法花山 本興寺 (ほんこうじ)
日什上人(1314-92)の霊跡
日什上人は比叡山で修学した天台宗の学僧であり指導者であった。故郷の会津で、日蓮聖人の著作を読んで感銘し改宗した。日蓮門下に改宗してからの活躍はすばらしいものであり、顕本法華宗の派祖でもある。現在は日蓮宗に属する。
[場所] 横浜市戸塚区
靖定山 久昌寺 (きゅうしょうじ)水戸徳川家の霊跡
徳川光圀が生母の久昌院靖定の菩提を弔うために建立したお寺。久昌院はその生母養珠院と同じく熱心な法華信徒であった。徳川光圀は学徳優れた僧侶を養成することに熱心で、久昌寺檀林という僧侶の教育機関を作り、後の三昧堂檀林となる。
[場所] 茨城県常陸太田市新宿町239
開本山 妙顕寺 (みょうけんじ)
美濃阿闍梨天目(-1337)の開創。天目上人の母は日蓮聖人の熱心な信者であった熱原甚四郎の娘と伝わる。後に六老僧の日向聖人に訓戒された。下野阿蘇郡奈良淵村(栃木県)での布教で、唐沢城主の佐野家及び家老の帰依を得て建立されたのが妙顕寺である。
[場所] 栃木県佐野市堀米町264
広栄山 妙覚寺 (みょうかくじ)
文永元年(1264)に日蓮聖人が帰省したその時、母が息絶えたところであった。日蓮聖人が読経唱題をすると母は蘇生した。その不思議を聞いた興津城主佐久間重貞は、城内の釈迦堂に日蓮聖人を招き説法を聞いた。その説法は半月に及び、家中皆深く感激して法華経の信徒となった。重貞は釈迦堂を日蓮聖人に献上し、聖人はこれを妙覚寺と称した。
また重貞は息子二人を日蓮聖人に預けた。この二人が日保、日家となって一帯を伝道し、また小湊誕生寺を創建した。[場所] 千葉県勝浦市興津1195-1
長崇山 妙興寺 (みょうこうじ)
日蓮聖人の檀徒であった曽谷教信(法蓮)の嫡子、曽谷四郎左右衛門直秀(道崇)の建立と伝わる。開山は六老僧に次ぐ日蓮聖人の直弟子である大受阿闍梨日合上人。開創の地に七堂伽藍があったが永録3年に里見氏の兵火で消失した。そのときに現在の芳賀山の地に移転した。身池対論で池上大坊本行寺を出た不受不施派僧侶の中妙院日観上人はここに檀林を開いて学僧の教育に専念した。江戸初期の不受不施派の一拠点として発展する。祖師堂は徳川家光の第三息女が1000両を寄進して建立したもの。
[場所] 千葉市若葉区野呂町738
正東山 日本寺 (にちほんじ)中村檀林の霊跡
嘉暦年間(1324-28)の頃、中山法華経寺三世浄行院日祐が弘通のおり、領主千葉胤貞の帰依を得て東福寺を創建した。これが、日本寺の始まりである。当山十三世として入寺した法華経寺十世賢聖院は北条氏の帰依を得て寺領を拝し、寺号を日本寺と改めた。天正十九年(1591)には徳川家康より朱印を受けた。後に、飯高檀林と対峙して繁栄した中村檀林が栄えた。
[場所] 千葉県香取郡多古町南中1820
妙高山 正法寺 (しょうぼうじ)小西檀林の霊跡
開基は小西城主原肥前守胤継、開山は平賀本土寺八世妙光院日意。長禄二年(1458)、日意上人の教化に帰依した胤継は、館を廃して堂を構築し、日意上人を迎えて開山とした。原一族の日意上人への帰依は篤く、日意上人創建の九ヶ寺のうち五ヶ寺が、この原一族の開基である。後に開かれた小西檀林は関東三大檀林の一つとして繁栄した。
[場所] 千葉県山武郡大網白里町小西755
大野山 本遠寺 (ほんのんじ)日遠上人とお万の方の霊跡
開山は心性院日遠上人。開基は徳川家康の側室であったお万の方(養珠院日心)。日遠上人は日蓮宗中興の祖とされる重乾遠(じゅうけんのん)の一人。徳川家康の忌諱に触れた日遠上人は身延山二十二世法主を辞して大野に隠棲したが後に再入山する。日遠上人の滅後にお万の局が日遠上人を開山に建立したのが本遠寺である。遺言によりお万の局も本遠寺に葬られる。
[場所] 山梨県南巨摩郡身延町大野839
青龍山 本覚寺 (ほんがくじ)
延慶元年(1308)日位上人の開創。第二世は足利尊氏の叔父に当たる管領上杉頼重の子である。江戸時代には将軍より朱印状を賜り、十五万石の格式をもち、右大臣西園寺家より宗門最高の今朝法衣永代着用を許可された。明治二年に火災に遭うが、その後復興した。
[場所] 静岡市駿河区池田1379
大成山 本立寺 (ほんりゅうじ)
この地の豪族江川太郎左衛門吉久が日蓮聖人が諸宗遊学のおりに教化を受けたと伝わる。その江川氏の子孫が永正6年(1509)開基檀越となって建立された寺院で、開山は円明院日澄上人である。
[場所] 静岡県田方郡
実成寺 (じつじょうじ)
[場所]
富士山 久遠寺 [小泉] (くおんじ)
大石寺二世日目の滅後、日郷と日道は後継をめぐって争った。日道が大石寺を継ぐことになり、日郷は妙本寺(房州)に退いた。しかし、大石寺をめぐる争いはその後も続き、日郷と日動の滅後の弟子の第にまで及んだ。しかし、応永13年(1406)日郷の門流は現在の小泉に久遠寺を建立し現在に至る。富士五山(北山本門寺、大石寺、西山本門寺、妙蓮寺、小泉久遠寺)のひとつであるが、北山本門寺とともに現在は日蓮宗に属する。
[場所] 静岡県富士宮市小泉1649
龍水山 海長寺 (かいちょうじ)
仁寿2年(852)慈覚大師の開創と伝わる。文永9年(1272)天台宗から日蓮宗に改宗した。改宗にたずさわった中老僧日位を開山とする。もとの名称は峨岳寺であったが江戸時代になって海長寺となる。
[場所] 静岡市清水区村松299
本立山 玄妙寺 (げんみょうじ)
玄妙院日什上人は天台宗の学僧から日蓮宗に改宗した顕本法華宗の開祖。その日什上人と真間山弘法寺の日宗との法論を傍聴していた宿の主人が建立した。日什門流の三本山のひとつ。
[場所] 静岡県磐田市見付
延兼山 妙立寺 (みょうりゅうじ)
[場所] 静岡県湖西市吉美2745
金栄山 妙成寺 (みょうじょうじ)
日像上人開基で前田家が外護した荘厳な伽藍を有する寺院
帝都(京都)弘通を果たした日像(1269-1342)の開基。永仁二年(1294)創立。日像上人が佐渡霊跡巡拝を終えて都へ登る途中、杖を岩間に挿して「我に所願あり、杖芽を出さば一寺を建立せよ」と告げて日像は都へ急いだ。その地に建立されたのが妙成寺。日像上人弘法最初の霊地と位置づけられる。後に、前田利家が能登の領主として巡視に際し妙成寺に赴いて、日像上人開基の寺であることを知り、寺領を寄進して祈願所となしてこれを保護した。前田家は初代利家から利長、利常、光高、綱紀、吉徳と六代に亘って外護丹誠をこめて、十棟もの重要文化財を有する名刹となった。
[場所] 石川県羽咋市滝谷町ヨ1
白雲山 報恩寺 (ほうおんじ)紀伊徳川家の御廟所
徳川御三家の紀州藩の菩提寺。紀州藩祖徳川頼宣の夫人であった瑤林院(加藤清正息女)の菩提を弔うために紀州藩第二代藩主徳川光貞(八代将軍吉宗の父)が創建した寺院。以来、紀州藩一族藩士の菩提寺となる。
[場所] 和歌山市吹上1丁目6-38
広晋山 妙国寺 (みょうこくじ)
[場所] 大阪府
堺市材木町東4丁1-4
自昌山 国前寺 (こくぜんじ)
帝都弘通を果たした日像聖人の開山と伝わる。当初は暁忍寺と称していたが、明暦2年(1656)国前寺と改称し、本堂、番神堂、客殿、庫裡、仁王門などが建立され、浅野藩の菩提寺となる。しかし、元禄4年(1691)不受不施を貫こうとしたために菩提所の地位と寺領を召し上げられ、大寺は平寺となってしまった。
[場所] 広島市東区山根町32-1
松尾山 光勝寺 (こうしょうじ)
正和2年(1313)中山法華経寺2世日高上人の依嘱を受けた日厳上人が弘通し当地に創建したの寺。日蓮宗の九州における最初の拠点。後にはなべかむり日親上人も当地に派遣される。極めて厳格な日親上人は当山を追放されるが、のちに地頭千葉氏の帰依を受けた。
[場所] 佐賀県小城市小城町松尾4421
妙宣寺 (みょうせんじ)
[場所]
日円山 妙法寺 [堀之内] (みょうほうじ)
元和四年創立(1618)で真言宗寺院を日蓮宗に改宗した。江戸時代より厄除け開運・病気平癒祈願を性格とする信仰を喚起した。江戸庶民の熱烈な信仰を集め、関東屈指の法華霊場となった。当山出身の僧侶は読経が達者な方が多い。また、山内の堀之内静堂では著名人の葬儀がよく行われている。
[場所] 東京都杉並区堀ノ内3丁目48-8
妙国寺 (みょうこくじ)
顕本法華宗の開祖玄妙日什上人(1314-92)の誕生、入滅の地。
[場所] 福島県会津若松市
孝勝寺 (こうしょうじ)
中老僧日門上人の開創。伊達家に嫁した振姫(徳川家康の孫)由緒の寺。
[場所] 仙台市宮城野区榴岡4丁目11-11
妙厳山 本覚寺 (ほんがくじ)
永享八年(1436)一乗坊日出の開創。日出は本覚寺の前身である夷堂にあって鎌倉布教に際して管領足利持氏の怒りを受けた。捕らえられ死罪に直面したが、かえって足利持氏の帰依を受け、当地に本覚寺を創立した。第二世の日朝は身延山に晋山し、日蓮聖人の遺骨を分骨し本覚寺に奉安した。前身の夷堂は日蓮聖人が佐渡流罪から帰られたおり留まられた所である。その間、北条時宗に三回目の国家諫暁をされ、後に身延山に入山された。
[場所] 鎌倉市小町1丁目12-12