受難の歴史

天文法難

 天文5年(1536)、比叡山延暦寺の僧兵・僧徒ら18万人(9万人?)が京都の日蓮宗宗徒を襲撃。 京都二十一箇本山が焼き払われ、洛中の三条以南の下京と上京の1/3が焦土となった。この後、日蓮系教団は京都追放され、堺(大阪府)などに避難する。天文11年(1542) 京都に帰ることが許され、復興をとげるが、21ヶ寺あった本山は15ヶ寺に減少し大幅に勢力をそがれることとなる。

安土宗論

 京都の日蓮宗は、一個の強力な社会勢力であり、天下統一を企図する信長にとって無視できぬ存在であった。宗論ではあるが、純粋な教義論争でなく、実質は浄土宗と結託した信長による日蓮宗弾圧であった。その結果、日蓮宗が負けたこと、今後他宗に対して一切法論をせぬこと、日蓮宗を立て置かれて忝けないとの、京都諸本寺連署の起請文を信長に提出させられた。

不受不施

 日蓮宗の僧は他宗の信者の布施供養を受けず、信者は他宗の僧に供養してはならない制誡が、当時の日蓮宗にあった。しかし、豊臣秀吉の千僧供養出仕の是非 をめぐって大論争が巻き起こる。文禄4年(1595)に方広寺大仏殿の法要に出仕要請があったのである。ここで、「受不施」と「不受不施」の分裂 したのである。慶長4年(1599)徳川家康面前で不受不施派と受不施の対論があり、不受不施派はキリスト教と同じく禁制になった。

 不受不施派は教義ではなく、信仰の行動理念である。しかし、この問題は教団内に深刻な内紛を巻き起こしてしまった。

江戸時代の宗教統制

 江戸時代の仏教は徳川幕府の宗教行政の枠のなかで存在する仏教であった。徳川幕府は仏教に対して干渉の一方で手厚く保護した。寺請制度が設けられ、キリスト教の監視を担わされた。民衆は固定した寺院の檀家となり、菩提寺の変更は結婚のとき以外は禁止となった。事実上、寺院に民衆の戸籍があり、結婚、引越、奉公、検死、埋葬、旅行の際は寺院の寺請証文が必要であった。

 これにより寺院は固定の檀家をもつこととなり、寺院運営の経済的基盤は盤石となり安定した。これは保護政策のようであり、そうでない面もある。 自由に布教できないのである。菩提寺の変更ができないのであるから、布教して新たな檀家を得ることができないので、教団や寺院の勢力をのばすこともできない。固定した檀家の教化だけしか許されないのである。

  布教は真剣勝負であり、成果をあげるには相応の研鑚と情熱が必要である。その布教に力を入れなくても寺院運営がなりたつ寺檀制度ができたことで、教団、寺院、僧侶ともに布教への情熱が鈍化したかも知れない。いや、江戸時代は檀林(僧侶の学校)が整備され、教学 やそれに基づく信仰が津々浦々に浸透した。幕府の宗教統制の中にあっても、法灯を護りつづけ伝承しつづけることができた。

寺檀制度の弊害

 問題が起こるのは、明治以後とくに昭和の戦後かも知れない。明治期に既成仏教宗派の多くは僧侶が世俗化し た。昭和になるとろくに布教も研鑚もせず、死者儀礼に終始する僧侶が少なくない。そのようなことを可能ならしめたのは江戸時代にできた寺請制度を引きずった寺檀制度に安住できたからである。

 さらに、次頁でも述べるが、江戸期の庶民信仰を巧み取り入れ、妙見宮や稲荷明神など神祇が奉られ、新たに木釼修法というものが始まった。このことは、寺請制度に端を発する寺檀制度で、他宗派の檀徒となってしまった民衆を布教して改宗させられ ない教団にとっては、有効な布教手段であった。現世利益を求めて参詣した信徒に日蓮仏教を説く機会が生まれるのである。しかし、これも昭和期になると弊害を生んでいる。日蓮宗は祈祷教団とばかりに、ろくに布教も研鑚もせず、木釼修法に終始してしまう僧侶と、彼らに感化された信徒が日蓮宗を誤解しているのである。

苦滅の仏法 その本質へ