インド四大仏跡を巡る旅

〜 ラージギル  1/2 〜

霊鷲山 と 竹林精舎


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竹林精舎跡の竹 竹林精舎跡の池
池の畔に仏像が二体 金箔はタイ仏教徒の貼ったもの?

階段近くの座像 整備しすぎか?
池の全景 土産物屋さんがしつこく付きまとう
ラージギルの夕日 法華ホテルのロビー
法華ホテルの廊下 奥には仏像 レストランと売店
ホテル玄関 もと法華クラブのホテル
いざ霊鷲山へ登詣 登山口 旧王舎城の東門があたりらしいとか
暗さで牛糞を踏んでしまった 山賊が出るので警察官が同行
坂はゆるやか ビンビサーラの道 他の地域と違い眼下に森がある
何でもない木も神々しく感じた 樹木に囲まれホッとする
霊鷲山が見えた! ストゥーパ跡の説明?
霊山へ詣る橋 工事中
詳細は 説明文参照

入るのが怖そうな大きな石の下の穴 説明を聞くより写真撮影に忙しかった
最後の階段 詳しくは説明文参照

山頂付近の窟 鷲に似た奇岩 (霊鷲山の名前の由来ではない)
読経中に御来光 日の出時間をよく調べておくべきだった
御来光を望遠レンズで撮影 霊鷲山の祭壇
多宝山の多宝塔(日本山の建立) 霊鷲山の犬
旗を奉納したのはチベット仏教徒か 下山途中にもういちど霊鷲山
中村元先生によると
このあたりは外輪山とか(霊鷲山は後方)
ビンビサーラ王がお釈迦様に会いに行った道
多宝山へのリフト 再訪したときは乗りたい
麓の土産物屋

(C)2005 Eisai Ishibushi ALL RIGHTS RESERVED
DATA: Nikon D70 ,  AF-S DX Zoom Nikkor ED 12〜24mm F4G(IF),
AF-S DX Zoom Nikkor ED 18〜70mmF3.5-4.5G(IF) , Ai AF Zoom Nikkor ED 80〜200mm F2.8D
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【解説】

 「ある時、お釈迦様は王舎城の鷲の峰(霊鷲山・耆闍崛山)におられ・・・」仏教経典の冒頭の定番の文言である。その霊跡がこの地である。

王舎城  Rajagrha

 現在のラージギル。お釈迦様の時代の強大であったマガダ国の首都。お釈迦様が最も長く居し、説法をされた場所。霊鷲山や竹林精舎がある。
 この地でお釈迦様とマガダ国ビンビサーラ王の出会いがあり、強大なマガダ国王の帰依を得たことは仏教教団が弘まる上で大きな意味を持つ。
 マガダ国はやがて強大になり、首都はパータリプトラ(現在のパトナ)に移される。

霊鷲山  Grdhrakuta

 耆闍崛山(ぎじやくせん)ともいう。小高い山で、山の形が鷲という名前の由来とされる。お釈迦様はここで『法華経』などを説法したとされる。

妙法蓮華経序品第一
如是我聞。一時。仏住。王舎城耆闍崛山中。与大比丘衆。万二千人倶。

(訓読)是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。

妙法蓮華経如来寿量品第十六
一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山

一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず

竹林精舎  Venuvana vihara

 王舎城に建てられた最初の仏教寺院。カランダカ長者が寄付した竹林に、マガダ国のビンビサーラ王が伽藍を建立した。祇園精舎・大林精舎・誓多林精舎・那爛陀寺とともにインドの5寺(天竺五山)のひとつである。

ビンビサーラ王  Bimbisara

 頻婆娑羅。 王舎城に都を建設し、北東のアンガ国などを併合して、コーサラ国と並ぶ強大な国家を築いた。ビンビサーラ王の時代にマガダ国は文化の一大中心地となった。息子の阿闍世(Ajatasatru アジャータシャトル)に幽閉されて殺されたと伝わる。浄土三部経のひとつ『観無量寿経』はその悲劇から説法が展開される。

Rajgir の読み方

 ガイドブックによって、ラージギール、ラージギル、ラジギールとカタカナ表記されていた。平凡社世界大百科事典第二版の「ラージャグリハ」の項目に長母音のマークがついたローマナイズドされた Rajgir が表記されたいたが、a は長母音、i は短母音だった。その表記に間違いが無ければ、「ラージギル」とカタカナ表記するのが適当であろう。執筆は三友 量順先生である。


【旅行記】

●2/17(木)つづき

竹林精舎

 ラジギールに着いたのは夕刻だった。観光は竹林精舎を観光しただけだる。
 竹林精舎といっても竹林は申し訳程度しかなかった。そのかわり、大きな正方形の池があって、ガートのような階段があった。伽藍も伽藍跡もなく、仏像が二箇所に安置されていた。往時の面影は無きに等しい。

法華ホテルでダブルブッキング?

 法華ホテルに到着したが、ロビーで少し待たされた。どうやらダブルブッキングがあったらしい。といっても、ここは日本の旅館みたいなホテルである。部屋は広く、畳が敷いてあり、フトンを敷いて寝る。だから、オーバーブッキングといっても多少は融通が利く。しかし、添乗員さんは別のホテルとなった。

 法華ホテルであるが、もと法華クラブが運営していたが日本の本社が倒産した。そのため、一時政府の管理となり、後に民間におろされたそうだ。

 別段、日本のフトンで良い。しかし、悲しかったのは日本食だったことである。やはりインドではインドの料理を食べたい。もちろん、慣れないマサラ料理の香辛料で弱った(ビックリした?)胃腸を休めるメリットはあると思うのだが・・・。

 日本の旅館風であるから、男性部屋と女性部屋が別々になった。家内と別の部屋になった。

「地球の歩き方」を紛失

 迂闊なことをした。個人旅行だったら大惨事である。「地球の歩き方」がない。どこかに忘れるか落としてきたようだ。これでは訪問地の予習をできないではないか・・・。


●2/18(金)

早朝: 霊鷲山暁天参拝
耆婆の病院と思われる遺跡
温泉精舎
ラジギール
午前: ブッダガヤへ
ブッダガヤ
午後: 釈尊成道の聖地

山賊

 霊鷲山はよく山賊がでるそうである。だから、警官が同行する。インドの警察官は賄賂を取り、偉そうにするというイメージがあったがそんなことはなかった。愛想もよく、威張ってはいなかった。

 霊鷲山だけではない、霊鷲山の帰りに立ち寄る耆婆の病院(マンゴ園?)の遺跡などにも山賊は出現するそうである。そこにも警官が付き添ってくれた。

 今回は行かなかったが、温泉精舎の後ろの山にある七葉窟あたりも、温泉精舎から見える斜面は人から見られるので山賊は出ないが、その裏側の斜面で山賊が出現するとか。

立正佼成会のバスに抜かれた

 出発する時は、他の団体はいなかった。幸運に思っていると甘くなかった。私たちのバスを後から出発した立正佼成会の団体のバスが抜き去った。
 立正佼成会の団体は団扇太鼓を打ちながら先に登った。南無妙法蓮華経は霊友会系独特のイントネーションではなく、我々日蓮宗と同じ唱え方だった。この日は彼らと我々と二つの団体が御来光を拝む時間に登詣した。

牛糞を踏む

 法華ホテルから霊鷲山の登り口までバスで20〜30分である。バスを降りて、いきなり牛糞を踏んでしまった。真っ暗闇で見えなかった。懐中電灯をかざしておくべきだった。

霊山登詣の感慨を損ねる執拗な土産物屋

 山賊も怖いが、鬱陶しいのは土産物売りである。常軌を逸脱したしつこさで付きまとう。我々としては霊山浄土に参詣しているという感慨にふけりたいのに、そのような情緒に浸ることができなかったといって過言でない。かといって、「This is our プージャー! Go away !」と大声をだすことは霊鷲山でははばかられる。

登詣開始

 斜面はなだらかできつくはない。普通のバイクでも登れるのではと思う。道は新しいレンガが敷き詰められていた。快適というよりやり過ぎだと思う。土を踏みしめながら、石と木の根をよけながらお釈迦当時のまま登りたかった。どうも、インドの当局は仏跡を整備して近代的な公園にしたいようだ。

 標高が上がるにつれて眺めがよくなった。左側に多宝山とリフト、右側に鬱そうとした森が広がっている。インドにこんな場所があったかというくらい自然が残っている。日本山妙法寺の藤井日達師(1885-1985)が霊鷲山の窟でトラと遭遇したのもうなづける。静かで清らかな気持ちにさせられる良いところだ。土産物売りさえいなければ!。

 ただ、この土産物売りも悪いことばかりでなく、以前日本人が山賊に遭った時、バイクで警官を連れてきたと添乗員さんが言っていた。また、霊鷲山山頂で営業活動をされることはなかった。

 さて、漢字で「霊山橋」と書かれた小さく白い橋を渡って、工事中のレンガ道の直線を登ると岩のトンネルのような場所がある。ここからお釈迦様がおられた山頂まで登れる場所であるが、現在は迂回する。お釈迦様の侍者をされていた阿難尊者が控えておられた場所だそうだ。

山頂到達

 霊鷲山の山頂は意外と狭かった。多くの仏教経典に出てくる1200人とか12000人がここに集ったという表現は物理的には不可能だ。お釈迦様在世の頃の仏教サンガ(出家僧侶の集団)規模は恐らく1200人に近いと言われる。そこから1200人、概数としての12000人がこの霊鷲山で説法を聴いたとなるのであろう。120人なら頂足してから結跏趺坐し、説法を聴聞できるかも知れない。

 今回は団体行動なので叶わなかったが、次回は多宝山(Ratnagiri)の上からこの霊鷲山を観てみたい。

読経中に日の出

 御来光であるが、お経中に登ってしまって、最初の光を見られなかった。見たのは日輪がすべて見えてからである。天文の計算ソフトで日の出時間を計算しておくべきだった。残念。

 御来光に唱題三唱して霊鷲山をあとにした。下りの景色も素晴らしかった。自然があり、喧噪から遠離した本当に良い場所だ。土産物売りの執拗な売り込みさえなければ。

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