部派仏教

名称と分裂

 お釈迦様の入滅から100年ほどしたとき、ヴェーサーリーにて700人の僧侶が集まって仏典編纂会議(第二次結集)が行われました。その理由は、跋闍子比丘(Vajjiputtaka)が、

「前日に布施された塩を蓄えておいて食事に供してよい」
「昼食後にも一定時間内なら食事をしてよい」

などというの十項目にわたる従来の戒律に例外※1を作り、戒律の緩和を唱えたためです。出家は一切の所有をしてはならず、塩ですら蓄えてはならない。出家は正午を過ぎて食事をしてはならない。そのような戒律の緩和です。一説には「金銀を蓄えてもよい」という条項も入っていたそうです。
 それがこの結集で律(教団規則)に違反すると判断されました。この決定に不満をもつ僧侶たちは新たな教団を形成して大衆部という部派ができ、仏教教団は「上座部」と「大衆部」に根本分裂しました。※2

 さて、根本分裂の後もさらに分裂してゆき20の部派※3に分かれました。この出家教団の仏教を小乗仏教※3(部派仏教)といいます。部派に分かれたので部派仏教※4ともいわれ、またアビダルマ(abhidharma)仏教ともいいます。分裂した中で最も有力な部派は、説一切有部でした。

教義の発展

 たくさんの部派に分かれたのは、もともとお釈迦様が対機説法で体系的な教理の説法をされていなかったことにも起因するのだろうと思われます。
 ともかく、仏教の教理がさらに詳細に研究され緻密な思索がなされて、それらが発展してゆきます。部派ごとに経(経典)律(戒律書)論(論書)の三蔵が整理されて教義が体系づけられてゆきます。しかし、それらは一方で壮大で煩瑣な教理に発展し展開してゆき、やがて碩学の出家修行者のみにしか伝え語れないほど膨大で難解で煩瑣なのものになってしまうにいたります。
 このように一般大衆が理解しえないような煩瑣な教理への発展は、大衆をおざなりにすることになり、大衆をも成仏の対象とした大乗仏教興起の原動力のひとつとなります。


※1 十事は南伝(スリランカ)の『島史(Dipavamsa)』『大史(Mahāvaṃsa)』にある。

※2 根本分裂の理由として「大天の五事」をあげる説もある。
大衆部の僧侶の大天(Mahādeva)が、阿羅漢にはまだ無知や疑念が残るなどという、阿羅漢のさとりを低く見る五つの事項を主張したために、大衆部が分裂する契機となったとされる。ここでは、それが「上座部」と「大衆部」に根本分裂した原因だという説であ る。

 小乗仏教と呼ぶのは大乗仏教の立場からであって、小乗仏教の教団が自らを小乗(Hīnayāna劣った乗物)と呼んだのではない。 また、小乗は失礼なので上座部と呼称するむきもあるが、小乗には上座部と大衆部があるので、それは正確ではない。上座部と大衆部を合わせて部派仏教というのが正確であるが、部派仏教というと一般には何のことかわからない。経典にも出現する「小乗」ということばが一般の方にはなじみがあると思い、あえて小乗という用語を記載している。筆者として、部派仏教を尊重こそすれ差別するつもりはない。

※3 20に分裂したと数えるのは北伝仏教。

上座部系は11部に分裂

①説一切有部(Sarvāstivādin)、②雪山部(Haimavata)、③犢子部(Vātsīputrīya)、④法上部(Dharmottara)、⑤賢冑部(Bhadrayānīya)、⑥正量部(Saṃmitīya)、⑦密林山部(Channagirika)、⑧化地部((Mahisasaka)、⑨法蔵部(Dharmaguptaka)、⑩飲光部(Kāśyapīya)、⑪経量部(Sautrāntika)

大衆部系は、9つに分裂

①大衆部(Mahāsaṃgītika)、②一説部(Ekavyāvahārika)、③説出世部(Lokottaravādin)、④鶏胤部(Kaukkuṭika)、⑤多聞部(Bahuśrutīya)、⑥説仮部(Prajñaptivāda)、⑦制多山部(Caitika)、⑧西山住部(Aparaśaila)、⑨北山住部(Uttaraśaila)。

合計20の部派となる。

※4 部派仏教は明治時代以後の日本における呼称

苦滅の仏法 その本質へ