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近松門左衛門

時代背景

 

歌舞伎

歌舞伎の語源

 歌舞伎という漢字は、歌(音楽性)、舞(舞踊性)、伎(技芸、物まね)をそれぞれ意味し、歌舞伎の特質をうまく表現している。しかし、この漢字表記はもともと当て字である。

 歌舞伎の語源は、傾く(かぶく)である。※1 文字通り、「かたむいている」の意味であり、並み外れたもの、常軌を逸するものといったもの、そのような風俗をいう。

女性による歌舞伎

 長い戦国時代の戦乱の犠牲者をまつる「風流踊」が全国的に大流行したが、それが歌舞伎踊の母胎である。

 そして、出雲大社の巫女を名のる女性芸能者が京都で芸能を演じたのに起源といわれる。※2 やがて、天正十六年(1588)五月には、北野神社松梅院で勧進興行が許可されている。当時は熱狂的に支持されたようである。これを「お国歌舞伎」という。男性だけで演じられる現在の歌舞伎と違い、初期の歌舞伎は女性によって演じられた。

売色と禁令

 時代は長い戦国から平和な時代に移行する時代の風俗の特質として、アプレゲール(戦後の気侭で退廃的な傾向)ということがある。「かぶく」が語源の並はずれた風俗としての歌舞伎初期は退廃的な傾向があった。お国歌舞伎は男装したりして、官能的な踊りを演じていたようである。

 そのような歌舞伎は北野神社だけではなく、四条河原でも演じられるようになり、評判は全国に広がった。その人気に追随して、大勢の遊女や女芸人の歌舞伎の団体が作られ、諸国を巡業するようになった。楽器も笛と太鼓だけでなく、三味線も加わり華やかさを増した。当時の三味線は外国から渡来して間もない斬新な楽器である。それらは、「女歌舞伎」「遊女歌舞伎」と呼ばれるようになり、なかには売色をするものもあった。

 このような女性の歌舞伎を、幕府は風俗を乱すとの理由で、寛永六年(1629)に他の女性芸能とともに禁止した。

 それに代わって急速に台頭したのが「若衆歌舞伎」である。
 女性に似せて前髪をたくわえた美少年たちによる踊りや狂言の芸能は、すでに女歌舞伎全盛時代から併行して行われていたが、女性芸能の禁令で台頭してきたのである。「童男のかぶき跳り」「童かぶき跳り」などが『時慶卿記』に記録されている。しかし、これも売色を兼ねていたようで、女性の歌舞伎と同様に承応元年(1652)禁止された。

歌舞伎の萌芽

 さて、上記の歌舞伎は禁止されたが、「物真似狂言尽し」を演じるということが承応二年(1653)に許可される。これが「野郎歌舞伎」である。「物真似狂言尽し」は写実を中心とする演劇要素の濃いもので、女歌舞伎や若衆歌舞伎とは本質的に違った現在の歌舞伎へと展開してゆくこととなる。

 この展開には芸の深化とともに、優れた脚本が必要である。そこで待望されるのが、近松門左衛門のような優れた脚本家である。

 偶然であろうが、この歌舞伎が許可された承応二年(1653)は近松門左衛門の生誕年である。

※1 「傾く」という動詞の連用形が名詞化したもの「かぶき」 (平凡社 世界大百科事典 )
※2 『言経卿記』


 

浄瑠璃

古浄瑠璃

 浄瑠璃の起源については定かではないが、十五世紀後半から語られだした『浄瑠璃物語』が実質上の起源とされている。『浄瑠璃物語』は『十二段草子』『浄瑠璃十二段』『浄瑠璃姫物語』とも呼ばれ、浄瑠璃姫と牛若丸の悲恋を語る。初期には琵琶などの伴奏で語られていたようだが、やがて三味線で伴奏されるようになって、人形芝居もされるようになった。義太夫節が成立するまでを古浄瑠璃という。

 『浄瑠璃物語』の他に「説経浄瑠璃」も中世は新しい庶民芸能であった。平安時代中期頃に始まるとされるこの芸能は、文字通り仏典を語る語り物であった。声明や和讃などを取り入れたこの芸能が、鎌倉時代末期には変容して説教とは趣を異にした音曲としての語り物となった。胡弓、後には三味線をもちいて語られるようになる。

 さて、古浄瑠璃は17世紀前半まで中世的な作風が色濃く残っていたが、近世の演劇的方法を最初に打ち出したのは、江戸の和泉太夫らによる金平浄瑠璃である。
 大坂で金平物を得意とした井上播磨掾の門下から、竹本義太夫が生まれた。一方、中世色の濃い説経風の古浄瑠璃も民衆の根強い支持を保ち、古典的で優雅な題材を扱いつつ現代風俗をも摂取して浄瑠璃の地位を高めた宇治加賀掾は、古浄瑠璃と義太夫節の橋渡し的存在となった。

義太夫節

 義太夫節は竹本義太夫が創始した浄瑠璃の流派。人形芝居の音楽として17世紀後半に成立し、文楽人形浄瑠璃の音楽として、ひろく親しまれることとなる。
 貞享元年(1684)、竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を創設。義太夫は井上播磨掾の系統をひき、宇治加賀掾の技法・曲節を摂取して、人間を語る近世的な浄瑠璃を確立した。宝永二年(1705)年、座付作者に近松門左衛門を迎えることになる。

 

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