日像上人の京都弘通(ぐづう)
日蓮聖人御入滅時の状況は、
弟子・信徒を合わせても数百人
東国数ヵ国に散在するにすぎない
日蓮聖人の教団は微々たる地方教団にすぎなかった
という状況だったようである。
日蓮聖人の教えを全国に弘めるためには、天皇のおられる文化の中心地たる京都への布教が必要だった。そのことに勲功があったのが日像上人(1269-1342)である。
日像上人は、六老僧(日蓮聖人の六大弟子)の日朗上人の弟子であった。日像上人は臨終間際の日蓮聖人から帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)を遺命された。
長じて日像上人は25歳のとき、遺命の実現を決意。鎌倉の由比ヶ浜で寒中百日間の行をして、日蓮聖人の霊跡を巡礼され、京都に向かわれた。
三黜三赦(さんちつさんしや)の法難
当時の東国出身の日像上人が京都で布教することは並大抵のことではないと容易に想像できるが、その布教は功を奏して、京都の有力商工業者の帰依を受けた。しかし、布教が功を奏したことを裏付けるように、比叡山や他宗の圧力があり、上皇の命で流罪となり京都を追放された。2年後に許され京都に帰ったが、翌年には再び流罪となる。このように、三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けながらも京都の布教に尽力された。
商工業者の集中する下京の綾小路大宮に構えていた法華堂を中心に、活動し信徒を増やしていった。洛北松ヶ崎の天台宗歓喜寺(現:妙泉寺)、洛西真言宗鶏冠井真経寺、深草極楽寺(現:宝塔寺)を宗論によって論伏し日蓮宗に改宗させた。その寺が更に京都弘通の拠点となったいう。
三度目の京都追放の後に弘通の勅許(天皇のお許し)を得た日像上人は、法華堂を移して妙顕寺を開いた。上洛して28年目のことである。
日像上人の妙顕寺が勅願寺に
次いで、元弘三年(1333)、この妙顕寺は後醍醐天皇の京都還幸を祈願を託され、還幸が実現した。このことにより、尾張・備中に三ヵ所の寺領が寄進され、次いで建武元年(1334)には
「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし」
の後醍醐天皇の綸旨を賜わった。さらに、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所となり揺るぎない地位を獲得した。天皇の綸旨を賜ることや、室町幕府の外護を受けることは、比叡山延暦寺の軍事的政治的圧迫を退けるのに奏功した面もあるだろう。
大覚大僧正の活躍
妙顕寺の第二世は大覚大僧正妙実(1298-1364)である。公家の名門近衛家に縁故のある出自といわれ、日像上人の右腕となって活躍した。公家や武家と妙顕寺の接近をはかり、備前・備中・備後(岡山・広島)の布教に功績を残している。
妙顕寺は南北朝時代にあって不安定な室町幕府の要請を受けて『法華経』による祈願をし、それ故に幕府から強い保護を受け。あるいは、延文三年(1358)夏には深刻な干ばつが京都を襲ったが、大覚妙実は天皇の詔によって法華経による祈雨の祈祷をした。すると、たちまちに雨が降る霊験を示した。この功績により日蓮聖人、日朗上人(六老僧・日像の師匠)、日像上人に菩薩号を賜わり、大覚妙実自身も大僧正に任じられた。
大覚大僧正妙実によって京都の日蓮宗そして妙顕寺は揺るぎないものになった。
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大本山 妙顕寺 (日蓮宗) |
本山 本法寺 (日蓮宗) |
京都二十一箇本山
日像上人の妙顕寺に振り出しに、室町時代の京都の日蓮教団は繁栄する。室町時代は商工業と経済が発展するが、その資本をもつ商工業者が檀信徒となって日蓮教団も繁栄したのである。京都町衆の半分から2/3が日蓮宗となり、天文元年(1532)『昔日北華録』には、毎月2〜3ヵ寺の日蓮宗寺院が建立され、京中大方題目の巷と記録されるほどであった。
その影には、投獄され、舌を切られたり、灼熱した鍋をかぶらされるという拷問に遭っても屈するところがなかった日親上人(本山本法寺建立)など涙ぐましい布教があった。その本法寺には長谷川等伯による高さ10mの涅槃図を掲げられる大伽藍の本堂があったと聞き及ぶ。
文化と経済の中心地であった京都にあって、経済的に潤っていた町衆の支持を得た室町時代の日蓮系教団は京都の本山だけでも21ヶ寺をかぞえ、まさに破竹の勢いで全国に展開した。
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