崇拝の中心地として残存した。
1797年、インド最初の測量技師コル・コリン・マッケンジーによって遺跡として再発見され、1845年、マドラス官庁のウォルター・エリオット卿によって仏舎利塔は発掘された。エリオットの発掘により大英博物館はアマラヴァティーの彫刻の大部分のコレクションを獲得できた。大仏舎利塔の建築様式
仏舎利塔の中心部分はぎっしり詰まった石とレンガで建造されている。彫刻された装飾や欄干は現地の採掘された薄緑の石灰岩である。仏舎利容器はドームの頑丈な構造物の中に安置された。仏舎利塔の高さは約18mで、欄干の周囲は約240mあったと推定される。
円筒部分
太鼓状の高い円筒がドームを支持していた。それは、4つの重要で小さな突き出した祭壇をもっていた。それぞれの祭壇は5本の柱を立てる穴があけられていた。インドのこの地域の仏舎利塔としては、この特徴は風変わりだ。円筒の側面は彫刻された石版で覆われていた。
欄干と門
円筒部分と彫刻された周囲の欄干の間は敬虔な仏教徒が行道して回る廊下だった。欄干はきわめて重要な場所を含んでいた。一対のライオンが両脇に座って門は守られていた。
何故アマラヴァティー?
平成10年(1998)2月、友人に誘われて遥々インドのアマラヴァティーまで旅行した。そこには巨大な仏舎利塔の跡があった。そして、現地の美術館で素晴らしい彫刻の数々を観て、仏舎利まで拝見させて頂いた。さらに、マドラス(チェナイ)の州立博物館でもアマラヴァティー発掘の彫刻を観て写真に撮った。あまりにも巨大で荘厳な仏舎利塔だったに違いない。現地で気になることを聞いた。それは残りは全部「大英博物館」に所蔵されている。その残念さは常に心のどこかにあった。
今回、大英博物館でアマラヴァティーの素晴らしい彫刻群と再会することになった。確かにインドの展示室の50平方メートルほど(目分量)を占めて例外的な広さであるが、これはコレクションの全てではあるまい。仕方ないことだろう。バリエーションの面でも現地で観たような感動はなかった。
アマラヴァティー(現地)の大仏舎利塔跡 | アマラヴァティーの博物館にて |
インドにアマラヴァティーを訪問したときの記録