敦 煌 1
● 敦煌へ
西安咸陽国際空港から、早朝7:30のジェット機(WH2231)で敦煌に向かう。西安→敦煌はこの早朝便しかないそうである。機種はあまり見かけない胴体の上側に主翼がついた4発ジェットエンジンの飛行機である。翼が邪魔にならないから景色を観るには好都合である。イギリス製の
BAe146 とかいう機体である。
この飛行機、乗った瞬間に汗の腐ったような臭いがした。換気もせずに犬を部屋で飼っている家の臭いか・・・。深刻な臭いではないが気になった。さらに、ハエが数匹が機内を飛行していた。
西安を飛び立ち、約2時間半の飛行である。
最初は、グランドキャニオンのような景色だった。麦畑の平原を川がえぐって深い谷を作っている。やがて、万年雪の高山の上空を飛ぶ。ここはアラスカの上空を思い出すほど真っ白な雪原だった。6月上旬というのに。
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西安→敦煌で利用したイギリス製
BAe146 |
雪山の入口 これから先は銀世界(悪天候で写真なし) |
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敦煌の飛行場 田舎のローカル空港! |
飛行案内は黒板 |
さて、雪山を越え、はげ山の山脈を越えると、さらに不毛の砂漠があらわれる。そして、緑のオアシス。空から観ると敦煌はオアシスであることがよくわかる。着陸をすると、なんと飛行機は滑走路上で左回りのUターンをするではないか。便数が少ないから問題ないのだろう。そして、空港ターミナルへ。タラップを下りててくてく歩くと空港ビル。なんか、田舎の空港で旅情をかき立てる。フライトの掲示板も黒板にチョークで記載されている。
● 玉門関
昼食後、玉門関へ向かう。
とにかく敦煌の中心から遠い。敦煌からゴビ砂漠を西北に70〜80kmのところにある。幸い、現在は有料道路があってバスで行ける。ちょっと前までは、四輪駆動車でないと行けなかったとか。ただ、この道路は一台いくらではなく、乗客一人につき何十元という有料道路らしい。
北西方向に蜃気楼や逃げ水※1が見える。舗装路も玉門関に近くなると途絶えて、ダートになる。そうこうしているうちにトイレ休憩をする場所があり、玉門関とは目と鼻の先になる。
この玉門関であるが、歴史を知らないと、あるいは歴史に興味がないと、ただの煉瓦と土の塊である。漢の武帝(BC141〜BC87)のとき長城が築造され、玉門関はBC108‐BC107年頃その西端に設けられた。南の陽関とともに西方に通ずる重要な関門。その後、関は移動したが、玄奘三蔵がインドに向けて通過した関はここである。
※1 逃げ水(地表の熱による光の屈折で遠くに湖や川など水が有るように見える。もちろん、どこまで行っても水にはたどり着けない)
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標識とともに |
南方から臨む |
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かなり崩れている |
西域と通じる西側の門(穴?) |
● 漢代長城
玉門関のすぐ近くには、漢(BC202-AD220)の長城跡がある。
現在の立派な万里の長城はほとんどが明代(1368‐1644)に築かれたものであるが、この長城は漢のものであり2000年間の風雪にさらされて、かなり風化している。
● ラクダ草に注意
日本では歩いていてズボンが草に触れても痛い思いをすることは滅多にない。しかし、このラクダ草は別だ。触れた瞬間にトゲで痛いだけでなく、針のように長いトゲが抜けてズボンの生地に刺さったまま。取り除かないといつまでもチクチクする。
現地ガイドによるとこのトゲのあるラクダ草を食べるのは文字通りラクダだけだそうだ。ラクダは、下顎にトゲを刺しながら血と一緒に葉を咀嚼して飲み込むそうだ。
右の写真で、長いトゲが見えるでしょうか。
● 陽関
玉門関も敦煌から遠いが、この陽関も遠い。
陽関といっても訪れる場所は、烽火台・・・要するに狼煙(のろし)を上げる台の跡に案内される。
現地のガイドによると、この場所から見下ろせる場所にかつては街道と関所があったとのことである。砂漠のキャラバン隊は、これより西に砂漠を進むと約400kmも先の楼蘭(ろうらん)までオアシスがないそうだ。
陽関は、前漢時代(BC94‐BC93頃)に設置された関所で、北の玉門関と並び西域に通ずる関所。ある時期には玉門関よりも重視されたようだが、後漢になると廃止された。しかし、唐代には西域南道(天山南路の南道)の起点として再び繁栄した。
東アジアの仏教徒として、仏教経典や高僧の多くが、玉門関と陽関を通過して来たのではないかと考えると、無味乾燥な大地に辛うじて立っている朽ち果てた遺構も、感無量の遺跡となる。
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頂上には何の変哲もない狼煙台 |
これらの建物は恐らく最近のものだろう |
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馬やラクダに乗ることもできる 30元だっけ |
かつてはこの遙か向こうにシルクロードと関所が |
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