~ 以下の出世地説はここにあげた資料の年代順に並べた ~
京都説
『竹豊故事 下』 宝暦六年(1756)
元来は京都の産で、さる堂上の御家に仕へ、本姓は杉森氏で由緒正しい人であるが、浪人となった浄瑠璃を産業とした人は近松に始まり、博学碩才でしかも当世の人気を察して、世間の世話をよく呑み込み、百余番の浄瑠璃を作った。その文句は玄妙不思議を綴る
『音曲道智編 二』 明和(1764-71)頃
始め堂上方に仕官した後、近江の近松寺に遊んだのでこの苗字を使った
近江国説
『浄瑠璃譜 上』 寛政(1789-1800)頃
名人の作者近松は出生は近江国、高観音近松寺御坊で出家を嫌い、京都で暮らしていた
肥前唐津説
『戯財録』 享和元年(1801)
肥前唐津近松禅寺小僧。名前は古潤。碩学により住僧となり、義門と改めた。
やがて、修行行脚をして、内縁の弟である医師の岡本一抱子が京都にいたので寄宿し還俗。浄瑠璃作家となった。
越前説
『羇旅漫録』 享和二年(1802)
『卯花園漫録』 文化6年(1809)
『嬉遊笑覧 六 上』 文政十年(1830)
三河説
『羇旅漫録』 享和二年(1802) ?
『卯花園漫録』 文化6年(1809)?
北越説
『嗚呼矣草 五』 文化二年(1805)
長州萩説
『摂陽奇観 四九』
※ 浜松歌国(はままつ うたくに 1776~1827)の著作。
『柳庵随筆 八下』 文政三年(1806)
『浄瑠璃体系図』 天保十三年(1842)
雲州近松村説
『続新選和漢書画一覧』 文政五年(1825)
『新選和漢書画一覧』 天保六年(1835)
『古今墨跡鑑定便覧』 安政二年(1855)
参照:佛教大学四条センター講義(平成11年秋、長友千代治先生)