近松長州生誕説

近松門左衛門の生誕地として鯖江説とともに有名な説に長州説があります。以下は著者宮原英一氏御本人の許可を得て、そのまま転載します。

近松長州説の学問的研究

山口県美祢市大嶺町祖父ヶ瀬 
宮原 英一

 標記についての研究発表を、一九九二年第七七回地方史研究大会でおこない、その後一冊の本にまとめて「近松門左衛門の謎」として、大阪の関西書院より刊行し、幸運にも、中央の日本図書館選定図書審議会で、一九九四年度日本図書館協会選定図書に、選定されるという光栄に浴しました。ひとかたならぬご声援を、ここに感謝します。

 また関係諸氏のご尽力により、事後十年間、文化庁後援による近松祭が、「近松イン長門」として、長門市を柱に、毎年おこなわれることになり、ふるさと山口県のあかるい話題になりました。資料の裏づけもなく、推測で発言すると、説が混乱しますので、その後の踏査で発見した資料によって、その後の問題を再構成します。

(イ)萩郷上資料館において、萩城下町居住者人名録で、近松の幼名杉森平馬の元服後と推定される杉森平兵衛が、萩三の丸追いまわし筋の、椙杜八郎の役宅に住んでいる事実を、ついに発見しました。 そこは波多野家や冷泉家ほかの萩藩の有名な重臣ばかりの役宅がならぶ通りです。この発見は、長年のあいだ裏づけがないとされてきた近松長州説の、近松の幼名杉森平馬が椙杜家の子であるとする霧の中の伝承が、けっして根拠のない架空のロマンではなく、資料として確実に裏づけられたという、本当にうれしい資料の発見でした。

(ロ)椙杜の旧姓は、周東町杉森家でした。したがって、唐津近松寺から還俗した平馬は、再び椙杜姓をつぐことを許されず、椙杜家にありながら、生涯にわたり旧姓を名のったことが、この資料にてわかります。

(ハ)「毛利に嫁いだ越前藩千姫のおつきとして、越前藩にいたのではないか」という推理も成りたちますが、越前藩家臣の記録に、杉森平兵衛がいたという資料は、現段階ではまったく存在しません。

(二)また小学館発行の日本古典文学全集に、掲載されている近松の肖像画は、椙杜家の家紋「鷹の羽ちがえ」であり、家紋を盗用することはゆるされなかった当時からして、彼は文豪として世間に出てのちも、おのれを武家の椙杜家家紋を、着用する資格を有する武家として、肖像を公表しています。 椙杜家が越前藩につかえたという、記録がないうえ、椙杜家家紋の羽織を着る近松が、越前藩に関わりがあったことを、証明する資料がない以上、近松が越前につかえたという説は、まだ資料的には成立しません。

(ホ)別の資料から考えるならば、当時の毛利家は大膳太夫として、後水尾帝以後、衰退した朝廷の賄役をつとめ、御所そばのニ条河原あたりに、長州藩屋敷をかまえています。平兵衛こと幼名平馬は、その京都長州屋敷にて、三塊九卿(一条邸をふくむ)の台所役として、朝廷より雑掌(従六位・註・江戸の近松碑)として、たちはたらきながら、ひまを見つけ、山岡元隣の句会「宝蔵」にも顔をだしたと解釈できます。

(へ)京都と長州の特産物の運搬は、まだ当時は船便が主体であり、長州から北前船で若狭湾経由、琵琶湖をへて、入京という運送経路を、往復したため、のり継ざ待ちのため、越前にたびたび、かつ、かなりの期問、滞在したことが推定されます。

(ト)したがって、この場合、近松長州説と越前説が発生するのは、ごく白然なことと解釈できます。

(チ)なぜ(へ)の発想をしたかというと、単に近松だけでなく、柿本人麿、古くは継体天皇まで、北浦説と越前説があるからです。だれでも知っている移動に長い期間をかけたこの海路を考えると、これらはいずれも、オホーツク海にいたる、暖流の流れを利用した、船による北上船路の、北浦発-若狭湾の越前経由-水路にて京都入りという、当時の運送経路による、柿本人麿、継体天皇また近松の、長州説と越前説の発生と考えられます。柿本人麿、継体天皇、近松、それぞれ越前に、別の滞在地が実在したと考えられます。

(リ)とりわけ萩毛利家は、系図資料としては、登佐子姫が越前にとつぎ、その娘が再び萩藩にとつぐという血族関係を重ねています。越前は近松の往復だけではなく、江戸にゆく参勤交代のための山陽道とはべつの、萩から京都の長州屋敷に、荷物を水路運送する人々の、古来からの重要な中継滞在地であったからです。それは本来は、二条中将をつれた京都公家であり、京都には庇護者の多い大内氏が、けっして下関ではなく、わざわざ北浦の仙崎港をめざして、迷走した理由でもあると推定されます。

 そうした海の流れを、主体にした交通を考えるならぱ、京都長州藩屋敷と萩藩を往復する近松もまた、越前に逗留、在宿期間が毎年あり、長州説とならんで、越前説が存在するのは、ごく当然です。

(ヌ)また長門市に椙杜屋敷ゆえの、近松誕生碑もあり、豊田誕生説資料と対立するかのように考え勝ちですが、付近で幼児期の近松の、生育とかかわったとされる岡本家(もと木村姓。あとに出る大坂屋の旧姓も木村。「近松門左衛門という人」(NHKブックス)に「近松の父は木村長門守というある教授の説」が紹介されていて、近松の生育とかかわったとするこの木村諸家は、当時は木村長門守を名のっていたと考えられ、興味深いものがあります)に招かれ、事情をうかがったところ、ここもやはり、豊田に女が逃れて、寺侍の家でうまれたという伝承があります。当時、出血をともなう出産は、当主の宅内ではされず、別に建てた産所でうむ習慣でした。したがって、彼の孤々の声をあげた場所としての豊田神上寺ふもとの近松屋敷あとと、彼が所属するイエとしての長門市椙杜私宅の、彼の誕生碑とは、別に対立するものではないことが、あきらかになりました。この両本家の付近の茶畑には、あどけない近松が、成長後に劇化したと倍じ得る、情事ゆえに生を傷つけた無名の庶民の、近松劇と同じ事件が発生しています。なお資料として、幼い近松の生育に、かかわったとされている両本家の家紋は、人間国宝とされる、人形浄瑠璃吉田蓑助師匠の、豊竹座の幕の紋と同系の「九枚笹」(藤原北流)です。

(ル)また深川の近くの川棚を、現地調査したところ、非常に歴史の古い人形浄瑠璃一座若嶋座の記録が現存しています。若嶋座の常うちをした祇園神社も、歌舞伎発祥の地とする教育委員会の碑とともに現存しています。この川棚一座は、藩主より士分として、公営免許を拝領しており、殿様観覧の記録もありこの地大津が長府藩主、萩藩主と領主が交代してゆく時代、各藩主の臨席によるお側衆の観覧のコケラ落としを、長門市にいまも現存する、希有というほかない古代ギリシアの、円形劇場型の楽桟敷ですませたのち、西日本全域への、巡演活動にまわったのでした。

 大坂の蜀山人揮毫一の近松碑にある、近松の親友錦江は、名優松本幸四郎の俳名であったことは、冒頭の拙著に公表しましたが、川棚資料によれぱ、川棚雁次郎といわれた市川団次は、市川団蔵の門下です。そして「川棚のいてうか、いてうの川棚か」と世にうたわれた一座の名優松本銀杏(いちょう)こそは、なんとこの松本幸四郎の門下の名女優でした。この若嶋座は、大坂から主演男優をまねいて、彼の終生その指導をあおいでいて、近松劇をたくさん上演しています。大坂で活躍している、無類の世話好きとされる長門深川出身の近松が、若嶋座の大坂興行におとずれ、一座に大坂の舞台俳優の、斡旋をしたことが、これでわかり、世話好きであったとされる近松の姿が、ほうふつとしてきます。当時としては一世一代の檜舞台、大坂道屯堀の興行をさせ、若嶋座を名実ともに、西日本随一の劇団にした、大坂ぐらしの、埋もれ火人生をよしとする劇作につくせぬ、黙々とした陰の苦労があったことを、ふと想うとき、一座が東洋のシェイスクピア近松の薫陶により、いかに西日本有数の劇団として活躍したか、川棚の記録に躍如としています。日本が対アジア交流でさかえていたころ、北浦一帯は西日本屈指の劇団を擁する、中世山口県の文化のセンターでした。幕末いらい、百数十年を経て、ふたたび日本が「脱欧入亜の時代」をむかえた現代、ひとしおの感慨をもって、ただ凝視するのみです。

(オ)拙著「近松門左衛門の謎」をベースに、下関先帝祭近松発案説を研究されている、沢忠宏氏提供の資料を分析すると、当時下関で有名であったこの街の舞妓たちは、下関の大坂屋劇場で、出演しており、それぞれの遊女は、死亡の後、別の事件を取材した近松の、鎮魂のために執筆した戯曲の、ヒロインの名として、それぞれの名のまま、登場しています。色道大鑑ほかをしらべると、当時はこの付近は、長崎の丸山、京都島原を上まわる華やかな舞妓さんの街でした。またこの大坂屋劇場に、近松がかっていた、近松寺のある肥前唐津藩の蔵屋敷があったことを、下関のみもすそ川美術館に、現存する石碑により確認できました。沢氏の研究によると、大坂屋は近松の出身である椙杜家の親戚です。またその稲荷町舞妓街の中心にある稲荷神社には、井原西鶴がお参りした記録があります。今まで西鶴研究では、西鶴と近松の親交の、発端の場所がどこからなのか、霧の中でした。近松が親戚である大坂屋の、肥前唐津藩の蔵屋敷にいて、大坂屋劇場の舞台劇の、シナリオを書いていたとすると、あでやかな舞妓さんたちを、大勢ひきつれて、稲荷神社にお参りする、十歳上の井原西鶴と、近松の出あいの場は、ここ稲荷街の舞妓のなかになり、近松はこの大坂屋劇場と楼閣で、井原西鶴から、戯曲つくりの手ほどきを、うけたことがわかります。近松の作品への西鶴の影響の研究が、ここの出会いをキイワードに、今後また進展します。なお、死後、近松戯曲に登場する舞妓さんたちのモニュメントは、東霊苑に今もたくさん現存しています。また江戸時代と考えられる、もはやくずれかけて緊急保存措置を必要とする埋蔵文化財である珍しい歌舞伎の人形が、発見された亀山八幡宮は、歌舞伎発祥とされる川棚の祇園とつながっていました。

 また稲荷神社には、近松の平家女護ケ島に、登場する平清盛の愛人で絶世の美女とされる常磐太夫の碑が、大坂屋常磐太夫の名で現存。女護ケ島とは、当時の遊廓の隠語であり、壇の浦合戦のあと、白拍子になった舞妓たちのいる大坂屋劇場の、付近一帯にあった稲荷町楼閣で、近松がすでに、平家の女官を、取材していた事実がわかります。この常磐太夫は、先帝祭の上ろう道中の花形であり、大坂屋は、近松の出身である椙杜家の、親戚であるところから、先帝祭がいままで、永統するだけの魅力をもっている理由がわかります。仕掛人は唐津藩屋敷と大坂を往復していた若き文人近松門左衛門と、年上の井原西鶴。後世の日本が世界に誇る、江戸時代の二大天才の合作であったと推定できます。(山口県各地の俗謡、八百屋お七と西鶴との関係については、山口女子大学国文学教授竹野静雄氏が、同大学の研究誌に興味深い論文を、執筆されていますのでご参照ください)

(ワ)なお、近松研究では最高権威の、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館長の鳥越博士が、すでに長門市の市報に、市に公式に近松係をおくように、という提案をされています。

 以上、近松長州説のその後の研究成果と、現況についてご報告しておきます。(長門市近松懇話会委員)

 付記。なおこれ以前に発見した近松資料は拙著「近松門左衛門の謎」(大阪・関西書院発行)または第七七回地方史研究大会で、研究発表に際して、当日参加された会員に会場配布した資料をご参照ください。

 追記。「歌舞伎発祥の地・教育委員会碑」とされる川棚一座は、島根県から俳優がきており、武家姿踊りで、初登場したとされる歌舞伎の元祖「出雲のお国」は、長門に今も伝わる「南条踊り」を、この楽桟敷で踊っていたものが、一座とともに上阪、道頓堀劇場の晴れの舞台に、颯爽と姿をあらわしたとも解釈され、人形浄瑠璃田部から歌舞伎発祥の川棚一座と豊竹座につながる岡本家に伝わる殿様拝領の、九枚笹裏紋の紋付き。およびこの楽桟敷の、日本演劇史に占める価値は、われわれの想像をはるかに上まわる、かけがえのない貴重な史蹟であると考えられます。

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