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近松門左衛門 |
生 涯 |
近松門左衛門の一生を語るにあたり、筆者としては一つの説に注目している。その説が学術的にどう評価されているかどうかは知るよしもないが、生誕から京都時代までを一番すっきりしたストーリーで説いているからである。生誕から京都までを、その説に従って書き進める ※0。 |
生誕
京都移住そして作家へ
晩年
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近松門左衛門画像辞世文 近松門左衛門性者杉森字者信盛平安堂巣林子之像 |
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父親の浪人、京都への移住、京都で仕えた公家が亡くなり、苦渋の選択ともいえる武家から浄瑠璃や歌舞伎の作家へと転身を果たし、不朽の名作を残したのが近松門左衛門である。 |
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※0 佛教大学国文学部国文学科長友千代治教授の講義(平成11年)による。 ※1 松平忠昌の庶子(側室の子)。正保2年(1645)吉江藩2万5000石の藩主となる。延宝2年(1674)福井藩を相続することになり、吉江藩も福井藩に組み込まれた。 ※2 「杉森家系譜」には甲乙丙の三種がある。 ※3 越前藩『諸士先祖之記録』(享保六年十一月)福井県立図書館蔵 ※4 『元禄大平記』五・四 元禄十五年三月 ※5 山岡元隣 江戸前期の仮名草子作者・俳人。伊勢の人。北村季吟に和歌・俳諧を学び、著には「宝蔵」などの俳書とともに、「徒然草増補鉄槌」など古典の注釈も多く、仮名草子に「他我身之上(たがみのうえ)」「小巵(こさかずき)」などがある。(1631〜1672) ※6 一条恵観は後水尾天皇の弟。 後陽成天皇(1571-1617)第九子。一条家を継ぎ、寛永六年従一位に進み、摂政を二度歴任。慶安五年入道し「恵観」を名乗る。寛文十二年(1672)六十八歳で入寂するまでの二十一年間仏門にあった。 |