・カダム派 (bKa'gdams)
チベット仏教を再興した指導者、アティーシャ(982-1054)の弟子が教団を形成。派祖はドムトゥン(1005-1064)。後にゲルク派に吸収されて現在には伝わらない。
アティーシャの『菩提道灯論』(ラムドゥン)は、部派仏教(小乗)から密教までの全仏教を意義あるものとして、それぞれを菩薩の実践という観点からまとめられたもの。ただし、密教を仏教が最も発展した姿だと主張している。後のチベット仏教を方向付ける。
・サキャ派 (Sa skya)
クンチョク・ギェルポ dKon mchog rgyalpo
(1034-1102)が在家の密教道場として創建したサキャ寺を本拠とする宗派。クン氏を施主とした。妻帯して後継者を設けた。
祖師 |
クンガ・ニンポ |
Kun dga snying po |
(1092-1158) |
|
二世 |
ソナム・ツェモ |
bSond nams rtse mo |
(1142-1182) |
祖師クンガ・ニンポ次男 |
三世 |
タクパ・ギェルツェン |
Grags pa rgyal mtshan |
(1147-1216) |
祖師クンガ・ニンポ三男 |
四世 |
サキャ・パンディタ |
Sa skya pandita |
(1182-1251) |
三世タクパ・ギェルツェンの甥 |
五世 |
ドゴン・パクパ |
'Gro mgon 'Phags pa |
(1235-1280) |
四世サキャ・パンディタの甥 |
これら五祖師が重要視されている。
なかでも四世サキャ・パンディタ
の格言はダライラマ6世の詩とともにチベット文学の最高峰である。
サキャ・パンディタ格言 (一部)
8 功徳ある人のところには 人を集めなくても、集まってくる。
香しい花は遠くにあっても、蜂は雲のように集まってくる。
48 偉大な人は一時的に衰えたとしても彼に心配する必要はない。
月が一時月食となっても、その直後に解放される。
49 偉大な人が敵に優しくするならば、敵自身が彼の支配下になるだろう。
多くのものによって尊敬された王が全てを守ったので、全てのものによって王として位につく。
203 たくさんの人がひとつの気持ちになるなら、弱い人でも大きな目的が達成できる。
アリの軍団は集まったことで、ライオンの子供を殺したといわれる。
※サキャ格言集 今枝由郎訳 岩波文庫(赤 90-1) [上記8のみ今枝訳]
チベット人はサキャ・パンディタをサパンと親しみを込めて縮めて呼ぶ。明晰な頭脳によって論理学(因明)を修め、詩人でもあった。その才能は仏教指導者としてのものだけでない。
1239年にモンゴル族の元がチベットに侵攻してきた。元軍は引き上げるに際して、使者をよこすように言い残した。そしてその使者に選ばれたのが、当時の仏教界随一の学者のサキャ・パンディタである。サキャ・パンディタは、まだ幼少だったドゴン・パクパを伴い交渉に赴く。そして、チベットはなんとか持ちこたえることができた。
しかし、そのことに留まらず、ドゴン・パクパは元朝のフビライの帝師となってチベット支配を代行するに至る。
・チョナン派 (Jo nang)
サキャ派の第五世ドゴン・パクパの弟子のトゥクジェ・ツゥオンドゥ Thugs
rje brtson 'grus (1292-1361)を開祖とする宗派。極めて弱小な宗派であるが、学説は特徴的である。祖師のひとりトルプパ
Dol phu pa(1292-1361)は「他空」説を説いた。これは中観仏教(一切は空であるとする龍樹の般若経系の仏教)を展開させたものであり、後述のツィンカパによって批判される。
・カギュ派 (bKa'brgyud) (カルマ派、パクモデゥ派など支派がたくさんある)
キュンポ Khyung po (990-1139) とマルパ Mar pa
(1012-1097)
はともにインドに留学して無常ヨーガのタントラを学んでチベットに伝えた。
ナーローの六法
カギュ派のナーローの六法はユングも興味を持ったそうである。日本人にとってはオーム真理教のポア(ポワ)という隠語のもととなった興味を示す人も多いだろう。
内的火 |
トゥンモ |
|
幻身 |
マーヤー |
|
夢 |
ミラム |
自分の意志で夢を作る修行 |
光明 |
ウセル |
万物は違ったものとして見えるが、根元は一つでブラフマン(梵)が作ったもので、それは光と考える。 |
中有 |
バルド |
死後四十九日までを瞑想で体験する |
遷有 |
ポワ |
死後を瞑想で体験する |
転生活仏制度
ダライラマに象徴される活仏制度であるが、最初に創設したのはダライラマのゲルク派ではなく、カギュ派の一派であるカルマ派である。初代はカルマランジュンドルジェ
Rang 'byung rdo rje (1284-1339)である。下の表では第3世に当たる。おそらく、第1世と第2世は滅後に活仏に祭り上げられたのだろう。
預言などによる転生をもとに活仏が決められるのであるが、実際には極めて政治的な配慮で次の活仏が決められていた。ともかく、独特の相承形態は氏族の教団にとって、政治的にも経済的にも権力を円滑に次代に委譲し、氏族の結束力を高め、氏族と教団の勢いを高めることと、その保持に貢献した。
例えば、先代活仏の生まれ変わりだと説明されると、施主は他の教団に移りにくい。また、教団の側も有力者の子を活仏に選んで、その有力者を施主にして教団の勢いを高めて保持できた。
1 |
ドゥスムキェンパ |
Dus gsum mkhyen pa |
1110-1193 |
|
2 |
カルマパクシ |
kar ma ba shi |
1206-1283 |
フビライの兄モンクハーンを布教 |
3 |
ランジュンドルジェ |
Rang 'byung rdo rje |
1284-1339 |
|
4 |
ルルペードルジェ |
Rol pa'i rdo rje |
1340-1383 |
|
5 |
テシンsyクパ |
De bzhin gshegs pa |
1384-1415 |
|
6 |
トンワトンデン |
mThong ba don lden |
1516-1453 |
|
7 |
チュータクギャムチォ |
Chos gragsrgya mtsho |
1454-1506 |
|
8 |
ミキュードルジェ |
Mi skyod rdo rje |
1507-1554 |
|
9 |
ワンチュクドルジェ |
dBang phyug rdo rje |
1556-1603 |
|
10 |
チューインドルジェ |
Chos dbyings rdo rje |
1604-1674 |
|
11 |
イェシェドルジェ |
Ye shes rdo rje |
1676-1702 |
|
12 |
チャンチュプドルジェ |
Byang chub rdo rje |
1703-1732 |
|
13 |
ドゥンドゥルドルジェ |
bDud 'dul rdo rje |
1733-1797 |
|
14 |
テクチョクドルジェ |
Theg mchog rdo rje |
1798-1868 |
|
15 |
カーキャプドルジェ |
mKha' khyab rdo rje |
1871-1922 |
|
16 |
ランジュンリクペードルジェ |
Rang 'byung rig pa'i rdo rje |
1924-1981 |
|
17 |
ウギェンティンレードルジェ |
dBu brgyan 'phrin las rdo rje |
1985- |
|
139歳?
キュンポの生没年は複数の資料によって確認した。990-1139ということは満139歳で遷化した?
・シチェ派 (Zhi byed)
派祖は女性のマチク・ラプキドゥンマ Ma gdig
Lab kyi sgron ma (1055-1143)である。断境説 gcod yul
(チューユル)という、心を頭頂から抜き出して瞑想の中で鬼魔に肉体を施すことを修行する。自分の肉体への我執を無くする意味がある。この特異な教義をもつ宗派も一時は勢力を持った。
・ニンマ派 (rNying ma)
古代に翻訳されたタントラに依拠するという意味で「古派」を名乗る宗派。派祖は8世紀にチベットへ仏教を伝えたパドマサンバヴァということになっているが、実際にそのような古い伝統をもっていることを否定する説もある。
ニンマ派の教義を整理したのはロンチェンパ klong chen pa
(1308-1363) である。
九乗
ニンマ派には九乗というものがある。迷いから悟りへの乗物ということから、仏教の教えを乗という。大乗、小乗、一乗などという言葉がよく知られている。声聞乗は釈尊の弟子など小乗をさし、独覚乗は独りで覚るものの誰にも説かない者をさし、菩薩乗は大乗仏教の修行者をさす。残りはタントラ仏教すなわち密教である。あとになるほど、高く深い教えとなると考えていたようだ。
方便父タントラ(無上瑜伽タントラ)は「性」に関することが多く、性的なものと忿怒をコントロールしながら、それ利用して悟りへと引入するものらしい。
どちらにしても、性的なものは、元や明(中国)の後宮の猥褻な興味をそそり、あるいは中国に高僧が招かれる度にタントラ仏教の神通力を求められたりして、チベット仏教にとっては不幸なことであったに違いあるまい。
顕教 |
1 声聞乗 |
|
2 独覚乗 |
|
3 菩薩乗 |
|
外タントラ |
4 クリア乗 |
所作タントラ |
5 ウパヤ乗 |
行タントラ |
6 ヨーガ乗 |
瑜伽タントラ |
内タントラ |
7 マハーヨーガ乗 |
方便父タントラ
(無上瑜伽タントラ) |
8 アヌヨーガ乗 |
般若母タントラ |
9 アティヨーガ乗
(1)心部(セムデ)
(2)界部(ロンデ)
(3)秘訣部(メンガクデ) |
不二タントラ |
・ゲルク派 (dGe lugs) 黄帽派
チベット仏教諸派のうち、最終的に最も優勢になった宗派である。開祖はツォンカパ・ロサンタクパ
Tsong kha pa Blobzang grags pa (1357-1419)。当初はガンデン派、ゲデン派、新カダム派とも呼ばれ、中国では黄帽派と呼ばれる。
カギュ派発祥の転生活仏制度をもととした、ダライラマ政権を基盤に強大で圧倒的な宗派となる。
開祖ツォンカパは修行時にサキャ派やカダム派の教学を修得し、帰謬派の中観哲学と、カダム派のラムリム(道次第)、密教のグヒヤサマージャ・タントラ(秘密集会)を最高のものとする宗派を創設した。
ツォンカパとその弟子、ダルマ・リンチェン Dar ma rin chen
(1364-1432)と、ケートゥプジェ mKhas grub rje (1385-1438)
を「三父子(ヤプセー・スム yab sras gsum)」とする。
転生活仏制度
1 |
ゲンドゥントゥプ |
dge 'dun gurb |
1391-1475 |
|
2 |
ゲンドゥンギャムツォ |
dge 'dun rgya mtsho |
1475-1542 |
|
3 |
ソナムギャムツォ |
bsod nams rgya mtsho |
1543-1588 |
アルタンハーンと協定 |
4 |
コンテンギャムツォ |
yon tan rgya mtsho |
1589-1617 |
アルタンハーンの親戚
モンゴル王族の子孫
チベット嫌い? 28歳で若死
カルマ派と和睦 |
5 |
ガワンロプサンギャムツォ |
ngag dbang blo bzang rgya mtsho |
1617-1682 |
ニンマ派家系の子 |
6 |
ツァンヤンギャムツォ |
tshangs dbyangs rgya mtsho |
1683-1706 |
青海湖の近くで死亡 |
7 |
ケルサンギャムツォ |
skal bzang rgya mtsho |
1708-1757 |
|
8 |
ジャムペルギャムツォ |
'jam dpal rgya mtsho |
1758-1804 |
|
9 |
ルントクギャムツォ |
lung rtsogs rgya mtsho |
1806-1815 |
|
10 |
ツルティムギャムツォ |
sdhul khrims rgya mtsho |
1816-1837 |
|
11 |
ケートゥプギャムツォ |
mkhas grub rgya mtsho |
1838-1856 |
|
12 |
ティンレーギャムツォ |
phrin las rgya mtsho |
1856-1875 |
|
13 |
トゥプテンギャムツォ |
thub bstan rgya mtsho |
1876-1933 |
|
14 |
テンジンギャムツォ |
bstan 'dzin rgya mtsho |
1935- |
1938年の資料もあり※ |