日本の天台宗

 天台宗の教義の素晴らしさについての説明は天台系のホームページに譲る。筆者も天台大師、妙楽大師、伝教大師の系譜の末裔の端くれである。しかしながら、ここでは伝教大師以前の天台宗と、それ以後の日本の天台宗の違いにスポットを当て、鎌倉仏教なかんずく日蓮系宗派に与えたことがらについて述べる。

●時代の要請たる密教

 伝教大師最澄(767-822)が日本の天台宗を開いたが、それは中国の天台宗をもたらしたものである。しかし、日本の天台宗は純粋な天台宗教義だけを教えとする天台宗ではなかった。

 当時の日本は、新しい仏教たる密教を欲していた。それが時代の要請だったのである。最澄も唐に滞在している間に、密教の相伝を受けている。帰国後も弘法大師空海から密教の儀式を受けている。

●四宗兼学と浄土教

 中国の天台宗は純粋に法華経をもととした天台法華の教義であるが、日本の天台宗は円(天台)・禅(達磨系)・戒(円頓菩薩戒)・密(密教)の四宗を合一兼学していた。

  慈慧大師良源(元三大師)(912-985)は『極楽浄土九品往生義』を著し、恵心僧都源信(942-1017)は念仏最勝を説く『往生要集』を著した。

 このようにさまざまな仏教宗派が研究され修行されていたのが日本天台宗である。それ故、浄土、禅、法華などの鎌倉仏教は日本の天台宗から興った。法然上人(1133‐1212)、栄西禅師(1141-1215)、親鸞聖人(1173‐1262)、道元禅師(1200‐53) ・日蓮聖人(1222‐82)など鎌倉仏教の開祖は、いずれも天台宗に出家し比叡山に学び、そこから離れて自らの新しい宗旨を開いた。

●天台宗の密教化

 天台の教義を主にして、密教、禅、浄土なども研究されることならともかく、天台の教義を傍らにおいて、密教を主にされることがあれば、それは純粋な天台教学から見れば芳しくない。

  実際にそのことが現実となる。とくに台密の大成者たる安然は、円珍が主張した密教優位の立場をさらに発展させた。天台伝統の四教(蔵教・通教・別教・円教)の上に密教をおいて五教教判をうちたて、顕劣密勝(顕教は劣り密教は勝る)、法華劣大日勝(法華経は劣り大日経が勝る)を唱えた。

●中古天台本覚思想

 日本の天台宗の密教化にともない、口決(数少ない選ばれた者に密か 口伝すること)や秘伝など大切な法門の口伝主義が発生した。とくに、平安末期の院政時代から鎌倉末期には、比叡山の僧風が堕落し、このような口伝主義が重視され、対して経・論などによる教相主義(文献主義)が衰退した。それにより、伝統的な経典や論書に説かれていることよりも、秘密裏の口伝により伝えられることが重視される。こ の教相を離れ、秘密裏の口伝を重視することで恣意的な解釈も行われ、口伝がさらに口伝を生んで教義の変遷を起こしてしまう。しかも、この本覚思想の門戸を閉ざした秘密主義と口伝主義は、先師に仮託した偽書や相伝を捏造することも厭わなかった。

 中古天台本覚思想は、現実を絶対肯定し、現実の凡夫の何気ない振る舞いそのものが仏の顕現とみなされる。凡夫の本来覚体(本来から悟りをもっている)を説く。極端な思想であるが、部派仏教(小乗仏教)にも客塵煩悩というものがあり、『涅槃経(大乗)』『維摩経』など如来蔵思想を説く中期大乗の経典もある。しかし、教義もさることながらここで問題としたいのその前述の相伝方法と教相軽視である。

 天台法華の末裔の門流に、この影響をもろに受け教義を変遷させてしまった門流もある。ともかく、彼らだけでなく、天台法華の法灯を引き継ぐ宗旨は、天台大師、伝教大師最澄、宗祖、派祖の文献学的に真撰として間違いのない文献をもとに自らの宗義を検証するべきだと思う。

苦滅の仏法 その本質へ