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檀信徒情報 お寺の役目

お寺の役目は?

 先祖をまつるところ。祈祷をしてもらうところ。お寺の役目について、一般にはこのような認識のみかも知れません。お寺について考えてみましょう。

お寺の起源

 仏教寺院は、インドの雨期に一定の場所に留まる安居(あんご)が起源だということです。この雨期に留まる場所を精舎(ビハーラ vihara)といいます。当初は雨期だけの仮住まいであったものが、やがて建物が建立されるようになりました。お釈迦様の入滅から仏舎利塔がインド各地に造られましたが、この仏舎利塔が釈尊礼拝供養と説法の場として在家信徒の信仰の中心になり、やがて出家者の僧院にも仏塔が建立されるようになります。また、ヘレニズム文化の影響で仏像が創られ僧院に取り入れられるようになります。さらに、寺院のいくつかは大学の機能を果たしてゆきます。

 中国で寺とは官舎の意味です。初めて西域から来た僧が官舎に仮住まいしたことから、僧の住居をも寺と呼ぶようになったといわれます。

お寺の本来の役目

 ここまでを考えるとお寺は、信仰による礼拝の対象をまつる場所であり、僧侶の住む場所であり、説法の場所であり、仏教をはじめとした学問の研鑽の場所であります。そして、そこは地域の文化センターの役割も果たしていました。それが本来あったお寺の役目です。

近世のお寺

 江戸時代になると、幕府は寺院に対してある施策をします。キリスト教を禁教とした幕府は全ての民衆に対して、それぞれ仏教の宗旨の檀那寺を定めさせました。檀那寺は檀徒が宗門の檀徒であることを証明する文書を提出する役目を担いました。これにより、近世の日本人はすべて仏教徒となり、先祖以来の固定した宗旨と檀那寺をもつことになりました。
 近世の寺院は地域文化の中心となり、民衆の死者儀礼、地域行事、生活倫理など、生活文化に大きな役割を担いました。

 檀家の多い寺院は安定した収入に支えられ、仏教の学問も発展しました。反面、寺檀制度により寺と檀家の関係が固定しているので、布教により信徒を獲得することが難しくなりました。このことは、布教をしなくても安定した寺院運営ができることでもあり、布教や研鑽を怠ける原因にもなってしまいます。それが寺檀制度の負の遺産です。

 さらに、私見ですが問題となるのが神祇勧請の展開です。寺と檀家が固定されていて布教が出来ないとなると、境内に祀る神祇の御威光を強調して、その利益を求めてやって来た参詣者を信徒とすることがなされたのではないかと考えます。まして、江戸時代には祈祷が隆盛していたようです。

 本来の仏教は不思議な力をもつ神々の存在は否定しませんでした。ですから神祇の勧請については異を唱えません。しかし、祈祷は諸刃の剣です。その短所が、近代から現代に及んで仏教界を蝕んでいるのではないかと憂慮しているのは筆者だけでしょうか。

近代から現代の寺院

 明治維新後、このような寺請制度は廃止され、逆に神仏分離と廃仏毀釈にさらされて仏教寺院は大打撃を受けました。寺檀制度はしだいにゆるみ、現代に至っては形骸化しつつあります。

 現代は信仰の自由が確立されています。これは、寺檀制度の名残りに安住している寺院にとっては危機です。反面、自行化他の本来の寺院ありかたを求める寺院僧侶にとっては好機です。
 筆者自身、年輩の檀信徒から「余分なこと考えないで先祖供養と祈祷をしたら?」と思われているのではないかと思います。しかし、私は力及ばずとも後者の僧侶でありたいと思っています。

これからの寺院

 先述したとおりインドの本来の寺院は、礼拝の対象の本尊を祀り、僧侶の住む場所であり、布教の場所であり、仏教をはじめとした学問の研鑽の場所であります。
 そこで、これからの寺院を考えればそのことを基本にすえなくてはならないと思います。問題は研鑽と布教です。

 「先祖供養と祈祷してくれたらそれだけでよい」という声が聞こえてきそうですが、私は次のように考えます。お釈迦様の教えにより生きている私たちに功徳があるから、故人にも功徳があるのでしょう。お釈迦様の教えにふれた神祇は歓喜してその不思議な力を発揮して下さるのでしょう。そのお釈迦様の仏教の根本を啓蒙しないで、先祖供養や祈祷に終始すること仏教徒として怠慢ではないでしょうか。

 では、そのお釈迦様の教えはどのようなものなのでしょう。
 私たちには思い通りにならないという苦(duhkha)が満ちています。その苦しみの原因はなんであるか、その原因を制するにはどうしたらよいのか。それにはどういう実践があるのか。このことを説くのが仏教の根元です。住職として、私の思考のベクトルはそのような方向に伸び続けています。
 近代までの日本仏教は伝統的な宗派仏教を継承して弘めるだけでよかったものが、最近は学術的にインド、中国の仏教が検証されています。それらをどのように受容するかは先送りできない現代仏教の課題です。このホームページはそのようなことを加味して作成されています。

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