最澄の入唐

●鑑真和上と伝教大師最澄

 鑑真和上(687-763 ※ )は唐の高僧であった。諸宗派を学び、授戒や戒律の講義をしていた。また、古寺を修理したり、一切経を写経するなど高僧として信望があつかった。

 一方日本では僧尼令 ※ があったが、それに反した行基菩薩(668-749)の民間伝道や私度僧の増加などにより、律令政府は唐の授戒制度や戒律研究を必要としていた。天平5年(733)に派遣された遣唐使により、インドの菩提僊那(ぼだいせんな)や唐の道弱(どうせん)といった僧を日本に招請したが、正式な授戒には少なくとも三師七証 ※ の10人の僧が必要だった。そこで、鑑真和上の招請となる。

 遣唐使の栄叡(ようえい)と普照が「日本では、かつて隋の南岳大師慧思が日本の聖徳太子に生まれ変わって ※ 法華経を弘めたものの、今だ戒律が伝わらず、戒律を授ける高僧10人が是非とも必要です」と言った。

 その慧思は天台大師の師匠でもあるが、鑑真にとっても5~6代前の祖師に当たる。天台と戒律に詳しい鑑真和上はこの言葉に鑑真和上は祖師である南岳大師慧思が日本から自身を呼んでいる実感をいだいた。それが、難破や師僧の出国を願わぬ弟子などの妨害など5回の失敗を乗り越え、自ら視力を失う辛苦を味わいながらも日本に渡った理由だろう。

 来日してからは東大寺に戒壇院を築いて、日本で最初の受戒会を弟子とともに行った。また、唐招提寺を開いて戒律を教え導いた。日本の律宗の開祖となる。

 さて、鑑真和上は日本渡航に際してたくさんの天台典籍をもたらした。鑑真和上の入滅から3~4年後に生まれた伝教大師最澄(767-822)はこの典籍を読んで天台法華教学に目覚め、後に入唐して天台仏教を日本にもたらす。実に鑑真和上の不屈の日本渡航の業績は天台法華仏教にとっても大きな偉業である。

※ 鑑真和上の生没年には、688-763、687-763、688‐769など諸説あり。

※ 僧尼令(そうにりょう) 僧尼に関する行政と刑罰の規定。贈賄・音楽・博戯・飲酒・食肉・食五辛(ネギ、ラッキョウ、ニラ、ニンニク、ショウガ)・蓄財・商取引・焚身を禁止し、また、天文による占い、霊媒師、民衆教化、私度僧なども禁止している。山林修行や乞食行も届け出が必要だった。大宝元年(701)に施行された。

※ 三師七証 戒和上(かいわじよう)と羯磨阿闍梨(こんまあじやり)と教授阿闍梨、七人の証人。

※ 『上宮太子菩薩伝』

   南岳慧思禅師(515-577)と聖徳太子(574-622)とは生没年が4年間重なっている。

   『遊方記抄』 大正新脩大藏經 51巻 P988 b L13

榮叡普照至大明寺。頂禮大和尚足下。具述本意曰。佛法東流。至日本國。雖有其法。而無傳法人。日本國昔有聖徳太子。曰二百年後。聖教興於日本。今鍾此運。願大和上東遊興化。大和上答曰。昔聞南岳思禪師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。

●伝教大師最澄の入唐

 最澄は延暦4年(785)19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒を受けたが、僧堂生活をすべきところを比叡山に入って山林修行の生活に入った。この修行中さまざまな仏教典籍を読破するなか天台の典籍に出会った。これは鑑真和上によってもたらされたものである。

 全ての人の成仏を説く天台法華の教学に魅せられた最澄は、さらに山に籠もって行学に励んだ。その行学の成果が結実し、内供奉十禅師に任ぜられ、高雄山寺(神護寺)法華会の講師に招かれた。その評判が天皇の耳にも達し、それが機縁で入唐求法の還学生(げんがくしよう)(短期留学)に選ばれた。

 最澄は弟子の義真(781-833)(後に初代天台座主)を通訳に連れ、空海とおなじ延暦23年(804)7月、遣唐副使の第二船に乗って出発した。

 8月末 中国の明州(寧波)に到着。船旅に体調を崩した最澄はしばらく天台山への出発を遅らせる。

 9月15日 明州の牒(ビザ)を得て天台山に向かう。

 9月26日 約160km歩いて台州の臨海に到着。天台山に直行せずに大回りをしたのは、台州の滞在許可(ビザ)が必要だったからである。最澄は台州刺史(最高長官)陸淳に面会した。最澄は陸淳によって当時の天台宗の最も優れた高僧だる道邃和尚に出会うことができた。道邃和尚は陸淳刺史の依頼で、たまたま天台山から台州の龍興寺に『摩訶止観』の講義に来ていた。
 最澄は天台大師の祖廟参拝のため臨海から約50kmの天台山に登る。国清寺では惟象阿闍梨から雑曼荼羅の供養法(密教)を受け、天台山仏隴では行満和尚に八十余巻の仏典と妙楽大師湛然の遺品を授けられた。そして、天台大師の廟のある真覚寺に詣でて、「求法斎文」を誦した。
 11月5日 天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどる。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写に専念することになる。最澄は8ヶ月の入唐期間のうち6ヶ月をこの台州に留まり、そのほとんどを龍興寺で過ごす。また、弟子の義真は12月7日に国清寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受け、帰国後に入唐僧として十分な資格を得て、後に初代天台座主となる。義真は同時に国清寺固有の典籍の書写した。

 2月20日には103部253巻(一説には230部460巻)もの写経を終えた。還学生(短期留学)の最澄にとって帰国船に乗るまでの期間は限られていた。それにも関わらずこれだけの成果を出した。これには陸淳が20人の写経生の動員に協力し、道邃和尚、行満和尚も資料の厳選と収集や僧侶を動員など好意的な協力を惜しまなかったのであろう。

 3月2日 最澄と義真は円教菩薩戒を受戒した。これが、後に比叡山で法華経による大乗円頓戒の独立への根拠となる。

 3月25日 明州(寧波)に到着。

 4月3日 遣唐使一行が明州(寧波)に到着。

 4月8日 最澄は越州(紹興)に向けて出発。越州(紹興)では天台密教のもととなる受法をする。ここでは法華仏教に焦点を当てるので詳説はしない。

 5月18日 遣唐第一船に乗船し、日本に向け出航。

●最澄の業績

 『法華経』は聖徳太子が弘め、天台仏教は鑑真和尚が伝えたものの、それらが日本で大きく花開いたのは最澄の求法入唐を待たなくてはならなかった。帰国の翌年である延暦25年(806)正月、南都六宗のほかに独自の宗派として天台宗が公認された。

参考図書・資料

 「聖地 天台山」 陳 公余/野本 覚成 著 佼成出版社
 「天台大師の生涯とその業績」 武 覚越 天台宗務庁(布教課) 非売品
 CBETA 電子佛典測試普及版 完成日期:2001/04/30
 岩波仏教辞典
 「世界大百科事典」第2版 平凡社

苦滅の仏法 その本質へ