生涯

生誕

 近松門左衛門の本名は杉森信盛で、幼名を次郎吉という。

 父は杉森信義で近松門左衛門はその次男である。父の杉森信義は松平昌親※1に仕え、300石どりであったが後に浪人となる。

 と、ここまで説明する資料は多い。問題は近松門左衛門の母の杉森喜里である。

 近松門左衛門の母は「杉森家系譜」の何れにも※2、「岡本為竹法眼女」とある。岡本為竹法眼の娘ということである。越前藩資料※3によれば、岡本為竹法眼は養子を迎え、明暦二年(1656)には家督が渡されている。近松門左衛門の誕生から3年目のことである。岡本為竹法眼には家督を継がすべき子が、近松の母以外には居なかったことも考え得る。
 この岡本為竹法眼は越前藩『万病回春病因指南』(享保6年11月奥書)によると、藩主である松平昌親に仕えた医師である。考えようによっては、藩主お抱えの主治医の家系の唯一の子を、近松門左衛門の父はめとってしまったのかも知れない。
 そうなると事情によっては越前には居づらくなり、よって近松門左衛門の一家は京都へ移住したのではないかという説がある。さらに、近松門左衛門の弟である伊恒(これつね)は、後に屈指の医学者となり岡本為竹(一抱)と名乗る。※4この説は現在の福井県鯖江市から京都へ移住した近松門左衛門を説明するのに一番スッキリしている。

京都移住そして作家へ

 さて、現在のところ、越前で出生して次の資料がいきなり京都ということになってしまう。
 寛文十一年(1671)の俳人山岡元隣※5の『宝蔵』(たからぐら)に近松門左衛門の俳句があらわれる。

しら雲やはななき山の恥かくし

 春なのに桜が咲いていない山は恥ずかしい。そんな山を白い雲が覆っている情景を詠んだものであろう。ともかく、数え年19歳には京都に居たようである。
 翌年の寛文十二年(1672)には仕えていた公家の一条恵観(昭良)※6が死去している。 また、師事した『宝蔵』の山岡元隣もこの年に死去している。近松門左衛門はこの二人を通して古典や俳諧の奥義を学んだものと思われているが、この二人を失うことは近松門左衛門にとって大事件に違いない。

 この翌年、寛文十三年(1673)正月より幾多の浄瑠璃作品が著されているようである。天和三年(1683)の 「世継曽我」が宇治座上演されるまで、宇治加賀掾のもと修業時代はしばらく続く。
 「世継曽我」が、貞享元年(1684)大坂道頓堀で旗揚げした竹本義太夫によっても語られて評判になり、作者としての地位を確保する。

 また、近松は元禄六年(1693)から享保六年(1721)ころまで歌舞伎作者としても活躍している。

 幾多の作品については作品リストを参照して欲しい。

晩年

 近松は晩年次のような辞世文を残した。

近松門左衛門画像辞世文
  近松門左衛門性者杉森字者信盛平安堂巣林子之像
  代々甲冑(かっちゅう)の家に生れながら武林を
  離れ三槐九卿(さんかいきゅうきょう)につかへ
  咫尺(しせき)し奉りて寸爵なく 市井に漂て
  商買しらず 陰に似て陰にあらず 賢に似て賢な
  らず ものしりに似て何もしらず よのまがひも
  の からの大和の数ある道々 妓能 雑芸 滑稽
  の類まで知らぬ事なげに口にまかせ筆にはしらせ
  一生囀(さえず)りちらし 今はの際にいふべく
  おもふべき真の一大事は一字半言もなき倒惑 こ
  ゝろに心の恥をおほいて七十あまりの光陰 おも
  へばおぼつかなき我世経畢(へおわんぬ)
   もし辞世はと問人あらば
   それぞ辞世 
   去ほどに扨(さて)もそのゝちに
   残る桜が花しにほはゞ
     享保九年中冬上旬
  入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士
     不俣終焉期 予自記 春秋七十二歳
     のこれとはおもふもおろかうづみ火のけぬ
     まあだなるくち木がきして

 また、近松門左衛門が亡くなる年の2月18日に、紀州の道具商山本五郎左衛門に宛てた手紙がある。内容については、
南部再生 Vol.55 尼崎コレクション Vol.26 《近松門左衛門書状》
(外部リンク)を参照。

 父親の浪人、京都への移住、京都で仕えた公家が亡くなり、苦渋の選択ともいえる武家から浄瑠璃や歌舞伎の作家へと転身を果たし、不朽の名作を残したのが近松門左衛門である。

※0 この頁は主に佛教大学国文学部国文学科長友千代治教授の講義(平成11年、佛教大学四条センター)による。
※1 松平忠昌の庶子(側室の子)。正保2年(1645)吉江藩2万5000石の藩主となる。延宝2年(1674)福井藩を相続することになり、吉江藩も福井藩に組み込まれた。
※2 「杉森家系譜」には甲乙丙の三種がある。
※3 越前藩『諸士先祖之記録』(享保六年十一月)福井県立図書館蔵
※4 『元禄大平記』五・四 元禄十五年三月
※5 山岡元隣 江戸前期の仮名草子作者・俳人。伊勢の人。北村季吟に和歌・俳諧を学び、著には「宝蔵」などの俳書とともに、「徒然草増補鉄槌」など古典の注釈も多く、仮名草子に「他我身之上(たがみのうえ)」「小巵(こさかずき)」などがある。(1631~1672)
※6 一条恵観は後水尾天皇の弟。 後陽成天皇(1571-1617)第九子。一条家を継ぎ、寛永六年従一位に進み、摂政を二度歴任。慶安五年入道し「恵観」を名乗る。寛文十二年(1672)六十八歳で入寂するまでの二十一年間仏門にあった。

参照:佛教大学四条センター講義(平成11年秋、長友千代治先生)

苦滅の仏法 その本質へ