インド四大仏跡を参詣する旅

~ お釈迦様のふるさとを巡礼 ~

以下は旅の概略である。詳細はこちら

平成17年(2005)2月16日(水)
  関空 12:45 発 AI315 空路(香港経由)
  香港 16:05 着 (香港時間)
  香港 17:15 発 (香港時間)
  デリー 21:00 着 ホテルへ

豪華なホテルだったが仮眠のみ
有り難いことにお湯が出た!
デリーの国内線用の空港
パトナに向かう

平成17年(2005)2月17日(木)
  デリー 7:05 発 IC409 空路
  パトナ 8:30 着 ナーランダへ
  午後: ナーランダ大学跡
  夕刻: 王舎城、竹林精舎

貸し切りバスが3時間遅れて到着
待ち時間にパコーラを食べる

●ナーランダ大学跡

ナーランダー  Nalanda (那爛陀)

 5世紀初頭、グプタ朝のクマーラグプタ1世が、王舎城(ラージギル)の近郊に創建した仏教大学跡。
 5~12世紀に栄え、往時は数千人の僧侶が学んでいた。それほど大規模な学問寺院であった。
 唯識仏教の著名な学僧を輩出し、後には密教の中心的な道場となる。
 インドだけではなく諸外国からも留学僧が集まり、中国の玄奘三蔵もここで唯識を学んだ。

 6~12世紀のインド仏教末期の仏教彫刻が出土し、現地の考古博物館に収められているそうだ。再訪の際は是非訪れたい

●竹林精舎

竹林精舎跡の竹
竹林精舎跡の池

竹林精舎  Venuvana vihara

 王舎城に建てられた最初の仏教寺院。カランダカ長者が寄付した竹林に、マガダ国のビンビサーラ王が伽藍を建立した。祇園精舎・大林精舎・誓多林精舎・那爛陀寺とともにインドの5寺(天竺五山)のひとつである。

●王舎城 ラージギール

ラージギルの夕日

平成17年(2005)2月18日(金)

早朝: 霊鷲山暁天参拝
耆婆の病院と思われる遺跡
温泉精舎
ラジギール
午前: ブッダガヤへ
ブッダガヤ
午後: 釈尊成道の聖地

登山口 旧王舎城の東門があたり
霊山へ詣る橋
御来光を背に法要

霊鷲山  Grdhrakuta

 耆闍崛山(ぎじやくせん)ともいう。小高い山で、山の形が鷲という名前の由来とされる。お釈迦様はここで『法華経』などを説法したとされる。

妙法蓮華経序品第一
如是我聞。一時。仏住。王舎城。耆闍崛山中。与大比丘衆。万二千人倶。

(訓読)是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。

妙法蓮華経如来寿量品第十六
一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山

一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず

ジーヴァカ・アーラーマ 耆婆園
ガイドには耆婆の病院と案内された
ビンビサーラ王が幽閉された遺跡
外枠のみの遺跡
温泉精舎
一番下のカーストの温泉だと案内された
赤い染料?
露天
ズッと動かない牛
象使い
お釈迦様が覚りを開かれる前に苦行をした前正覚山 (干上がった尼連禅河越し)
お釈迦様が覚られた場所
靴は脱いで素足で参詣(ソックス可)
マハーボーディー寺院 (この頃、ずっと工事中だったらしい)
マハーボーディー寺院の本尊
右遶(右回り)するチベット僧
お釈迦様が覚られた金剛座と菩提樹(1876年の嵐で倒れた古木の根から芽をふいたものとか)
お釈迦様の経行処
アショーカ王の石柱
スジャータ像

前正覚山

 喧噪のガヤを通過して、ネーランジャラー川沿いにブッダガヤを目指す。途中、お釈迦様の苦行された霊蹟たる前正覚山を車窓から眺めた。その場所から、スジャータの村まではかなりの距離である。意外だった。

 着いたホテルはスジャータホテルである。入ると花のレイを首に掛けて戴き、お手ふきのサービスを受けた。

マハー・ボーディー寺院

 ホテルで遅い昼食を取ったが、さすがにビールは遠慮した。これからお釈迦様が悟りを開かれた成道の霊蹟を参詣するのである。

 参道左側で靴を脱いでマハー・ボーディー寺院に参詣する。「地球の歩き方」に載っていた工事の足場はまだ残ったままだ。残念。
 何かで裁判が起こって工事が停止したままだとか、そういえば足場に作業員はいなかった。

 階段を降りて、マハー・ボーディー寺院の屋内に入って一読した。この霊場が醸し出す雰囲気に思わず道場偈という声明を唱えたくなり唱えた。そして自我偈・唱題の簡単な法要をした。他にもたくさんの団体があり、いろいろな仏教とが瞑想し右遶し五体投地をしている。簡要な法要となった。

乾季で干上がった尼連禅河
スジャータの供養塔
スジャータの供養塔から臨む前正覚山
スジャータ村(セーナーニー村)農作業
ホテルの乳粥 (甘かった)

スジャータ

 コーヒーにスジャータ♪で有名であるが、苦行を捨てて尼連禅河で沐浴後、菩提樹下で瞑想していたお釈迦様に乳粥を供養した娘の名前。お釈迦様はこの乳粥によって苦行でやせ細り弱った身体を回復させた。

乳粥

 スジャータによって供養された乳粥は、パーヤーサと呼ばれるもの。米のお粥に、牛乳、蜜、砂糖を加えた柔らかい食べ物。お釈迦様以前の時代から現代までインドに伝わるものである。ヤーグ(乳の粥)ともいう。

尼連禅河を渡りスジャータ村へ
 マハー・ボーディー寺院の近くの橋を渡ると、スジャータの村である。乾期の2月には広い川が見事干上がっている。渡ってバスを降りると、子供達が寄ってきておねだりをする。気持ちとしては何かしてあげたいが、それは彼らの自立にとって芳しくない。
 「乞食を三日するとやめられなくなる」そんな言葉を亡き祖母から聞いたことがある。日本人にたかってお金や物品を手に入れるのも大変だろうが、そんな子供が大人になると、何のためらいもなく外国人をだます土産物屋になることを助長しないか。

 子供達はたくみに日本語を話していた。僕たちの学校があるけれど寄附をしたか訊いてきたり、去年まで日本語の先生がいたけれど大阪に帰ったと言っていた。ホテルに帰ってから気づいたことであるが、これは三木随法師の建てたお寺である。実は、三木随法師一周忌のおりに1万円だけ寄附をしていたのだ。これも御縁。ただし、その学校は撮っていない。

 スジャータの村には、スジャータの家があったとされる場所にストゥーパがあったようだ。そのストゥーパ跡は現在整備されている。ここも手を入れるより以前のままの方が良いと思う。

 改装工事中?のスジャータの供養塔(ストゥーパ)に登り、お釈迦様の苦行された前正覚山を臨んだ。やはり遠い。

 それから私の知識の間違いに気づかされた。スジャータの村と成道の菩提樹はネーランジャラー川の対岸にある。川幅はかなり広い。つい最近まで橋はなかった。歩いて渡ったようである。
ホテルにて乳粥を食べる
 ホテルの夕食には乳粥があった。バイキング形式なので無くなる前に食べたら、乳粥はデザートらしい。確かに少しだけ甘い。お釈迦様の時代にはたいそう御馳走だったろう。

平成17年(2005)2月19日(土)

ブッダガヤ
  早朝: ガヤへ
  ガヤ 5:24 発 鉄道: Howrah Mumbai Mail
  ムガルサライ 8:10 着

午前: 初転法輪の地サルナートへ
午後: ベナレス市内観光

【泊】クラークス・シラーズ

ムガルサライ駅到着
駅ホームに牛
初転法輪寺正面
壁画は野生司香雪画伯(日本)
初転法輪寺の本尊(釈迦牟尼仏)

サルナートの初転法輪寺

 この寺院はダルマパーラがハワイの元王室からの寄附で建立されたものだそうだ。寺院そのものに価値を見いだせない観光客も多いと思うが、初転法輪の地にあるアクティブな寺院として価値がある。廃寺の遺跡ではないのだ。

 本堂の建築は見るべきものがない。しかし、内側には日本人の野生司香雪が描いた釈尊一代記の壁画がある。正面の仏像は発掘された仏像を模した釈迦像だと聞いた。

ダーメーク・ストゥーパと遺跡群
アショーカ王の石柱
鹿野苑(Deer Park)の鹿
撮影していると笑顔でこたえてくれた
チャウカンディ・ストゥーパ

鹿野苑

 
 サルナートは漢訳仏典では鹿野苑(ろくやおん)として登場し、金閣寺の正式名称「鹿苑寺」はここから来ているのではないかと思う。英語では Deer Park と訳され、鹿の園の意味である。奈良の東大寺に鹿が放し飼いにされているのはここから来ているものか?

 当地の発掘の結果、古くはアショーカ王の太古から仏教が滅ぶ12世紀ころまでの彫刻が出土している。

 現存するダーメーク・ストゥーパは、高さ約42m、基部の直径約28mあり、グプタ時代の貴重な塔である。考古博物館に出土品が収められている。筆者は大英博物館においても素晴らしい彫刻に出会った。当地の博物館の入口正面にはアショーカ王石柱のライオン柱頭がある。

チャウカンディ・ストゥーパ

 チャウカンディ・ストゥーパは迎仏塔と訳される。お釈迦様と五人の修行者(五比丘)との出会いの場所。この五人の修行者はお釈迦様とともにブッダガヤで苦行をしていた。ところが、お釈迦様がスジャータの乳粥の供養を受けたことを見て、苦行を捨てたお釈迦様とは共に修行ができないとサルナートに来ていた。

サルナート出土の仏像

 考古博物館の仏像は撮影できなかったが、かわりに昨春訪英したときの大英博物館のサルナート出土の仏像の写真を掲載する。

釈迦立像 グプタ王朝(435年頃)
大英博物館 OA 1880. 6
釈迦像 5~6世紀頃
大英博物館 OA 1880.7

サルナート(鹿野苑)の鹿

 寺院からストゥーパまではすぐ隣であるが、塀で仕切られており回り道をしなくてはならない。入口は遠くバスに1~2分乗って行った。歩いてもいけるが、しつこい物売りを避ける意味もある。

 入口に入ると壮大な建物があったことを伺わせるレンガの遺跡跡がある。さらに、サルナート(鹿野苑)というように鹿がいる。といっても、この鹿は奈良東大寺のように放し飼いではない。参詣者は柵越しにしか鹿を見られない。
 この鹿であるが故中村元先生(東大名誉教授)が最初に訪れられたときは居なかったそうである。ある時から飼われるようになった。それは鹿の園(Deer Park)の名に相応しく鹿を飼って観光客を喜ばせるためらしい。
 現地ガイドのカンさん曰く、鹿はおとなしく仏教に相応しい。また、お釈迦様の前世物語(ジャータカ)にも鹿となった話がある。だから、お釈迦様の聖地として鹿は相応しい生き物だと。
 どちらにしても、お釈迦様の往時は鹿はいたのかも知れない。そして、現在は世界の仏教寺院で一番の鹿の園(Deer Park)は日本の奈良東大寺かも知れない。

サルナートのストゥーパ

 遺跡を右回りに大回りしてダーメーク・ストゥーパに到達した。何度となく写真で見てきた初転法輪の仏跡たるサルナート(鹿野苑)の象徴である。近くに寄ると、部分部分に彫刻されていることに気づいた。

 他のインド仏跡でもあることであるが、タイ人は金箔を貼りまくり、チベット人は布を掛ける。その布がとんでもない高さに掲げてあることがある。といっても3mくらいの高さである。梯子をつかったか、さもなくばスパイダーマンをしてよじ登ったか。高山に暮らすチベット人なら可能?

 右回りに一周して集合写真を撮ってストゥーパをあとにした。本当な7周くらいしたかったし、このストゥーパの前で1時間ほどボーッとしていたかった。それは個人旅行で再訪することが叶ったときにしよう。

サルナート博物館

 さて、ストゥーパのすぐ前に博物館がある。外から見ると大きな博物館であるが内部は意外と狭い。正面玄関から向かって左側が仏教、右側がヒンドゥー教の展示である。
 正面にはいきなりアショカ・ピラーの上部が展示されている。4頭獅子が四方を臨み、もとはその上に法輪があったそうである。本当に素晴らしい!。この博物館所蔵のアショカ・ピラーの上部の写真がインドの紙幣のデザインに使われているとの現地ガイドの説明だった。

 また、大きな釈迦牟尼仏像と、巨大な天蓋と柄が展示してあった。釈迦牟尼仏像は痛みが激しいが、天蓋は割れてはいても、その大きさと荘厳さで私を魅了した。

 さらに、左奥へ進み一番奥によく写真で紹介される美しい仏像がある。なんと、さわらせてくれる。本当はいけないのだろうが、ガイドも触るし、私たちも触った。メンバーの女の子は手が届かない。そうしていると、見張り役がそばに寄ってきた。一瞬どきっとしたが、ここからなら届くよと女の子を仏像の脇に案内した。そのあときっちりチップ(賄賂?)を要求された。快く支払った。これがインド?。

 チップを払うと立像の釈迦像に頂足して良いよと言われた。まさか、石像を持ち上げられないから、足に額をつけて手は頂足の作法だけをした。有り難い。チップをもう少し出して写真を撮らせてもらったらよかった・・・。

 それにしてもこれだけの仏像、博物館に所蔵するよりも、寺院に奉られ給使されるべきだと思うのは私だけだろうか。

もう一つのストゥーパ跡

 ホテルに向かう道中、中規模のストゥーパ跡に立ち寄った。土饅頭型のおなじみのストゥーパにイスラム教徒がレンガの建物を建立したものだ。いやはや。

●ベナレス

ベナレスは機織りの産地(ベナレスは機織りの産地)

カーシー産の織物

 お釈迦様は王子だった頃、カーシー産の衣しか着なかったそうだ。 カーシーすなわち現在のベナレス(ヴァーラーナシー)である。

阿含経増支部 Anguttara Nikaya Ⅲ 38. Vol.Ⅰ 中村元訳

 私はカーシー(ベナレス)産の栴檀香(白檀)以外は決して用いなかった。私の被服(着物)はカーシー産のものであった。下着もカーシー産のものであった。内衣(ゆかた)もカーシー産のものであった。

平成17年(2005)2月20日(日)

早朝: ガンジス河沐浴風景
午前: クシナガルへ
夕刻: 釈尊涅槃の聖地

【泊】ニッコー・ホテル

イスラム教の祭りで道路封鎖

 朝5時半に起床して、ガンジス川の沐浴とプージャーを観に行った。まだ暗いベナレスをバスが行くが、こんな早朝から(夜通し?)イスラム教徒の祭りがあって道路が封鎖されている。待たされたり迂回させられたりしながら、ガンジス川近くの道路でバスを降車した。道幅は広いがここからは歩いて行かなくてはならない。早朝なのに露店がたくさんあった。10~20分歩くとガンジス河畔に出た。

雄大なガンジス川

 ガンジス河畔に出た頃には空がうっすらとではあるが明るくなりかけていた。乾季にも関わらずガンガーは雄大であった。日頃見ている大阪の新淀川の比ではない。しかし、ここよりもパトナあたりの方が幅が広かったかも知れない。ボートをチャーターして沖に出る。途中、灯籠流しをした。日の出は見られたが、雲が邪魔をした。

サリーの工場?
河畔の風景
日の出前からごった返している
灯籠流しの灯籠
灯籠流し
ガートがたくさんある
沐浴 2月のインドの朝は結構寒い
観光客を乗せた船がたくさん
御来光
火葬場の火と煙

胃腸の調子が・・・

 昼頃から、お腹の調子がおかしい。極々軽い腹痛がありガスがたまる。今回、歯磨きやうがいをミネラルウォーターでするくらい衛生には気遣っている。
 恐らく原因は、食べ過ぎと、香辛料の刺激、あとはお酒の相乗効果であろう。食べ過ぎについては気を遣ったようで、徹底し切れていないことがあった。切り分けられたナンを3枚食べたりする分量のカレーを食べた。唯でさえ食べ過ぎのところへ強烈なマサラの香辛料の刺激がある。そこへお酒が入る。とくに昨日はスコッチのストレートをガブガブ3杯飲んだ。この3つがお腹を痛めつけたようだ。

 下痢はしていないが、これ以上胃腸を弱めるとろくなことはない。夕食はまわりの半分の料で押さえて、お酒もグラスワイン一杯におさえた。

そろそろルピーが・・・

 昼に夜にビールを飲んでいるとルピーが心細くなってきた。650cc一本 150~200ルピーである。パックツアーでもビールを何本も飲む旅行者は1週間あたり2万円くらいを両替しておいたほうが良いかも知れない。

モハラム

モハラムというイスラムお祭りがあった。車窓から見ただけなので詳細は解らないが、ウェディングケーキを数メートルの高さまで大きくして、ピンク色にしたような御輿(みこし)があり、たくさんの人が集っていた。通過したいくつかの村や町で見られた。

6時間の行程

 ベナレスからクシナガラまでバスで6時間の行程である。昼食や休憩を入れると9時にベナレス発でクシナガラ着は夕刻の5時30分だった。300kmあったとしても高速道路があれば3時間の行程であるのに・・・。

 しかし、クシナガラに近づくに従って、日に日に弱り行くお釈迦様の容態を考えたりした。

今回のツアーではお釈迦様が美しいと感嘆されたバイシャーリーに行けなかったのは残念である。日程上仕方ないが・・・。また、現在の現地に実際に行くよりも往時を創造した方が良いかも知れない。

 道中、2~3ヶ所検問所か料金所があった。幾多の見知らぬ街を抜け、広大な田園地帯を抜け到達した。どこまで行っても人が絶えない。いつまでも手の行き届いた田園が広がり、どの街も活気にあふれていた。

 気づいたことであるが、クシナガラに向かって北上するに従い街がきれいになった気がする。目が慣れてきたのか、ベナレスがあまりにゴチャゴチャしすぎているのか。あるいは、林があるせいだろうか。この林を見るとホッとした気分になった。古代はどこまでもジャングルだったに違いない場所を開墾し尽くしたのだろう。
 一見、田園が広がり豊かな大地であるが、開墾し尽くされた風景は自然ではなく人工のものである。虎を頂点とする生態系はどこに行ったのだろう。

 クシナガラに到着したのは夕刻である。

●クシナガラ

 お釈迦様が入滅された地で四大仏跡の一つ。

 拘尸那掲羅と音写される。入滅の地については異説があったが、5世紀の銘のある涅槃像、大涅槃寺の銘のある古泥印、涅槃塔から銅板が出土したことからこの地が涅槃の地とされる。周囲には後世の僧院遺構がある。

 クシナガラはお釈迦様の時代の十六大国の一つであるマッラ族の都だった。この国はお釈迦様の当時は二つに分裂していたが、何れも共和制であり、集会によって治められていた。マッラ国はやがてマガダ国に滅ぼされる。

 この地は当時沙羅の林だった。故郷を目指して北上していたお釈迦様もついにこの地で動けなくなり、娑羅双樹の下で頭を北に向け右脇を下につけて入滅したという。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」(『平家物語』冒頭)

ラーマバール・ストゥーパ
ラーマバール・ストゥーパ
涅槃堂
全長6mの涅槃像 5世紀初頭
最期の説法跡にある鉄筋の建物
内部の仏像 降魔印

お釈迦様の入滅

 お釈迦様の最期と葬送の模様は南伝の『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ(大般涅槃経)』に詳しい。これは大乗の『大般涅槃経』とは別のものである。
 霊鷲山に居られたお釈迦様は生まれ故郷を目指して旅立たれる。阿難尊者を従者として、パトナ、ヴァイシャーリーなどを経由して、途中のクシナガラにで入滅してしまう。その道中に、さまざまな法話をし、有名な「自灯明・法灯明」などを説いた。

 お釈迦様はパーヴァーの町の鍛冶工の子、チュンダの供養するスーカラ・マッダヴァ(sukara maddava)を食べて激しい下痢をおこした。スーカラ・マッダヴァとはキノコの一種であるが、豚肉という意味もある。このあたりは「ブッダ最後の旅」中村元訳(岩波文庫)P259に詳しい。

 クシナガラの沙羅林に入ったお釈迦様は「アーナンダ(阿難)よ、私のために沙羅双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いてくれ。私は疲れた。私は横になろう。」そう言って右脇を下にして、足の上に足を重ねて禅定に入り、やがて入滅されたと伝わる。

お釈迦様の葬送と分骨

 葬儀は当地のマッラ族によって行われた。遺体には幾重にも布が掛けられ、舞踊、歌謡、奏楽、香をもって6日間供養された。7日目、摩訶迦葉(マハー・カーシャパ)の到着を待って、マクタバンダナ・チャイトヤ(天冠寺)にて香木によって火葬された。

 お釈迦様の遺骨(sarira 舎利)は八分割され、八基のストゥーパが建立された。当初、マッラ族は舎利の分配を拒否し争いも生じたが、最終的には円満に分配された。

●2/21(月)

クシナガル
 早朝: ルンビニへ
 午前: 釈尊生誕の聖地

ゴラクプール 22:40 発  デリーへ(Gorakhpur Exp.)

【車内泊】

ルンビニーへ出発

INDIAN BORDER ENDS
WELCOME TO NEPALE

早朝、クシナガラを出発しゴラクプールを経由してルンビニーへ向かう。ゴラクプールを経由してネパール国境へ向かう。

政情不安のネパール

 ネパールは王権復興を願う王室の政変で政情不安である。日本出発前からインターネットが禁止されたりするなどいろいろなニュースを耳にした。現地でも戒厳令が布かれているというニュースを耳にした。それよりも問題は政変を活動の好機としてテロ活動を行うという毛沢東主義者(マオニスト)に遭わないかというものであった。幸い問題ないという旅行社の判断で予定通りルンビニーに向かう。後日談であるが、私達がルンビニを訪れる2~3日前に当地で銃声がしていたとか・・・。知らぬが仏。

国境通過

 インドからネパールへの入国は比較的スムーズだった。何十台ものトラックが越境待ちをしていたがバスは優先的に通行できるらしい。国境のゲートまでは並ぶこと無しに到達した。
 それから我々のバスの越境には20~30分ほどを要したのではないかと思う。その間、レース売りのおじさん達や落花生売りの少年が車窓越しに商いを始める。レースは数十ルピー。同行の女性達が値切りを楽しんで買っていた。落花生は5ルピーだった。子供達が寄ってきたので、バスの窓から文房具や飴などを窓から子供達にあげた。老年の物貰いが来たが無始した。この老人は落花生売りの少年の落花生を勝手にとったりしていた。この老人が売り上げ金をくすねないか少年が警戒していたのを見て取れた。

厳戒の国境

 ネパール国境は厳戒態勢だった。インド側はさほどのことはないが、ネパール側は水色系の迷彩服を着た兵士を数十名見かけた。パスポート・コントロールのあと、国境から100mほどのところでバスはもう一度停車させられた。2~3人の兵士が運転助手と話をしている間、後ろで別の兵士が自動小銃を構えている。彼の右手人差し指はしっかり引き金にあてられていた。

 といっても、地元の人々は簡単なチェックだけで行き来しているし、国境地帯での物売りも盛んである。この厳戒態勢がどの程度のものかはわからない。

 さて、ネパール国境を無事通過したが、景色はほとんど変わらない。いや、まったく変わらなかった。数キロ直進して左折すると、しばらく直進した。途中二股に別れるところがあったがほぼ直進だった。

ヒマラヤが見える

 ネパール国境にさしかかる前から見えていたが、ヒマラヤ山脈の雪山がいくつか見えた。わずかに霞んでいてハッキリは見えない。しかし、初めて見るヒマラヤに感動した。

ルンビニー園に近づく

 ヒマラヤみ見とれたり、林を通過したりしていると、やがて進行方向右奥に白い仏塔が見えてきた。日本山妙法寺の建てた仏塔らしい。さらに近づくと植林したばかりの林が現れた。是は最近整備されたもので昔はなかったらしい。やがて、右側にルンビニー園の入口が見える。

 以前はバスで入ることができたそうであるが、現在はここから500mほど歩かなくてはならない。リクシャーが数台待っている。
 ルンビニー園の静謐さを護るために車を入れないのか、リクシャーを引かせて地元にお金を投下するための策か。

ルンビニの入り口
案内地図
白い建物の中で発掘が行われている
建物内部の遺跡
お釈迦様が誕生された場所
その目印の石(Marker stone)
アショーカ王の石柱
沐浴池の端にある神々しい菩提樹

お釈迦様の御生誕の地の様子

 ここは本来、もう少し荘厳な堂宇が建っていたそうであるが、現在は発掘のため写真のような建物になっている。他の仏跡と同じくレンガが積み上げられている。およそ、25m四方の遺跡が屋根で覆われている。その中に、お釈迦様誕生の目印となる石があり、その石がガラスで覆われていた。

 また、このお堂の後ろ側にはアショカピラーがある。その石から数メートルのところだ。

 お堂の中にいた中年のお坊さんが案内をして下さった。お堂の右側の沙羅の木を示して、摩耶夫人は沙羅の木に・・・してお釈迦様を産まれたという説明があったと思う。実際の沙羅の木であるはずはないが、その落ち葉を拾った。

 そしてアショカピラーの前でプージャーをしましょうと、パーリー語のガータ(偈頌=韻文)を呼んで下さった。私たちも一読唱題した。私は私の気持ちとして10ドルを布施したら、周りの人たちも布施した。すると、今度はお堂の左奥にあるガート(沐浴場)から水を汲んできて下さって頭につけろと言われる。そのとおりにした。
 やがて、そのガートの奥の大きな菩提樹の下に老師をみつけた。添乗員さんによると、この老師はバラモンで、その息子さんが私たちを案内した僧侶だとのこと。息子さんは出家して仏教の僧侶になっておられるらしい。

老僧との対話

 しばらく自由時間を戴いたネパール寺院とチベット寺院があり参詣した。ネパール寺院を参った。ピカピカ点滅する電球に飾られていて、日本人の荘厳の感覚とは違う。御本尊の釈尊像の右側に座っておられる長老が中に入って参りなさいという。合掌してパーリー語の三帰依文を唱えた。

 ブッダン・サラナム・ガーチャーミ (仏に帰依します)
 ダールマン・サラナム・ガーチャーミ (法に帰依します)
 サンガン・サラナム・ガーチャーミ (僧伽に帰依します)
 南無妙法蓮華経


とジャパニーズ・パーリーで唱えると、「よくちゃんとお唱えなさった」というお言葉を英語で戴いた。右腕に毛糸みたいなものを巻いていただき、少し老師とお話をした。何でも、老師は来日されたことがあり、奈良には大仏様がおられ巨大な伽藍があったというような話をされていた。私も奈良には鹿がたくさんいて日本のサルナート(鹿野苑 Deer Park)ですと申し上げた。そのようなとりとめのない話をした。

生きた仏教

 感じたことはここの仏教は生きていると思ったことである。お釈迦様の成道の地、ブッダガヤもしかり。入滅の地、クシナガラもしかりである。当然といえば当然である。

 しかし、中国やシルクロードあるいは南インドで生きた仏教を見る機会には恵まれなかった。形骸化した仏教。御利益信仰と死者儀礼に傾き、苦滅という本質を忘れた仏教。イスラムに滅ぼされて遺跡となった仏教。そうして弱体化した仏教が近代思想によって骨抜きにされ、打ちのめされている。しかし、根絶やしにはなっていない。そう思った。

 イスラム教は近代合理思想を拒否して生き延びようとしている。キリスト教は掲示宗教である以上、科学との衝突がさけられない。欧米でおこったものの考え方が世界を席巻しようとしているが、そのことで科学も発展し豊かになった反面、さまざまな問題を提供している。家庭が崩壊し、学校は荒廃し、倫理道徳は表向きだけの小悪魔が充ち満ちている。それぞれが我を通し、煩悩を野放しにして、貪り怒り自らの無知に気づかず、結局自己を苦しめ周囲を苦しめている。それを救えるのはお釈迦様の教えである。

 仏教を弘めるのが目的ではなく、仏教によって人々を苦しみから解き放つのが目的である。その仏教の本質を正しく解りやすく伝えることそれがその目的に対する目標である。
 今般の四大仏跡参拝を終えてそんな感慨にふけった。

インド再入国

 さて、仏跡参詣はすべて修了し、ここからは帰途である。

 国境までもどりインドへ再入国する。これだけ短い時間のネパール入国であるが、パスポートにはちゃんと査証のハンコがあり、Arrival Departure の記載があり、手書きの記載がなされている。

 数十人の兵士が国境を護る中、国境のゲートに至る。また20~30分かかったようだ。疲れているのか心配しているのか知らないが添乗員さんの顔が険しいのが少し気になった。ネパール側を通過するとインド側に入る。そうすると車内に税関職員が乗り込んできた。手荷物検査こそなかったが、各座席を鋭い目で見て回り、客席や運転席の荷物入れをざっと検査していた。麻薬密輸取り締まりなのか、共産ゲリラの潜入逃亡を取り締まっているのか、少し緊迫した空気だった。欧州統合前に何度か国境を越えたことがあるがこんな緊迫した雰囲気は初めてだった。

のどかな牛車
愛想の良い牛車の人たち
ドライブイン
豪快な入れ方のチャイ

ゴラクプール

 国境を越えてゴラクプールまで戻る。
 クシナガラからゴラクプールまで1時間半、ゴラクプールからルンビニーへも数時間、ゴラクブールからデリーまで始発の寝台車がある。仏跡巡礼の中継地としてゴラクプールはお誂えむきの都市である。

 大都市の市街地はゴチャゴチャしているのであるが、ゴラクプールの寺院と出店は整然として明るくきれいだった。過去二回のインド訪問でこれほどの場所は経験していない。いや、夜だったのできれいな部分しかみえなかったのか。
 22:40発の寝台列車まで時間があるのでゴラクプールのゴラクナート寺院寺院に参詣した。

 人でごった返す露店の間をバスが入っていった。うそみたいな本当の光景だった。
 ゴラクナート寺院の前でバスを降りた。それまでの露店はバスから眺めるだけでもたのしかった。

ゴラクナート寺院
正面の本尊 
門前の夜店
賑やかであった
掃除も行き届き陳列も整然としている
値引きはほとんどきかないそうだ
ゴラクプールの駅舎
炭火を装備したチャイのワゴンサービス
この列車は何度も長時間停車
5時間遅れでデリーに到着

平成17年(2005)2月22日(火)

デリー 12:25 着(Gorakhpur Exp.)
デリー市内観光(博物館) ※列車の遅れで幻となった
デリー 23:15 発 AI314 空路: 関空へ(バンコク経由)

のんびり出来た夜行列車

 朝6:10分頃、寝台車の中で目が覚めた。日本時間で9:40である。旅も終盤にさしかかった。そろそろ、帰宅後の時差を意識しなくてはなならいので起床した。ぐっすり眠れたので、バスの中で昼寝も出来たし6時間ほどの睡眠時間でも十分だった。

のんびししすぎの夜行列車

 7時45分頃、ラックナウ(LUCKNOW)についた。あと5時間でデリー到着の予定なのに・・・地図を見るとゴラクプールからデリーまでの半分も来ていない。定刻にデリーに着けるのか? そうこうしているうちに1時間遅れとのニュースが噂を耳にする、まもなく3時間遅れだという。インド人が3時間遅れということは4時間遅れを覚悟しなくてはならない。実際デリーに到着したのは夕刻の5時20分である。

 どこかで大規模な停電があって遅れたとのことであるが、デリーの観光ができなくなってしまった。観光を優先したらデリーまでの復路も飛行機を利用するべきだったかも知れない。

 考え方をかえると、インドの広大な大地に広がる田園風景を満喫しながらのんびりできた。日本ではこの「のんびり」ができない。旅の疲れを癒すとともに、慌ただしい行程でのんびりできなかったぶんリフレッシュできたと思う。

 途中、何度も列車がとまった。前がつかえているようだ。停車するはずのない駅にも停車したのだろう。駅のホームだけでなく、近所の売店からも売り子がダッシュですっ飛んできた。ある駅で水を買った。10 Rupees が 20 Rupees に聞こえて 20 Rupees を出すと、10 Rupees が帰ってきた。真面目だ。イタリアがリラだった時代に一桁間違って出してそのまま受け取ろうとしたイタリア人を思い出しホッとした。

デリー到着

 デリーに着いてからは慌ただしかった。フットレスト付の高級なバスが迎えに来ていた。しっかりした昼食が食べられなかった分、弁当が配布された。そして、観光の時間がないにも関わらず路地の地下にある怪しげな?土産物ショップに連れていかれた。といってもこれは価値観の問題で、女性陣はむしろ買い物を楽しんでいた。それで良いと思う。
 もちろん、個人旅行だったら買い物をやめて、ライトアップされたインド門などフライトに間に合う範囲で観光をしただろう。

 夕食のホテルでシャワーを浴びることができた。汗かきの私は体中に潮を吹いていたので生き返った気分になった。旅行社の配慮で男性1室、女性2室を割り当てられ、そこでシャワーと荷物整理ができた。といっても慌ただしい。夕食に5分遅れていったが、とがめられる筋合いのものではない。

 夕食時間も30分だった。夕食開始後25分でボーイにテーブルを片付けられたが、定刻に食事を終わらせる必要性から致し方ないと思う反面、気忙しかった。

空港へ

 空港に向かう道中、ライトアップされたインド門を車窓から一瞬見た。速写性能に優れた Nikon D70 をもってしても撮影は間に合わなかった。残念。

 デリーの街は他の地域と違っていた。まず、道路に信号がある。バイクはヘルメットをしている。Round About(ロータリー)がイギリス本土のように多いことは、昨春のイギリス旅行でレンタカーを運転したことを思い出して懐かしかった。

 道中、予約しておいた紅茶を受け取りに行った。なんと、小さく粗末な店である。マサラティーの紅茶100gを10箱(1箱おまけされた)、普通の紅茶をマサラティーにする香辛料のせっと2つ、蓮華のアロマ(香料)はすべて自分のための土産。あと、人へのお土産ようの木箱入り紅茶を買った。


平成17年(2005)2月23日(水) 関空 12:35 着

残念だったエア・インディア

 エア・インディアのAI314便で帰国したが、残念なことがある。

 まず、ブランケットが事前に配られていなかったことである。とくに、香港を飛び立ってすぐは寒くてブランケットを求めるコールが相次ぎ、室温を上げる対処がなされたようだ。デリーでブランケットを積み忘れたのだろうか。

 それから、スクリーンがなかった。国際線でTVモニターもスクリーンもない飛行機は中国東方航空の以来である。中国沿岸部のフライトだったら時間も短く退屈もしないが、インド便としては不適切である。機材のやりくりがつかなかったのだろうか。

 また、トイレの数が少ない。主翼付近のトイレは左右にひとつづつしかなかった。これはインドからの帰国便としては不適切である。恐らく数人に一人は下痢をしているからである。今回の私は大丈夫だったが、前回は下痢だった。顔色の悪い方が、何時トイレが開くかと待っている姿を見ると気の毒だった。そしてトイレに入るとしばらく出てこられない。トイレはフル回転だった。

 そして、国際線の食事はメニューが用意され、飲み物が配られ、それから食事が運ばれるのが普通である。ところが、メニューもなければ飲み物も配られず、いきなり食事が運ばれたうえ、ビールが配られたのは食事が終わる時間であった。
 エア・インディアの名誉のためにいうが、往路のAI315はちゃんとした飲食のサービスがあった。

 往路復路両方の最大のクレームとしたら、前席の下のポケットの容量が極めて少ないことである。地球の歩き方一冊を入れるのも大変なくらいである。

苦滅の仏法 その本質へ