妙見宮の名称
妙見宮のことを語るほど難しいことはない。
まず呼称からして多様である。妙見宮、妙見様、北辰妙見大菩薩という聞き慣れた名前の他に、太一北辰尊星、天御中主尊、真武太一上帝霊応天尊、太一上帝、太極元神とある。名称の多様さは、妙見信仰の展開と伝播の複雑さを物語るものである。それ故、妙見の誓願や霊験となればこれも沢山ある。列挙すれば以下の如くである。
妙見宮の利益
擁護国土、天下太平、万民守護、宝祚長遠
文武官将官位昇進、知行加増
立身出世、財宝充満、諸運長久、家業繁盛、子孫安泰
一切の災難退散(火難水難等)
運弱く貧窮病身のもの、衣食貧しきもの、妙見信心により金銀米銭自然に充満、
富貴身となる。
智慧福徳の男子、端正艶美の女子を出生、安産守護
一切の難病、悪病平癒
士農工商は諸道諸芸に妙達
山中海上の一切難を退く
諸願成就、五穀豊穣 (吉岡義豊著作集 第二巻 P61)
妙見宮はそもそも何の神様?
この妙見であるが北極星あるいは北斗七星を合わせて神格化されたものである。
古代の人々は、台風や地震そして飢饉など天変地異の起こる原因を経験的に知る由はない。これら自然現象に畏怖の念を持ち、人の運命や災難を左右する神として不思議な力を天体に感じていたのである。例えば星座や二十八宿などの占星術などは現在にも根強く残っている。
そのような天体の中でも、北極星は日周運動にも唯一不動の星として古代人に注目されていた。のみならず、海上や砂漠を大移動する民にとって北極星は欠くことのできない羅針盤であり、守り神として尊崇された。やがて、古代中国では天の中枢、天を支配する天帝として尊敬されるようになった。そして、中国の道教では妙見は最も重んぜられた本尊となる。
その妙見信仰が日本に伝わったのは意外と古く、『日本霊異記』には称徳天皇の時代(764 - 769)に妙見菩薩に灯明を献じた寺があったという記述があり、妙見信仰は奈良時代末期には庶民の間にかなり広まっていた。
ただ、妙見信仰の発展と伝播の過程でいろいろな信仰と習合して来たため、妙見の名称や霊験だけでなく御神体の形もいろいろである。これらを説明し理解することはきわめて専門的になり、道教や密教に造詣が深くなくては到底理解し得ない。ただ、霊験ある神祇として中国や日本で篤く信仰され続けたということは疑いのない事実である。
広済寺の妙見宮について
広済寺の妙見宮の歴史については広済寺の歴史のところで詳しく述べたので、ここでは省略する。
さて、広済寺の妙見宮の御神体であるが類例のない特徴をもっている。
妙見大菩薩の御神体
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写真を観れば、広済寺の現在の妙見宮御神体は開山日昌上人が法華勧請により開眼したもののようである。注目すべき点は、妙見大菩薩御神体の裏側に、妙見大士と國常尊が併記してあることである。
國常尊とは、国常立尊(くにのとこたちのみこと)のことであろう。日本書紀の冒頭にしるされている、天地開闢と共に現れた国土形成の神である。
妙見大菩薩と国常立尊が習合しているのは希有なことではないだろうか。当初から習合していたのか、開山日昌上人が習合させたのか、明治初期の廃仏毀釈や神仏分離令を避けようとして誰かが書いたのか。筆跡の調査が必要である。また、このように大きな文字で題目と神祇の名称が背面に朱書されていることは普通になされていたのであろうか。また、先述のとおり妙見宮御神体としては希有な形式である。脇士はどうして、牛頭天王と諏訪大明神なのだろうか。それらのことも調べなくてはならない。
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