●概略
天台宗というと比叡山延暦寺の天台宗ということになるが、これは中国の天台宗を伝教大師最澄(767-822)が日本にもたらしたものである。天台法華宗ともよばれる、本来は『法華経』を中心にすえた中国で興った宗旨である。
中国の隋の時代、天台宗の実質的な開祖である天台宗三祖の天台大師智顗(ちぎ)(538-597)が中国仏教を再編成して、随の第二代皇帝の煬帝の帰依を受けた。その根本とした経典は『妙法蓮華経』である。智顗(ちぎ)が講義をして後に講義録として編纂された、『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』を天台の代表的な聖典として天台三大部という。それが、天台宗の根本の聖典である。智顗は現在の中国浙江省にある天台山国清寺など開いた。
一方、日本の伝教大師最澄は延暦23年(804)年遣唐使として中国に渡り、天台山などで天台仏教を学び帰った。ただ、この頃の中国は天台大師の時代と違った様相を示していた。お釈迦様の滅後千数百年も以上も経過してからインドで新しく成立した密教が伝わっており、また唯識仏教の玄奘三蔵(602-664)がインドを遊行してもたらした仏教もあり、唐の時代になると伝教大師最澄は純粋な天台法華仏教だけでなく、新しい仏教たる密教をも日本に持ち帰った。
●天台仏教の成立した時代背景
西暦220年に漢が滅亡してから589年に隋によって中国が再び統一されるまでの時代を魏晋(ぎしん)南北朝時代という。
仏教はすでに漢の時代に伝わっていたが、中国人の取り入れた仏教は格義仏教とよばれるものだった。それは当時の主流だった老荘思想など中国固有の思想を媒介として仏教を解釈するものであった。やがて、五胡十六国時代に西域の鳩摩羅什(350-409)らが中国に来訪した。鳩摩羅什の訳経と布教は中国人のなかにも高僧を輩出させ、貴族階級のなかに多くの熱心な信徒を得て、寺院や仏塔も多く建立された。そして、格義仏教の時代は終わる。
魏晋南北朝時代の各王朝は仏教を保護した。仏教はたいへんな発展をとげた。それは、やがて隋や唐の時代に仏教がさらに花開く準備期といえる。その、南北朝時代の末期から隋にかけて北朝に起こってきた仏教が天台仏教である。
南北朝時代はあいつぐ戦乱と社会不安の時代であり、より以上に救済を仏教に求める時代でもあった。天台仏教はその救済を鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』に求めた。また、同じく鳩摩羅什のもたらした中観思想(空の思想)は天台仏教草創期になくてはならないものだった。
●慧文
中国の南北朝時代、北斉の僧。慧聞ともいう。生没年、生地ともに不明。南岳大師慧思の師匠。龍樹の『中論』によって、一心三観の理を悟った。一心三観とは、
空観 執われの心を破し
仮観 すべての現象が仮りのものながら存在することを悟り
中観 絶待的(対立を超越している)世界に体達する
を一思いの心のうちにおさめとって観ずることをいう。それは、『中論觀四諦品第二十四』(龍樹撰述・鳩摩羅什訳)に
衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 ※
(大正新脩大藏經 30巻 P33 b 11行)
とあるように、いずれの縁起でもそれは我々は空と説き、それは仮名であって,それはすなわち中道であるという文言からきている。
やがて、この一心三観の思想を基にして、地獄から仏の十界それぞれに十界が互いに具わっている十界互具。更には十如是(『妙法蓮華経方便品第二』)と三世間と十界互具を掛け合わせた三千が一念の心に具しているという一念三千という天台宗の基本教義に発展する。
※ 『修習止觀坐禪法要』(天台大師撰述)には
如中論偈中説
因縁所生法 我説即是空 亦名爲假名 亦名中道義
(大正新脩大藏經 46巻 P472 c 18行)
とある。意味はおなじであるが引用された偈頌の文言が一部異なっている。
●南岳大師慧思 (515-577)
中国、南北朝末期の高僧。思大和尚とも称する。南岳衡山(湖南省)に僧団を作ったので南岳大師とよばれる。慧文のもとで禅の修行にはげみ、30歳をすぎたころ開悟。
その悟りは頓悟といって少しずつ悟っていくのではなく、一挙に悟る悟りである。その頓悟をもとに大乗仏教のあり方を山東・河南の各地で説いたが、仏教界の激しい迫害に遭う。
正法五百年 ※、像法千年、末法万年の三時説と末法思想が中国で最初に見える。後に、大蘇山に入り、さらに南岳に移って天台大師智顗をはじめ多くの弟子を養成。陳王朝から尊敬された。
自性清浄心を確信する頓悟(一挙に悟ること)中心の禅観と、護法のための大胆な菩醍戒など、革新的な思想の持ち主だった。天台宗だけでなく禅宗にも大きく影響した。
著作は、『法華經安樂行義』(大正新脩大藏經 46巻P697)『南嶽思大禪師立誓願文』(大正新脩大藏經 46巻P786)など。
※ 『南嶽思大禪師立誓願文』(大正新脩大藏經 46巻P786)冒頭参照。日本仏教では平安時代以後、吉蔵の『法華玄論』などに基づく正法千年、像法千年説が一般化した。日蓮聖人も正法千年の立場。
●天台大師(智者大師智顗) (538-597)
天台大師と称されるのは、天台山での修行で悟りを得て、天台山で入滅したからである。煬帝(隋の第二代帝)から智者の号を賜ったので智者大師、あるいは天台智者大師ともいう。
中国の陳・隋時代の僧。天台宗の開祖であるが、インドの龍樹、上記に挙げた慧文、慧思につぐ第四祖ともされる。
梁の高官で学問に通じた父と、仏教信仰の篤い母の間に生まれた。7歳の時に観音経を一度聞いて暗記してしまうなど幼少期から非凡の才能があった。17歳のとき梁が敗退して一家が難民となり、両親が死去する。両親の喪が明けた18歳で出家し、やがて慧思の門に入る。
天台教義を体系付け、陳や隋の皇帝の帰依を受ける。金陵(南京)の光宅寺で『法華文句』を講義し、故郷の草州に玉泉寺を創建して『法華玄義』と『摩訶止観』を講義した。これらは弟子灌頂の講義録として現在に伝わる。
天台大師の生涯については下記の天台大師年表に述べたのでここでは省略する。
天台大師年表
西暦 | 年齢 | 事項 |
538 | 1 | 湖南省華容(洞庭湖の北)にて生誕。父の陳起祖は、四書五経や史学など学問に精通し、武略にも通じた梁の高官だった。 南岳大師慧思24歳 <仏教が百済から日本に伝来した年> |
544 | 7 | 『観音経』を一度聞いて暗記。 |
554 | 17 | 侯景の乱とひきつづく西魏軍による江陵攻略により梁国が敗退。親族が難民となる。 両親が死去。 |
555 | 18 | 湘州(湖南省長沙)果願寺にて法緒の門に入って出家し十戒を授かって沙弥(見習い僧)になり名前が智顗(ちぎ)となる。 |
557 | 20 | 慧曠律師(543-613)に二百五十戒の具足戒を受け戒律を学び、かたわら大乗を学ぶ。 大賢山に入り法華三部経を誦し、方等懺法を行じて禅悦を得る。 |
560 | 23 | 光州大蘇山の慧思禅師(南岳大師)を尋ねる。そこは陳・斉の国境交戦地域であり、危険をおかしてのことであった。 ここで有名な霊山同聴の逸話がある。 「昔日霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追うところ今復来る」※1 と南岳大師に迎えられた。昔、お釈迦様がインドの霊鷲山で法華経を説かれているとき、同じくその説法を聴聞していましたね。前世からの因縁で今またあうことができましたという意味。 普賢道場にて四安楽行(『妙法蓮華経安楽行品第十四』に説かれる四つの安楽行)を教えられ、二七日(14日)目に『妙法蓮華経薬王菩薩本事品二十三』の「其中諸佛同時讚言。善哉善哉。善男子。是眞精進。是名眞法供養如来。(其の中の諸仏、同時に讃めて言わく、善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名く。)を誦し、身心豁然として入定する(大蘇開悟 ※3)。 ※豁然=疑いや迷いが、さらりと解けて物事がはっきりするさま ※入定=意識を集中させて心が外界のものや妄想によって乱されないような状態に入ること。すぐれた智慧や力が得られる。 このことを、南岳大師に告げたところ、南岳大師はさらに教え、4日で南岳大師の境地に至る。南岳大師は「汝に非ざれば証なし、我に非ざれば識ることなし」と称賛した。 ※2 慧貌という常倫を越えた僧侶に、経文証拠と諸法実相を示して、誤った暗唱の禅師であることを教えた。 南岳大師の代講をした智顗(ちぎ)の講義を聴いた南岳大師は「法を法臣に授けて法王は安泰だ」と言い、具足戒を授けた慧曠律師も「これはもはや私の弟子ではない」と称賛した。南岳大師は「自分の功績ではなく法華経の力だ」と称賛した。 ※4 翌年(561)、章安大師灌頂生誕 |
567 | 30 | 南岳大師慧思は南岳に行くことを決意し、智顗に追従を許さなかった。かわりに陳の都である建康(南京)の布教を命じた。 南岳大師は「すぐれた弟子を育てよ、悟りを得た最後の者になるな」と厳しく諭した。 智顗は27人を連れて建康(南京)に入り、瓦官寺に住んだ。 当時無名だった智顗が高名な法済禅師を論破し法済禅師は感服してそのことを宣伝し、智顗の評判が高まった。 瓦官寺では専ら『法華経』を講じた。 |
575 | 38 | 勅命による制止にも関わらず、天台山に入山。 |
576 | 39 | 天台山華頂峰の開悟。 天台大師は天台山の華頂峰で座禅をして煩悩を払う修行をしていると、凄まじい魔が降りて来た。それをしのいで明けの明星が出る頃に、仙人のような僧が天台大師の前に現れてその悟りを「一実諦」と評した。 ※5 |
577 | 40 | 南岳大師入滅(64歳) |
578 | 41 | 兄の陳鍼は仙人張果に短命を予言されて、智顗に救いを求める。智顗は方等懺法会(ほうどうせんぼうえ)を教え兄は15年間延命した。これが『天台小止観』と言われる。 |
581 | 44 | 天台山に放生池を定める |
585 | 48 | 永陽王に再三請われて天台山を離れ建康(南京)へ。(4年間) |
589 | 52 | 隋が陳の都の建康(南京)に迫り、陳は降伏。 智顗は建康(南京)を脱出して、廬山(中国江西省の北部にそびえる山岳)に留まる。 |
591 | 54 | 隋の晋王広(後の煬帝)が揚州(江蘇省)の禅衆寺を修復し天台大師を迎える。 |
592 | 55 | 廬山で雨安居。 南岳衡山に登り慧思禅師(南岳大師)の恩に報いる(供養をする)。 12月故郷の荊州に帰郷。一音寺(後の玉泉寺を建立) |
593 | 56 | 導因寺の慧巌の法華経講義の請いに対して、完成したばかりの玉泉寺で『法華玄義』を説く。章安大師灌頂(33歳)が筆受。 |
594 | 57 | 『摩訶止観』を説く。章安大師灌頂が筆受。 |
595 | 58 | 晋王広の請いにより揚州の禅衆寺に留まるが、さまざまな招請を辞して天台山に再入。 |
596 | 59 | 天台山に僧侶が集まる。高麗(朝鮮)の禅師波若もいた。 天台大師は僧侶の規範「立制法十条」を制定する。 嘉祥大師吉蔵、書面で慰問。 |
597 | 60 | 『維摩玄義』『維摩経疏』の2回目の献上 章安大師灌頂、『法華玄義』『法華文句』の修治本とともに天台山に帰り、天台大師の添削と口述を受ける。 吉蔵より『法華経』の講演を請われるが行けず。 天台大師は夏頃より病伏、自らの墳地(埋葬場所)と、その場所に二つの白塔を造るように遺言。 天台寺(後の国清寺)造営や、各寺院の修復を晋王広に願い出る(発願文)。 弟子の智朗の問いに答えて「吾れ衆を領せずんば必ず六根を清めん。他のために己を損す。位はただ五品の位のみ。吾が師友観音に侍従し、みな来たりて吾を迎う。波羅提木叉は是れ汝が師なり。四種三昧は是れ汝が明導なり」と遺言した。 11月24日未時間(午後2時頃)入滅。遺骸は即身仏として遺言の場所に墳蔵。 |
598 | 晋王広、天台大師遺言に従い天台寺建立を命じる。 一周忌には500僧による斎会。 | |
600 | 晋王広、皇太子となる。(兄である楊勇の皇太子を廃位) | |
601 | 天台寺完成 | |
604 | 晋王広、前皇太子(兄 楊勇)を殺して即位。一説には父である文帝も殺して即位。(煬帝 ※6 ※7) <この年聖徳太子が十七条憲法を発布> | |
605 | 天台寺が国清寺と改称。 |
※1 昔日靈山同聽法華。宿縁所追今復来矣。(昔日霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追うところ今復来る)章安大師灌頂による『隋天台智者大師別傳』 大正新脩大藏經50巻P191 c段 22行目。文末につけて、断定や推定の語気をあらわすことば「矣」がある。
※2 非爾弗證非我莫識。所入定者法華三昧前方便也。所發持者初旋陀羅尼也。(汝に非ざれば証なし、我に非ざれば識ることなし。入ることの定は法華三昧の前方便にして、発すところの持は初旋陀羅尼なり)『隋天台智者大師別傳』 大正新脩大藏經50巻P192 a段 5行目
※3 大蘇開悟であるが、空の悟りを意味する。南岳大師慧思は「汝に非ざれば証なし、我に非ざれば識ることなし」と天台大師をほめたあと、※2のように「入ることの定は法華三昧の前方便にして、発すところの持は初旋陀羅尼なり」と表した。これは『妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八』の、「以見我故。即得三昧及陀羅尼。名爲旋陀羅尼。百千萬億旋陀羅尼。法音方便陀羅尼。得如是等陀羅尼。(我を見るを以ての故に即ち三昧及び陀羅尼を得ん。名けて旋陀羅尼・百千万億旋陀羅尼・法音方便陀羅尼とす。是の如き等の陀羅尼を得ん)の三陀羅尼のうち最初の旋陀羅尼のことである。「空觀是旋陀羅尼。假觀是百千旋陀羅尼。中觀是法音方便陀羅尼。」(『妙法蓮華經文句』卷第十下)からすると、その旋陀羅尼は空・仮・中の三諦のうち空に配当される。
ただ、この段階では天台究極の悟りの空・仮・中の三諦円融の中道実相観に至っていない。「入ることの定は法華三昧の前方便」とされ、これは法華三昧の証悟の前段階と考えられるそうである。(「天台大師の生涯とその業績」武覚越 P7 参照)
※4 自開玄義命令代講。是以智方日月。辯類懸河。卷舒稱會有理存焉。唯有三三昧及三觀智。用以諮審餘悉自裁。思師手持如意臨席。讚曰。可謂法付法臣。法王無事者也。慧曠律師亦来會坐。思謂曰。老僧嘗聽賢子法耳。答云。禪師所生非曠之子。思亦無功法華力耳代講竟。『隋天台智者大師別傳』 大正新脩大藏經50巻P192 a段 23行目
※5 先師捨衆獨往頭陀。忽於後夜大風拔木。雷震動山魑魅千群一形百状。或頭戴龍〓。或口出星。火形如黒雲聲如霹靂。倏忽轉變不可稱計。圖畫所寫降魔變等。蓋少小耳可畏之相復過於是。而能安心湛然空寂。逼迫之境自然散失。又作父母師僧之形。乍枕乍抱悲咽流涕。但深念實相體達本無。憂苦之相尋復消滅強軟二縁所不能動。明星出時神僧現曰。制敵勝怨乃可爲勇。能過斯難無如汝者。既安慰已復爲説法。説法之辭可以意得。不可以文載。當於語下随句明了。披雲飲泉水日非喩。即便問曰。大聖是何。法門當云何學云何弘宣。答此名一實諦。學之以般若。宣之以大悲。 『隋天台智者大師別傳』 大正新脩大藏經50巻P193 b段 2行目
※6 煬帝(604-618) 隋の第2代皇帝。楊堅(文帝)の次子。581年(開皇1)晋王に封ぜられ,南朝陳の併合には行軍元帥となり手腕をみせた。こうした功績と母の皇后の偏愛を巧みに利用し、皇太子であった兄の楊勇を失脚させたて皇太子となる。604年(仁寿4)文帝が死ぬと遺詔を改竄し、兄の楊勇などを殺害したうえで位についた。文帝が再び兄の楊勇を立てようとしたため,これを察知した煬帝が先手を打って文帝を弑逆したのだという説もある。即位後は、大運河など土木をしきりに起し、対外的にも積極的に覇権主義をとった。しかし高句麗遠征に失敗、遂に各地の反乱を招き、江都(揚州)でその臣下に殺された。(在位 604-618)
※7 煬帝は後の諡(おくりな)。煬は「あぶる」「やく」「とかす」という意味の文字であり、天に逆らい民を虐ぐの意味だという。
現在の天台山
現在の天台山については筆者の参詣記を御覧頂きたい。
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天台草創期から最澄までの記述は筆者の勉強の為にまとめたものであり、記録した研究成果は参考文献の著者のものである。とくに天台宗の野本覚成師には、著書「聖地 天台山」から長々と引用させて頂いた上に、CBETA 電子佛典の紹介とその利用方法の紹介、数年来のインターネットを介した御教示などとてもお世話になった。野本師なしにこのページをまとめられなかったし、このような知識にも遭遇できなかった。深く感謝するものである。