如来蔵思想の成立
如来蔵思想は2~3世紀頃にインドで成立した大乗仏教の思想の一つであり。『阿弥陀経』『般若経(初期)』『法華経』などの初期大乗仏教に対して、こちらは中期大乗仏教と分類される。
初期大乗を『般若経』の空をもとに体系化したのは中観仏教の龍樹(150-250年頃)である。その龍樹と同じころに如来蔵思想が成立した。
如来蔵思想とは
如来蔵の原語(サンスクリット)は tathāgata-garbha で 如来を胎児として宿すもの という意味である。すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張である。
如来蔵思想は『如来蔵経』に始まり『不増不減経』『勝鬘経』によって継承され、『宝性論』にいたって組織体系化されたとされる。また、大乗の『涅槃経』では如来蔵を仏性ということばで表現し、その「一切衆生悉有仏性」の経文は有名。
これらの思想は、後の密教の成立に大いに寄与し、また中国や日本の仏教に深い影響を与えた。
『法華経』と如来蔵思想
初期大乗仏教の『法華経』でも「若有聞法者 無一不成佛」(方便品第二)とあり、「其中衆生 悉是吾子」(譬喩品第三)とある。『法華経』にはすでに、法華経を聞けば成仏しないということはなく、すべての衆生は仏の子供で、すなわち仏の遺伝子を持っていると説くのである。そこに、如来蔵の萌芽をみなくもないが『法華経』を如来蔵経典ではない。
『法華経』の場合は『法華経』を聞かなければ「無一不成佛」ではなく、衆生が悉く仏の子だと表明しても、それが既に仏であるとか仏をやどしているとは表明していない。たとい聞法や小善といったことでも菩薩行を要求する。また『妙法蓮華経方便品第二』の五千帰去は、『法華経』の聞法すらしない者を「退亦佳矣」と退けている。
ただ、『法華経』の一切衆生に対して平等に成仏の可能性を説く立場や、仏子という考え方は、如来蔵思想に影響は与えたかも知れない。
部派仏教(小乗)からの影響
如来蔵思想はまた部派(小乗)仏教の大衆部にある客塵煩悩(agantuka klesa)の考え方が影響していると想像できる。煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説である。
在纏位の法身
如来蔵は如来を如来たらしめている本性として法身(永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏の姿)にほかならず、ただそれが煩悩を纏(まと)っているため、まだ如来のはたらきを発揮出来ない状態にあるという考え方。すなわち、人間の本性は完全な仏であり、煩悩に覆われているから仏と成らないだけであり、煩悩という塵の層を除けばそこに完全な仏があるという考え方。
これが仏教として容認できるものなのかどうか。この思想により最低限の簡単な修行や規範もおざなりにされないか。検証が必要である。
如来蔵思想は仏教か
この件については、中古天台本覚思想を含めて
松本史朗 「縁起と空―如来蔵思想批判」 如来蔵思想は仏教にあらず
袴谷憲昭 「本覚思想批判」
などに詳しい。日本では如来蔵思想が「本覚思想」として仏教の本質をあらわすものと誤解されてきた。それはつい最近までにも色濃くあり、いまだにそのことに固執する教団や僧侶が少なくない。
無理もないことである。日本の仏教宗派の多くは鎌倉仏教であり、それらの開祖は比叡山で勉学した。そのころの比叡山は、中古天台本覚思想が蔓延している時期である。たとえ祖師が本覚思想に染まらなくても、その後の弟子たちが本覚思想にとっぷりつかり、祖師に仮託した偽書をあらわすということも行われた。そして、それにまつわる口伝が一子相承によって相伝されて来て、未だにその呪縛を信念としているむきもある。
あまりにも、東アジアに影響を与えた思想であり、この問題は現代までの日本仏教や今後の仏教のあるべき姿を考える上で大変重要なことである。