章安大師灌頂 (561-632)
天台大師(智者大師智顗)の侍者となり、天台大師の講義の筆録『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』(天台三大部)などを編纂した。後の時代に天台大師の教説に触れることができるのは章安大師灌頂の業績によるところが大きい。
『妙法蓮華経文句』(法華文句) 十巻
天台大師が587年、金陵(南京)光宅寺で講義した法華経の筆録。10巻。法華経の経文の解釈。
『妙法蓮華経玄義』(法華玄義) 十巻
天台大師が593年、荊州玉泉寺で講義した筆録。法華経の要旨を総論したもの。10巻。
『妙法蓮華経』の経題について五重玄義(※)からその特色を述べたもの。
※五重玄義
釈名 題名の解釈
弁体 題名に現された本質を明確にする
明宗 教えの修行宗旨を明らかにする
論用 教えのはたらきを論ずる
判教 仏教全体中で経の教えが占める位置を定める
『摩訶止観』 十巻
天台大師が594年、荊州玉泉寺で講義した筆録。『法華文句』が法華経の解説、『法華玄義』が法華経の題目の解説とすれば、『摩訶止観』はその実践を説いたもの。円頓止観(序文)、十乗観法(正説-正修-陰入界境)、一念三千(正説-正修-陰入界境-観不思議境)、四種三昧(正説-大意-修大行)、一心三観(正説-正修-陰入界境-修道品)など、天台宗とその発展に不可欠なことが論じられる。
妙楽大師湛然(荊渓大師) (711-782)
唐代中期の僧。天台第六祖 ※ で天台を中興した。その出身地から荊渓尊者。あるいは妙楽大師と称される。儒学の教養があり、730年に左渓玄朗に就き20年間天台を学ぶ。出家は遅く38歳である。
唐の時代になると、新しく興った華厳宗や禅宗が隆盛であり、さらに新しくインドから唯識仏教(法相宗)伝来していた。妙楽大師は律、唯識、華厳に通じ、それらに対抗し て天台の宗勢を発展させた。また、天台宗の宗旨を発展的に確立しそれを宣揚した。天台大師の典籍を注釈し、なかでも天台三大部の註釈は現在でも天台学研究の必須の書である。弟子のうち、道邃と行満は後に入唐した最澄の受法の師である。
※ 中国天台宗では、歴代先師を第何祖とするかは何種類かの数え方があるようだ。インドの龍樹を初祖とする数え方もあるようだ。ここでは下記の資料の如く天台大師を初祖としている。(天台→灌頂→智威→慧威→玄朗→湛然)
天台實傳唐章安灌頂。,章安傳縉雲智威。縉雲傳東陽慧威。東陽傳左溪玄朗。左溪傳荊溪湛然。『四明尊者教行録』大正新脩大藏經 46巻 P915 c L22
一方でインドの龍樹を開祖とする数え方もある。『佛祖統紀』(大正新脩大藏經 49巻 P177 c L11)、『天台九祖傳』(下記参照)など。
高祖龍樹菩薩 二祖北斉尊者。三祖南嶽尊者 四祖天台教主智者大師 五祖章安尊者 六祖法華尊者 七祖天宮尊者 八祖左谿尊者 九祖荊溪尊者 (大正新脩大藏經 51巻 P97 a 29)
開祖 | 龍樹菩薩 | インド 150-250年頃 | |
二祖 | 慧文禅師 | ||
三祖 | 南岳慧思禅師 | (515-577) | |
開祖 | 四祖 | 天台大師智顗 | (538-597) |
二祖 | 五祖 | 章安大師灌頂 | (561-632) |
三祖 | 六祖 | 法華智威 (縉雲智威) | 大正新脩大藏經 巻49 P187 b L6 巻51 P101 c L24参照 |
四祖 | 七祖 | 東陽慧威 | 大正新脩大藏經 巻49P187 c L29 巻51 P102 a L2参照 |
五祖 | 八祖 | 左渓玄朗 | 大正新脩大藏經 巻49 P188 a L16 巻51 P102 a L12参照 |
六祖 | 九祖 | 妙楽大師湛然 | (711-782) |
法難と五時八教
妙楽大師が天台宗を中興し、最澄が遣唐使として入唐(804年)したのち、唐(618~907)の末期の戦乱期に「会昌の法難」(845年)が起こった。これは三武一宗の法難の一つである。道教の教徒による画策で起こされた国家権力による仏教排斥運動(排仏)。天台宗も手痛い被害を受けて衰退してゆく。次に中興されるのは宋(960-1279)の時代である。
會昌焚毀中國教藏殘闕殆盡
(『天台四教儀』 四教儀縁起 大正新脩大藏經46巻P774 a)
会昌の法難により天台の典籍が焼かれ破られ、中国の教蔵は残欠(欠けて完全でない)状態となった。
会昌の法難では、天台宗の典籍は焼かれたり廃棄されたりして典籍を散逸していた。そこで中国天台宗は朝鮮半島や日本の天台宗に欠けた典籍の復帰支援を請じなくてはならなかった。実際、中国の高僧徳韶は日本に使者を送り、天台典籍を求めた。それに応えて周の時代(953年)比叡山の日延が天台典籍を天台山に運んだ。
また、宋の時代(961)年 に高麗(朝鮮)では諦観法師が天台山に天台典籍をもたらした。その過程で、中国天台宗に諦観の『天台四教儀』の五時八教教判の教義が混入してしまった。
五時八教という用語は妙楽大師湛然が既に使用している。しかし、教相判釈としての五時八教が現在の形に完成したのは宋の時代である。諸経に対して法華経が最も優れていることを解りやすく説明していて、天台を学ぶ者がまず教わることであるが、果たしてそれが元々の天台の教義であるのかどうか。また、学術的なインド仏教学が一般的に認知されている時代に、それがどれだけの妥当性と説得力を持っているのか。検証が必要だ。
参考図書・資料
「聖地 天台山」 陳 公余/野本 覚成 著 佼成出版社
「天台大師の生涯とその業績」 武 覚越 天台宗務庁(布教課) 非売品
CBETA 電子佛典測試普及版 完成日期:2001/04/30
岩波仏教辞典
「世界大百科事典」第2版 平凡社
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このページは筆者の勉強の為にまとめたものであり、記録した研究成果は参考文献の著者のものである。とくに天台宗の野本覚成師には、著書「聖地 天台山」から長々と引用させて頂いた上に、CBETA 電子佛典の紹介とその利用方法の紹介、数年来のインターネットを介した御教示などとてもお世話になった。野本師なしにこのページをまとめられなかったし、このような知識にも遭遇できなかった。深く感謝するものである。