法華経は代表的な大乗仏教経典の一つである。日本にも多大なる思想的影響を及ぼした。
生きとし生けるもの全ての存在が可能性を秘めた尊い存在であり、法華経の教え一つでそれら全てを救済しようという一乗の教えである。教主は釈迦牟尼仏であるが、インドで2500年前に入滅した釈迦牟尼仏は今も仏として存在して私達をみそなわしておられる。智慧はなくとも法華信仰を貫けばちゃんと抜苦与楽と成仏が間違いなし。大雑把にいえばそのような経典である。
現世利益も説かれていて、その方面からも根強い人気がある。法華経の信仰で自身も先祖も抜苦与楽の成仏間違いなし。そのように有り難いことが説かれている経典がであり、法華経をもとにした拝み屋さんや新興宗教は大いに流行ってきた。
漢文あるいはサンスクリットで記述されているので難しそうである。しかし、現代日本語に翻訳すると難しいことはほとんど説かれていない経典である。仏教用語や固有名詞が難しいくらいだろう。宗教的センスのある方なら宮沢賢治のようにぞっこんになるかもしれない。
反面、批判精神を育む現代教育を受けた現代人は次のように思うだろう。法華経の薬の効能書きのような有り難い経文のどこに、肝心の丸薬があるのかと。
私はその回答として二例教わってきた。一つとして、伝統的な天台法華の教義による解釈である。なかんずく、それは一念三千と呼ばれるものである。もう一つは、苅谷定彦博士の梵本(サンスクリット)法華経と妙法蓮華経の違いに注意しながら、梵本法華経本来の主張を改めて検証しようとするものである。