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日蓮系の本山

他派の本山

本能寺 (法華宗本門派 大本山)

 法華宗(本門流)の四大本山の一つ。
 織田信長が明智光秀に攻められて自刃した「本能寺の変」で有名。

 永禄年間(1558-1570)の頃は洛中で本能寺が最も栄え本国寺(本圀寺)・本法寺が次に繁昌していたと記録もある。鉄砲が伝来した種子島に末寺があることで、武将の出入りも多く本能寺の地位を高めた。派祖日隆上人の遺命により、本能寺は布教の道場、尼崎本興寺を教学の道場とされてきた。

 度重なる戦災や火災に見舞われ、幾たびも伽藍を再興したが、現在の本堂は昭和3年(1928)の落慶。

[場所] 京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
 

多宝富士山 要法寺 (日蓮本宗 大本山)

 六老僧日興上人の富士門流の久成院日尊上人(1265-1345)の開創。日尊上人は日興上人の孫弟子にあたる。奥州、出雲の布教に功績があり、京都への上洛 道中に遷化された(亡くなられた)日目上人の遺言により上洛し、上行院を創建した。やがて、同じく富士門流の日大上人も京都に別に上行院を建てた(後には住本寺と 改称)。やはり、天文法難によって上行院も住本寺も焼失。再建に当って広蔵院日辰上人は両寺を合併し要法寺を建立した。

 その後、洛中の要法寺は富士門流の中で栄えた。大石寺(日蓮正宗)の15世より23世に至る110余年間は要法寺の系譜によって継承された。

 明治32年(1899)大石寺派(日蓮正宗)を除き、要法寺が中心となって富士門流は本門宗となった。昭和16年には政府の宗教統制によって一時は日蓮宗に合同する が、戦後離脱し日蓮本宗となり現在に至る。末寺は80ヶ寺。

[場所] 京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町448



妙満寺 (顕本法華宗 総本山)

 顕本法華宗の開祖日什(1314-1392)が開創した寺。 日什上人はもと天台宗の能化であり、天台宗僧侶の指導者の立場であった。しかし、日蓮聖人の『開目抄』『如説修行抄』を読んで感動して66歳になってから日蓮宗に改宗をした。ただし、日陣上人と同じく勝劣 (本勝迹劣)を唱え一致派(日蓮宗)と袂を分かつこととなる。妙満寺も京都二十一箇本山の一つとして繁栄した。

 妙満寺が洛北の岩倉に移ったのは昭和40年。ここに顕本法華宗の宗務院や信行道場が置かれている。

 

[場所] 京都市左京区岩倉幡枝町91



本禅寺 (法華宗陣門流 本山)

 山号は光了山。日陣上人(1339-1419)が本国寺(本圀寺)から分流して、応永13年(1406)、京都四条堀川に建立された。天文法難によって他の法華本山と同じく壊滅的被害を被ったが、本成寺(陣門流の新潟にある本山)の九世日覚が上洛し、後奈良天皇に法華経を講じその功によって四条堀川に本禅師を復興した。しかし、豊臣秀吉の命により現在の御所の北東に移転した。

 開山の日陣上人はもと日蓮宗の大本山本国寺(六条門流・本圀寺)を開山した日静の弟子であったが、日什上人(顕本法華宗開祖)と共に勝劣(本勝迹劣)の教学をたてて本国寺から分立した。

[場所] 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町394



本隆寺 (法華宗真門流 総本山)

 勝劣派の一つ法華宗真門流の総本山。京都二十一箇本山。山号は恵光山。長享二年(1488)、日真上人が教学上の争論のため妙顕寺を離れ建立した寺院。本妙興隆寺といったが略して本隆寺いう。法華宗真門流の宗務庁、法華宗真門学林、宗学研究所がに置かれている。

[場所] 京都市上京区智恵光院通五辻上る紋屋町330



妙蓮寺 (本門法華宗 大本山)

 山号は卯木山。勝劣派の一つ本門法華宗の本山。創立は日像上人の教化を受けた酒屋柳屋仲興が延慶2年(1309)に庵を設けたことに始まる。当初は妙法蓮華寺とい寺号であったが、後に略して妙蓮寺となる。

[場所] 京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875

 

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