妙見宮
広済寺は妙見宮をまつるお寺である。
「摂津名所図絵」によると天徳元年(957)多田満仲が、矢文を放つと、矢文石に当たり妙見宮をこの地にまつったとされる。実に千年を越える歴史をもつ妙見宮である。妙見宮は、北極星を神格化したものである。
多田満仲と久々知の関わり
広済寺のある久々知は、姓氏録にある猪名の裔、久々智氏が本拠地とした地であるとされるそうだ。そして、その久々智氏は後に多田院の御家人となっている。弘安元年(1278)多田院金堂上棟に際し、久々智兵衛尉が馬一疋を引進めている(「金堂上棟引馬注進状」多田神社文書)。正和五年(1316)の塔婆落慶供養の際には他の御家人とともに警固に出仕している(「多田院堂供養指図」多田神社文書)。
妙見宮としては能勢妙見が関西では有名であるが、こちらは平安中期に能勢頼国(多田満仲の孫)の創立と伝える妙見宮である。その妙見宮を慶長年間(1596~1615)に日蓮宗の僧侶である日乾上人が開祖となり再興している。平安時代に勧請されたと伝わる多田満仲の家系による妙見宮を、江戸時代初期に日蓮宗僧侶が再興するというところに、広済寺の久々知妙見宮と能勢妙見宮の共通点がある。そして、双方とも江戸期に賑わったことが『摂津名所図絵』に掲載されている。
久々知は猪名川と神崎川が合流する地に近い。猪名川を遡ると多田院がある。多田満仲、多田院、多田氏御家人としての久々智氏、能勢妙見宮、久々知妙見宮それらに何らかの関わりがあるかも知れないが、適当な資料が見つからない。
禅宗寺院としての広済寺
平安時代に勧請されたとのことであるから、久々知の妙見宮は広済寺より先に存在していたのであろう。先述の通り広済寺はもともと禅宗寺院である。日本に禅宗が弘まったのは鎌倉時代であるから、禅宗だった広済寺はそれ以後のことであろう。
なりより、広済寺という寺院名は禅宗に多い名前だそうだ。日蓮宗・法華宗であれば、天台法華にまつわる「妙」「法」「蓮」「経」「本」「円」「久」「遠」などの漢字がつくお寺が多い。
南北朝時代の戦禍
南北朝時代(1336-92)に入ろうとする元弘三年(1333)の閏二月から三月にかけて摂津で行われた赤松円心軍と六波羅軍の合戦の際には「久々智・酒部(現:坂部)」に陣取る赤松軍が阿波小笠原勢に攻め寄せられて小屋野(現伊丹市)まで撤退している(「太平記」巻八)。その時に、当時禅宗だった広済寺は戦禍に遭い荒れ寺になったようだ。
日蓮宗寺院として開山
禅宗の広済寺を日蓮宗寺院として開山した如意珠院日昌上人は、大阪の寺島(現在の松島)に有った船問屋、「尼崎屋吉右衛門」の次男として生まれたと伝えられる。「正運院日遶上人」を師とし修行を重ねられた。
正徳四年(1714)二月二十五日、日昌上人はたまたま「これ仏縁の里、必定法華繁盛のところ」と久々知妙見宮の示現をこうむり、この地に廣濟群生の精舎建立の地と決定された。日昌上人の発願により、本堂、妙見宮などの建立事業が進行したが、この時の発起人の中には、近松門左衛門のほか、当時の久々知の領主武蔵国忍藩代官「生野郡太夫盈次(たねつぐ)」、近松門左衛門の作品出版を引き受けていた「正本屋九右衛門(山本治重)」、歌舞伎役者「嵐三右衛門」、「佐野川万菊」、「藤川正松」などの名があげられる。
荒廃した禅宗寺院を日蓮宗寺院として復興開山した背景には、江戸時代の宗教政策により新寺建立ができなかったという事情もあったかも知れない。また、寺請制度による寺檀制度が固定化し、他の寺の檀徒への布教を禁じられた。そのなかで、新興寺院が新たな信徒を獲得する方便(手段)として妙見宮への信仰を布教の方便とする考えがあったのかも知れない。