近松門左衛門の出生地についてはバラエティーに富んだ諸説がある。
京都、近江(滋賀県)、肥前唐津(佐賀県北西部)、越前(福井県東部)、三河(愛知県東部)、北越(新潟県・富山県)、長州萩(山口県萩市)、雲州近松村(島根県東部・出雲)などである。
それぞれを示す近世の文献は ここをクリック して下さい。
それぞれの出生地を示す文献は、享保九年(1724)に亡くなった近松門左衛門に対して、数十年経ってからのものである。存命中や没後すぐの資料は全く存在しない。
その作品が名作として全国に広まり定評が確立するにつれ諸説が出できたのだろう。
これらに対して、近年の次のような研究がなされて越前説が定説となってきた。
「近松門左衛門の所出に就て」 田辺
密蔵 ※
(『国語と国文学』 大正14年8月号)
近松門左衛門の出身は越前であることを「杉森家系譜」をもとに論考。近松の父(信義)は、福井藩主松平忠昌に仕える武士であり、後に浪人して京都に住んだことがほぼ明らかとなる。 (※
郷土史家)
「近松門左衛門と杉森家系譜について」 森
修 ※
(『国語国文』昭和33年10月号)
杉森家系譜のほか福井藩の記録をもとに、越前と杉森家の関係を明らかにした。 (※
大阪市立大学文学部教授)
よって、広済寺のパンフレットなどでも越前鯖江説にのっとったものとなっている。
ただし、長州萩説を主張する論文も最近出されておりその論文を掲載しておく。
長州萩説の論文を見られる方は ここをクリック して下さい。
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