法華経の成立

法華経の成立した時代

 法華経は初期(第一期)大乗仏教の時代に成立した経典であると仏教学者は考えている。初期大乗でも、阿弥陀経、般若経(小品系)の次に成立した。法華経が成立した時代は紀元50年から150年あたりにかけて成立したと考えられるそうだ。

 竺法護が『正法華経』を漢訳したのが、286年である。それ以前には中国あるいは中国西域(シルクロード)に法華経が伝わっていたと考えられる。

●法華経の成立した場所

 法華経がインド圏で成立したことは論を待たないであろう。サンスクリットの写本が、ガンダーラ、ネパール、中央アジアで多数発見されているし、インド圏の論書に法華経の引用もある。

 ただ、インドのどこで成立したかについては、インドのカースト制度の及ばない辺境地域ということが言われることがある。その理由として『妙法蓮華経信解品第四』の「長者窮子の喩」がとりあげられる。窮子がトイレ掃除から始まり、財産の管理を任せられる職業にまで登用されることが、生まれが職業を決するカースト制度のインド社会では考えられないとのことである。

 しかし、一方では次のように考えることもできる。釈尊の当時は、インドの伝統的なバラモン教の統制が弱くなり、思想的に自由な空気があった。仏教やジャイナ教がおこったのもこの時代である。経済の進展により、商人のなかには王権が一目置くような豪商も現れる。庶民階級のヴァイシャである豪商は、司祭者のバラモンや王族のクシャトリヤに対する相対的地位を高めていたとも推測できる。

 後に、仏教はインド全土に広がり一大勢力をもつに至り、バラモン教は相対的に力を失っていたと考えられる。あるいはインドの一部がギリシャ系の国王の統制下となったこともある。そのような中では、カースト制度が揺らいだことも想像できる。また、釈尊は四姓平等を説き仏教(出家)教団内にカースト制度を持ち込ませなかった。その仏教がインド全土に弘まった。

 そのようなことを考えれば、インド文化圏のまっただ中で、長者窮子の喩えが比喩として登場する可能性も排除できないと考える。

●法華経を成立させたのはだれか

 先述の通り、法華経の成立は紀元50年から150年あたりだと仏教学の学者は考えている。しかし、釈尊の生没年は、紀元前BC463-BC383年頃(BC566-BC486、BC624-BC544説もあり)とされる。少なくとも、釈尊の時代と法華経の成立には500年の隔たりがある。歴史上の釈尊が説かれたものでないことは自明である。もし、釈尊の入滅直後に法華経があったならば、部派仏教の経蔵に入っていてしかるべきだし、その論書にも解説や引用がなされているはずである。

 では誰が編纂したのだろう。現状では、インド仏教学的な考察をもとに推察するしかない。そのような推察でもっともらしい講義を受講したことがある。それは次のようなものである。あくまで推察の域を出ないが述べてみる。

 釈尊の入滅から数百年ほど経った紀元前後のインドでのこと、ある熱心な仏教徒たちがいた。彼らは、興起しはじめた大乗仏教(阿弥陀経や初期般若経)にも、保守的な部派仏教(小乗)の教義にも満足することができなかった。
 自分たちはどのような教えを、どのように修行すれば、ニルバーナの境地を得ることができるのか。そのことを、仏舎利塔を供養し、瞑想し、学問をしながら思惟していた。釈尊に直接尋ねたいが、釈尊と同じインドに生まれながら、わずか数百年の違いで会えなかった。

 あるとき、そんな修行者が瞑想のうちに釈尊にまみえることができるという宗教的体験をした。そして、その体験で得たものを詩(韻文)にして語った。それは、完全なサンスクリット(梵語)ではなくプラークリット(俗語)かそれに近いサンスクリットだった。このような崩れたサンスクリットを使うということは、教養や才能に恵まれた修行者ではなかったのだろう。だからこそ、教養や才能に関係なく普くニルバーナが得られる究極の仏教を求めたのだろう。釈尊を渇望し、その功徳が釈尊滅後の世界まで及ぶことを信奉する、信心篤き僧侶か在家だったのであろう。

 その韻文(偈頌)に感動したサンスクリットに堪能な修行者たちが、その内容を深めて散文(長行)を付加し、新たな韻文も付加して集大成し熟成して法華経は形成された。

法華経の成立過程

 梵本の法華経の成立過程を考えると、一番かまびすしく言われることがある。
 それは『薬王菩薩本事品第二十三』から『普賢菩薩勧発品第二十八』までに相応する梵本が、後から付加されたものではないかということである。そのことを検証する。

異なるお経の順番

 漢訳法華経によって最後の7品の順番が違う。

『正法華経』『妙法蓮華経』『添品妙法蓮華経』
藥王菩薩品第二十一嘱累品第二十二陀羅尼品第二十一
妙吼菩薩品第二十二薬王菩薩本事品第二十三藥王菩薩本事品第二十二
光世音普門品第二十三妙音菩薩品第二十四妙音菩薩品第二十三
總持品第二十四観世音菩薩普門品第二十五觀世音菩薩普門品第二十四
淨復淨王品第二十五陀羅尼品第二十六妙莊厳王本事品第二十五
樂普賢品第二十六妙荘厳王本事品第二十七普賢菩薩勸發品第二十六
囑累品第二十七普賢菩薩勧発品第二十八囑累品第二十七

 甚だしいのは『妙法蓮華経嘱累品第二十二』に相当する経典の順番である。『陀羅尼品第二十六』も順番が違う。
 どれが正しい・・・ではなく、底本となった梵本に差異があったのであろう。とりあえず、漢訳によって章の並び方が違うということを認識して頂けたと思う。

嘱累品と普賢菩薩勧発品のどちらが最終章か?

 表を見てわかる通り、法華経の最終章としては『嘱累品』と『普賢菩薩勧発品』の二つの可能性がある。双方の末尾に最終章としての文章が準備されているかどうかを調べるのも面白い。

爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来たりたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめんとして、是の言を作したまわく、諸仏各所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもう可し。是の語を説きたもう時、十方無量の分身の諸仏の宝樹下の師子座上に坐したまえる者及び多宝仏、竝に上行等の無辺阿僧祇の菩薩大衆、舎利弗等の声聞四衆、及び一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す。

(『妙法蓮華経嘱累品第二十二』の最後の部分)

仏是の経を説きたもう時、普賢等の諸の菩薩・舎利弗等の諸の声聞・及び諸の天・龍・人非人等の一切の大会皆大に歓喜し、仏語を受持して礼を作して去りにき。

(『妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八』の最後の部分)

 章の最後を挙げたが、双方とも「歓喜」して「去る(還る=帰る)」ところまで同じであり、どちらが経典の最後としてもおかしくない。
 経典末尾において会衆が「歓喜」して「去る」ことは他の経典でもある。

そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのとき阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説くに、無量の諸天および竜・夜叉、仏の所説を聞きて、みな大いに歓喜し、仏を礼して退きぬ。

(『仏説観無量寿経』の末尾部分)

 このように経典を締めくくる章が二つあるのは興味深い。

多宝如来は還られなかったのか

また、嘱累品(妙法蓮華経嘱累品第二十二)で、還ったはずの多宝如来が、次の章(品)でも登場する。

多宝如来宝塔の中に於て宿王華菩薩を讃めて言わく、

『妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三』

時に多宝仏、妙音に告げて言わく、

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

分って二分と作して一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉る。

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

 嘱累品第二十二で 「多宝仏の塔、還って故(もと)の如くしたもう可し」 と釈尊が言われたにも関わらず、普門品第二十五まで多宝如来や多宝塔が登場し、最終章の勧発品第二十八で多宝如来や多宝塔に触れられない。最終章で還ったという記述もない。何か腑に落ちない気がする。

重偈の有無

 『妙法蓮華経』の『序品第一』から『如来神力品第二十一』までは、長行と重偈(散文と同じ内容を繰り返す韻文)から構成されている。ところが、『嘱累品第二十二』から『普賢菩薩勧発品第二十八』にはそれがない。偈頌はあっても重偈ではない。あるいは、『世音菩薩普門品第二十五』の重偈は、本来の鳩摩羅什訳ではなく、闍那崛多の訳した『添品妙法蓮華経』からの挿入である。

姚秦三藏法師鳩摩羅什譯長行
隋北天竺沙門闍那崛多譯重頌
  『御製觀世音普門品經序』 (大正新脩大藏經9巻 No.262 P198a 12行)

結 論

・章の順番に相違がある

・嘱累品と普賢菩薩勧発品のどちらも最終章になりうる

・『妙法蓮華経』では嘱累品で還帰するはずの多宝如来が、それ以後も登場する。

・問題の6品は重偈(散文と同じ内容を繰り返す韻文)がなく、『如来神力品第二十一』までと異なる。

 そのような理由から、『妙法蓮華経』の底本となった梵本の更に原型には、『薬王菩薩本事品第二十三』~『普賢菩薩勧発品第二十八』の6品(章)に相応する梵本がなく、それらは後から付加されたと考えられるようだ。

考 察

 ここで、少し気になることがある。現在日蓮宗で用いられている「要品(ようほん)」であるが、序品、方便品の冒頭部分、欲令衆、提婆品、寿量品、神力品、嘱累品に加え、ここに言及した、

『観世音菩薩普門品第二十五』
『陀羅尼品第二十六』
『妙荘厳王本事品第二十七』
『普賢菩薩勧発品第二十八』

が、含まれている。観音経以下も大切なお経にはちがいないが、教学的な見地や信仰を鼓舞する見地からは、むしろ一品二半、勧持品、不軽品などを入れるべきではないか。おそらく、祈願を叶える目的の現世利益信仰を求める信徒や未信徒を導く方便として編纂された要品なのであろうと想像できるが、さすれば「祈祷要品」というような名前にするべきであった。法華経の成立過程を思索した上で更に遺憾に思うものである。

代表的な法華経成立論

◎ビュルヌフ説

 梵本法華経の偈頌(韻文)に正規のサンスクリットではない俗語やくずれた文体がある
 長行(散文)が偈頌(韻文)よりも先に成立
  ※長行が偈頌よりも先に成立したという主張は現在の仏教学会では認められていない。

◎ケルン説

 主要な偈頌は長行より先に成立した、終わりの六品(章)は後世の付加である

◎松本文三郎説

 提婆品と終わりの六品(章)は後世の付加である

◎布施浩岳説

 提婆品、嘱累品、終わりの六品(章)を除いた二十品(章)の内容を細分して歴史的段階の差の存在すべきことを主張

◎勝呂信静説

 提婆品を除き同時成立説!
 法華経成立論は厳密に言えば仮説に過ぎない
 ある部分が先行して成立したとすれば、その痕跡だけでも認められねばならない

苦滅の仏法 その本質へ